平成22年2月21日(日)に訪れた山添村の大字毛原。
豊原山(ほうげんざん)長久寺(ちょうきゅうじ)で行われる子供の涅槃であるが、既に終わっていた一週間後だったのだ。
付近を散策して尋ねたお家の人に教えてもらった子供の涅槃は15日に近い土曜辺りに行われているようだった。
子供の涅槃は中学三年生までの男児だけ行われていたが少子化によって女児も参加できるようされた。
かつて、朝からお米集めをしていたが今はしていない。
長久寺でお参りして掛け軸を掲げた構造改善センターに集まって出される子供の膳。
大幅に簡略化されて好きなカレーライスになった。
それでは寂しいというわけでおすまし汁は今でも出していると話していた。
もしやこの日であろうと判断してやってきた大字毛原。
名阪国道の小倉より南下しようと思ってインターチェンジを出たが、生憎の雪積で「やまなみロード」は走り抜ける状態ではなかった。
幹線道路であれば除雪しているであろうと思って針に戻った。
そこから一路南下する国道369号線。
ここら辺りは積もった雪が多い。
なにもかもが真っ白である。
車の屋根に積もっている量はおそらく20cm。
平坦ではとうに溶けている。
白石を抜けて「外の橋」信号を左に入れば室生に繋がる。
それまでの幹線道路は奇麗に除雪していて難なく通れるが、曲がった道路はそうではない。
なんとか通って次の信号を左に曲がれば室生の無山。
早朝であればバリバリに凍っていたであろう。
笠間川を下るに沿って走る多田、染田、小原。日陰の道路は危険な状態。
気をつけながら運転する。
上笠間、下笠間を抜ければ山添村の毛原に着く。
一部の道路は凍っていてビクビクしながらのノロノロ運転だった。
到着したときは12時過ぎ。
村の構造改善センターではカレーの臭いが漂っていた。
賑やかな声が聞こえる。
集まって食べていたのは28人の親子さん。
閉めた扉に声をかけたが返答がない。
仕方なく長久寺に伺った。
出てこられた婦人は京都東寺の人。
本来ならば15日に行われる子供の涅槃であったが、前日に降った大雪でやむなくこの日にしたと云う。
時間はこれより1時間前。
掛軸を本堂に掲げて涅槃の和讃を唱えていたと云う。
和讃を唱えていたのは村の大師講。
正式名称は「東寺大師講長久寺支部」である。
村の大師講を勤める婦人たち。
最近は若い女性(60歳代)も加入されて30人ぐらいになったと話す。
左手にリンを持って右手で鉦を打ちながら和讃を唱える。
およそ10分の和讃だそうだ。
平成22年に聞き取っていた東寺大師講のいきさつ。
ことの起こりは昭和12年に遡る。
中興の祖とされる智龍和尚が明治七年に大師信仰の修行道場として造られた四国八十八カ所を模した霊場「大師山」を開基された。
いわゆる写し霊場である。
そこにあった大師湯をやむなく閉ざされた。
このときにせめてもと結成された長久寺観音講。
当時は毎月17日に勤行されていた。
折にふれ大師修行和讃などを唱えて、近隣の村を巡礼しつつ浄財を集めていた。
昭和22年、京都の東寺へ所属する関係で初瀬寺派から東寺派本山のご詠歌に切り替わった。
昭和26年に東寺大師講長久寺として認められ今日に至っていると話されたことを思い出した。
長久寺はかつて奈良東大寺戒壇院の末寺であったが、現在は京都真言宗東寺本山とする関係寺だ。
この日に行われるお勤めに京都から出仕されるご住職。
通りすがりの男性が話したお勤めは隣村の勝原、三カ谷に於いても法要がある。
一日に三カ所も勤める法要で走り回っていると話す。
子供の涅槃にはキナコメシを供えると云う。
長久寺は普段は無住寺。
お勤めがある度に京都から駆け付けると云う。
下って下笠間の住民家に立ち寄った。
度々の民俗行事でお世話になっている。
ご主人の話しによれば3月21日にもお勤めがあるらしい毛原の長久寺。
毎月のお勤めは一度拝見したいと思った。
(H26. 2.16 EOS40D撮影)
豊原山(ほうげんざん)長久寺(ちょうきゅうじ)で行われる子供の涅槃であるが、既に終わっていた一週間後だったのだ。
付近を散策して尋ねたお家の人に教えてもらった子供の涅槃は15日に近い土曜辺りに行われているようだった。
子供の涅槃は中学三年生までの男児だけ行われていたが少子化によって女児も参加できるようされた。
かつて、朝からお米集めをしていたが今はしていない。
長久寺でお参りして掛け軸を掲げた構造改善センターに集まって出される子供の膳。
大幅に簡略化されて好きなカレーライスになった。
それでは寂しいというわけでおすまし汁は今でも出していると話していた。
もしやこの日であろうと判断してやってきた大字毛原。
名阪国道の小倉より南下しようと思ってインターチェンジを出たが、生憎の雪積で「やまなみロード」は走り抜ける状態ではなかった。
幹線道路であれば除雪しているであろうと思って針に戻った。
そこから一路南下する国道369号線。
ここら辺りは積もった雪が多い。
なにもかもが真っ白である。
車の屋根に積もっている量はおそらく20cm。
平坦ではとうに溶けている。
白石を抜けて「外の橋」信号を左に入れば室生に繋がる。
それまでの幹線道路は奇麗に除雪していて難なく通れるが、曲がった道路はそうではない。
なんとか通って次の信号を左に曲がれば室生の無山。
早朝であればバリバリに凍っていたであろう。
笠間川を下るに沿って走る多田、染田、小原。日陰の道路は危険な状態。
気をつけながら運転する。
上笠間、下笠間を抜ければ山添村の毛原に着く。
一部の道路は凍っていてビクビクしながらのノロノロ運転だった。
到着したときは12時過ぎ。
村の構造改善センターではカレーの臭いが漂っていた。
賑やかな声が聞こえる。
集まって食べていたのは28人の親子さん。
閉めた扉に声をかけたが返答がない。
仕方なく長久寺に伺った。
出てこられた婦人は京都東寺の人。
本来ならば15日に行われる子供の涅槃であったが、前日に降った大雪でやむなくこの日にしたと云う。
時間はこれより1時間前。
掛軸を本堂に掲げて涅槃の和讃を唱えていたと云う。
和讃を唱えていたのは村の大師講。
正式名称は「東寺大師講長久寺支部」である。
村の大師講を勤める婦人たち。
最近は若い女性(60歳代)も加入されて30人ぐらいになったと話す。
左手にリンを持って右手で鉦を打ちながら和讃を唱える。
およそ10分の和讃だそうだ。
平成22年に聞き取っていた東寺大師講のいきさつ。
ことの起こりは昭和12年に遡る。
中興の祖とされる智龍和尚が明治七年に大師信仰の修行道場として造られた四国八十八カ所を模した霊場「大師山」を開基された。
いわゆる写し霊場である。
そこにあった大師湯をやむなく閉ざされた。
このときにせめてもと結成された長久寺観音講。
当時は毎月17日に勤行されていた。
折にふれ大師修行和讃などを唱えて、近隣の村を巡礼しつつ浄財を集めていた。
昭和22年、京都の東寺へ所属する関係で初瀬寺派から東寺派本山のご詠歌に切り替わった。
昭和26年に東寺大師講長久寺として認められ今日に至っていると話されたことを思い出した。
長久寺はかつて奈良東大寺戒壇院の末寺であったが、現在は京都真言宗東寺本山とする関係寺だ。
この日に行われるお勤めに京都から出仕されるご住職。
通りすがりの男性が話したお勤めは隣村の勝原、三カ谷に於いても法要がある。
一日に三カ所も勤める法要で走り回っていると話す。
子供の涅槃にはキナコメシを供えると云う。
長久寺は普段は無住寺。
お勤めがある度に京都から駆け付けると云う。
下って下笠間の住民家に立ち寄った。
度々の民俗行事でお世話になっている。
ご主人の話しによれば3月21日にもお勤めがあるらしい毛原の長久寺。
毎月のお勤めは一度拝見したいと思った。
(H26. 2.16 EOS40D撮影)