山添村切幡に住むTさんが「してますで」と云っていた社日のミトマツリ。
この年は3月18日である。
小雨が降ってきたこの日であっても切幡ではするのだろうかと思って電話をかけた。
「お爺ちゃんが、明日は社日やいうて、ウルシや梅の木、ツバキを採っていたで」とお嫁さんが答える。
「朝にしてはんのやけど、午前中は所用があって出かけているから、午後にするやろと思います」と伝えられた。
時間を調整して訪れた切幡のT家は、奈良で名高い三輪素麺を委託製造している。
作業を終えてそろそろ始めようかと云って準備するTさん。
ウルシ棒に挿しているのは正月七日に極樂寺で行われたオコナイのお札だ。
切幡のオコナイは北出と下出の村行事である。
上出は「極楽寺」を墨書して、下出はかつてあった「常住院」の文字が書かれる。
ごーさんの宝印を押して参拝した村人にお札が配られる。
かつては当番の人がウルシの木も準備して、お札を挿していたが、今はお札配りだけになったオコナイ行事。
二枚のモチを供えておく。
行事が終わって帰るときに一枚貰う。
残りの一枚はトーヤが貰う。
それをワカモチと呼んでいた。
オコナイのトーヤは二人。上出・下出の二人である。
アイトーヤが採ってきたウルシ棒。
T字型に割いて墨書したお札を挿し込んでいた。
20年前の在り方である。
ウルシの棒がなくなってお札配りだけになったオコナイ。
仕方なく、Tさんは山で採ってきたウルシ棒をT字型に割って、そこに挿していく。
これ以外にお盆に載せた洗い米・小豆御供も準備する。

20年前には4月3日に神明神社で御田植祭をしていたと云う。
所作はないが、供えるのは杉苗で、村人に配っていたが、それもまた中断したと云う。
素麺業の前は凍り豆腐を作っていた同家。
急がしかった時代の先代は年末に正月のモチを搗いていた。
できたてのモチを千切ってツツジの枝の先に丸めるように挿していた。
ツツジの木の枝すべてにモチを挿した。
それをナリバナと呼んでいた。
先端から中央辺りまで、「モチの重さでだらりんとなって、それは見事なナリバナやった」と話す。
ナリバナは床の間に一年間飾っておく。
いつの日か思い出せないが、アオマメと煎ったハゼコメを一升枡に入れてキリコのモチを食べていた家の風習は「ハガタメや」と云うが、「今ではまったくしていませんなぁ」と云った。
年末の大晦日も「フクマル コッコイ」と声をあげる「フクマル迎え」もしていたが、素麺業が忙しくなったころから出かけられないようになったと話す。
そのようなかつての様相を話してくれたTさんは、家の前にある田んぼに向かう。
いつもの場の土手に挿すTさん。

「雨に濡れてはあかんやろ」と云ってお札はビニール袋に包んだ。
花が咲いたヤマツバキと梅の木も立てる。
お盆に半紙を敷いて洗い米と小豆を供える。

そうして手を合わす。
立ち去る際にはお盆を下げる。
「もう一軒しているはずや」と教えてもらった北出の畑。
オリエンタルシューズ工場に向かう道すがらにあるはずだと教えてもらったが、見つからなかった。
切幡では下出でもう1軒されている。
合わせても、たった3軒で行われている社日のミトマツリはそれぞれの家の在り方のようだ。

しばらく会話して帰ろうとしてその場を見ればカラスがいた。
お供えを乗せていた半紙が風で飛んでいった。
飛ばないように半紙の端を泥で抑えていたのであるが、カラスはお米と小豆を食べた際に半紙を足で蹴った泥がとれてしまったようだ。
(H26. 3.18 EOS40D撮影)
この年は3月18日である。
小雨が降ってきたこの日であっても切幡ではするのだろうかと思って電話をかけた。
「お爺ちゃんが、明日は社日やいうて、ウルシや梅の木、ツバキを採っていたで」とお嫁さんが答える。
「朝にしてはんのやけど、午前中は所用があって出かけているから、午後にするやろと思います」と伝えられた。
時間を調整して訪れた切幡のT家は、奈良で名高い三輪素麺を委託製造している。
作業を終えてそろそろ始めようかと云って準備するTさん。
ウルシ棒に挿しているのは正月七日に極樂寺で行われたオコナイのお札だ。
切幡のオコナイは北出と下出の村行事である。
上出は「極楽寺」を墨書して、下出はかつてあった「常住院」の文字が書かれる。
ごーさんの宝印を押して参拝した村人にお札が配られる。
かつては当番の人がウルシの木も準備して、お札を挿していたが、今はお札配りだけになったオコナイ行事。
二枚のモチを供えておく。
行事が終わって帰るときに一枚貰う。
残りの一枚はトーヤが貰う。
それをワカモチと呼んでいた。
オコナイのトーヤは二人。上出・下出の二人である。
アイトーヤが採ってきたウルシ棒。
T字型に割いて墨書したお札を挿し込んでいた。
20年前の在り方である。
ウルシの棒がなくなってお札配りだけになったオコナイ。
仕方なく、Tさんは山で採ってきたウルシ棒をT字型に割って、そこに挿していく。
これ以外にお盆に載せた洗い米・小豆御供も準備する。

20年前には4月3日に神明神社で御田植祭をしていたと云う。
所作はないが、供えるのは杉苗で、村人に配っていたが、それもまた中断したと云う。
素麺業の前は凍り豆腐を作っていた同家。
急がしかった時代の先代は年末に正月のモチを搗いていた。
できたてのモチを千切ってツツジの枝の先に丸めるように挿していた。
ツツジの木の枝すべてにモチを挿した。
それをナリバナと呼んでいた。
先端から中央辺りまで、「モチの重さでだらりんとなって、それは見事なナリバナやった」と話す。
ナリバナは床の間に一年間飾っておく。
いつの日か思い出せないが、アオマメと煎ったハゼコメを一升枡に入れてキリコのモチを食べていた家の風習は「ハガタメや」と云うが、「今ではまったくしていませんなぁ」と云った。
年末の大晦日も「フクマル コッコイ」と声をあげる「フクマル迎え」もしていたが、素麺業が忙しくなったころから出かけられないようになったと話す。
そのようなかつての様相を話してくれたTさんは、家の前にある田んぼに向かう。
いつもの場の土手に挿すTさん。

「雨に濡れてはあかんやろ」と云ってお札はビニール袋に包んだ。
花が咲いたヤマツバキと梅の木も立てる。
お盆に半紙を敷いて洗い米と小豆を供える。

そうして手を合わす。
立ち去る際にはお盆を下げる。
「もう一軒しているはずや」と教えてもらった北出の畑。
オリエンタルシューズ工場に向かう道すがらにあるはずだと教えてもらったが、見つからなかった。
切幡では下出でもう1軒されている。
合わせても、たった3軒で行われている社日のミトマツリはそれぞれの家の在り方のようだ。

しばらく会話して帰ろうとしてその場を見ればカラスがいた。
お供えを乗せていた半紙が風で飛んでいった。
飛ばないように半紙の端を泥で抑えていたのであるが、カラスはお米と小豆を食べた際に半紙を足で蹴った泥がとれてしまったようだ。
(H26. 3.18 EOS40D撮影)