マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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三谷菅原神社御田祭

2014年09月06日 08時06分11秒 | 桜井市へ
昭和56年に発刊された『桜井市史 民俗編』によれば、かつては2月11日にケイチン鬼打ち行事が、3月7日には御田祭が行われていた大字三谷。

史料には御田祭の田植所作はしていないが、ケイチン鬼打ちは神官がしていたと書かれてあった。

度々訪れて、その状況を村人に尋ねても、田植えの道具は祭典で祭るが、所作のことは籾種を撒くぐらいしか口に出なかった。

平成24年4月7日平成25年3月23日に訪れた三谷菅原神社には祭典を終えた御田祭の残骸があった。

ハナカズラ、サカキ、松苗、お札挟んだ木である。

焼却場に捨ててあったのは弓・矢・的だった。

前年の12月1日に行われた山の口座の神縄掛祭の際に拝見した宝庫に納めていた御田祭の道具があった。



そこにはカラスキや備中クワ・スキがあったのだ。

それは遣わないと話していた村人たち。

遣わない御田祭の道具の答えになにか隠しているのではと思うような口ぶりであった。

10時から事前作業をして、午後1時から祭典だと云っていたので早めに出かけた。

菅原神社にやってきたのは4人の人足だ。

鳥居に笹を立てて、道具類を社務所廊下に置く。

神饌は神饌所に納められた。



農道具のカラスキや備中クワ・スキは宝庫から出して拝殿に置いた。

そこには牛の背中にのせる鞍もあった。

その宝庫、出そうと思ったらミツバチがわんさか出てきた。



「えらいこっちゃや」と云って藁束を持ってきて、火を点けた。

ハチが嫌う煙で追い出すということだ。

準備ができたからと云って他には何もすることがなく人足たちは休息をとる。

遠くからイカルの囀りが聞こえてきた。

ホーホケキョと美しく鳴いたウグイスにチョットコイと鳴くコジュケイもいる長閑な時間帯である。

並べられた道具を拝見すれば、ごーさんの宝印があった。



かつて神社前の山にある地蔵院でオコナイがあったというから、そのときに使われていたのかどうか村人も知らず、である。

子供の頃だったと云うから、今より50年以上も前のことのようだ。

一旦、帰宅されて戻ってきた人足たちが再びやってくるのは12時半。

「みんなが来て祭具作りをするんで、それより前に来とかな」と云っていたが、先に着いたのは笠の橋本宮司だ。

三谷は橋本宮司が生まれた地。

母屋にあたる菅原神社が主であると云う。



その直後にやってきた87歳の長老はさっそくハナカズラを作っていく。

藁一束を真ん中で割って、折った半束を添えて藁で括る。

中央に洗い米を包んだ紙を挟んでいく。

両側に葉付きのシキビを挿し込んでできあがる。



「若いもんに伝えなくては」と云って作り方を宮総代らに伝授された長老の顔は笑みで零れる。

こうして作ったハナカズラの本数は5本だ。

オン松・メン松をひと括りにして籾種を詰めたオヒネリとともに藁で括る。

一方、前庭に設える神田作りも同時併行作業。



四方に杭を打ち込んで忌竹を立てる。

注連縄を張って紙垂れを取り付ける。

「ここで御田の所作をするんだ」と云う。

一方の長老は矢作りだ。



適度な長さにススンボを切断する。

もう一人の長老は的にする竹割り作業。

真竹はしなりがあって良いと云う。

ススンボの先を削って割る。



紙の羽根を取り付けてできあがる。

長老は矢作りだけでなく、かつてオコナイをされていたと思われるヤマウルシの木を適度な長さに伐る。



先のほう、これもまた適度な長さに皮を剥いで、先をナタでT字型に割っていく。

弓は桜の木だ。

「今年の木は太いなぁ」と云いながら曲げて弦を取り付ける。



一人作業ではできないから二人がかりだ。

それぞれの道具作りは長老たちだが、役割は特に決まっていない。

羽根も取り付けて赤テープを巻いて固定するのは少し若い人。

的を作るのも若い人たちだ。



杭を打ち込んで左右に竹を立てる。

水平に一本の竹を取り付ける。

蓆を垂らしてできあがり、ではなく、竹で編んだ的も作っていく。



割いた青竹で骨部分を作る。

その間、お札作りも並行作業だ。



「菅原神社 牛王」の文字を墨書する。

枚数は5枚だった。

後方の的作りは糊を付けて半紙を一枚、一枚貼っていく。

的の枠を足で引っかけたらえらいことになる。

せっかく作った的の枠に「近寄ったらあかんで」と云いながら作業を進める。



ごーさんの宝印は朱のスタンプ押しだ。

形は他所でも見たことがないような宝印である。



それをT字型に三つ割きにしたヤマウルシに挟んでできあがる。

的は中央に三重丸を描く。



上部に「鬼」の文字を書いてできあがった。

吊るす紐を取り付けて、的場に運ぶが、壊さないように慎重に運んだ。



紐を掛けて吊るしてみるが、地球の引力に負けて的枠が下がってしまう。

糊付けは半乾きだったのだ。



こうして一切の祭具作りが終わった。

昔はカラスキ・クワ・スキのミニチュア農具も作っていたと云う。

それぞれ三つずつ作って、番号を付けたミニチュア農具は祭典を終えて村の子供にあげていたと云う。

区長、宮総代であろうが氏子全員で行った手作りの祭具が揃えば、拝殿で神事が行われる。

ワイワイ云いながら作業をしていた氏子たち全員は静かに座る。

神事は祓えの儀、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌であるが、祝詞は祈年祭と御田祭の二つがある。

「かけまくもかしこみ・・・」と祓えの際には一同揃って起立だ。



祓えは田植の所作をする祭場や農具・ハナカズラなどを含めて鬼的にもされる。

村の五穀豊穣と悪病祓いを祈願する。

「かけまくもーかしこみ かしこみもうさく 大地の恵みを与えてくだされ」とたてまつる。

災いを祓い、村の安全を祈願する。

「スキ クワ クマデ・・・四隅にさしそえ 宮座のハナカズラ マツナエ申し モノを造りて 鬼打ちのオコナイをば もろもろの鬼を打ち・・・」。

「田作りを初めの行事 モミダネをまき みずほの国」と祝詞を奏上された。

神事を終えた村人たちは御田植の斎場に移った。

87歳の長老が「こういう具合にするんや」と云って祭場で耕すスキの所作。

半周回ぐらいに動きながらの所作はサクサクとしてあっという間に終わった。



「おまえがやれって」伝えられた男性はカラスキを抱えて荒起こしの所作をしたが、周回もせずにちょいちょいで終わった。

牛の鞍はあったが、所作は見られなかった。



クワで耕す所作もちょいちょいだ。

実にあっさりした所作である。



松苗も植えていくが本数は8本だ。

「稲刈りもしとかな」と云われて、すぐさま松苗を拾っていく。

雑にみえた所作ではあるが、旧来どおりの作法を演じる三谷の御田植である。

村人が僅かしか話さなかった理由。

他人さんにはあまり見せたくなかったからでは・・と思ったが、かつて牛で農耕をしていた時代は本物の牛を連れてきて所作をしていたと話す。

斎場で「しょんべんはするし、どさっと糞も落とした」と云う。

こうして終えた御田祭の次はケイチンの鬼的打ちになる。



笠の橋本宮司が鬼の的を目がけて矢を一本放つ。

的を射る位置は拝殿前である。



的場との間隔が離れているので全景の写し込みは難しい。

何人かの村人が続いて打っていく。



立ち位置を替えて何枚か撮らしてもらった。

かつては当屋座行事であったが、50年ほど前に村行事に移ったようだ。

矢は合計で10本打った。

わいわい言いながらの手作り感がある三谷の在り方は、逆にほのぼの感がある。

実に楽しそうにされた村行事である。



祭典を終えれば直ちにバタバタと祭場を壊していく。

祭場の忌竹とか鬼的・桜の木の弓は焼却場へ運ばれる。



弓はナタを打って折っていた。



災いを村から排除した弓・鬼は復活しないようにしておくということであろうか。



サカキ・矢・松苗・ヤマウルシのごーさん札は拝殿に置いて持ち帰るようにしておく。

ハナカズラも同じように並べた。



松苗・ヤマウルシのごーさん札・ハナカズラはサナブリと呼んでいる植え初めの際に立てると長老は云っていたが、持ち帰るのは百姓だけだと話す。

一昨年、前年に拝見した残骸があった本数はこの年とほとんど変わりなかった。

減算してみれば一軒ぐらいのように思えた。

ちなみに三谷に高野真言寺の地蔵院がある。

正月二日は年始で檀家が集まる。

その月の24日は地蔵講の集まりがあった。

ウルシの木に牛玉宝印こと地蔵印を括りつけて地蔵尊に供えると『桜井市史 民俗編』に書いてあった。

その行事は昭和30年代に中断されたもようである。

もしかとすれば、「菅原神社 牛王」のお札に押した宝印は地蔵院の地蔵印であったかも知れない。

地蔵講は解散されたが三谷には大師講がある。

3月の春彼岸に大師講の営みがある


秋彼岸にもあったが、今は春彼岸だけになったと話していた。

(H26. 3. 2 EOS40D撮影)