天理市藤井町の子供の涅槃を見届けて、天理ダムを挟む向こう山の長滝町へ向かった。
藤井の取材の合間に訪れた地蔵寺が涅槃さんの場となる。
本堂には地獄絵図と涅槃図のお軸を掲げていた。
藤井町もそうであるが、長滝町も掛軸が傷んだので何年か前に表装しなおしたそうだ。
いずれも年代記銘を示す墨書は見られなかった。
長滝町の涅槃さんも聞いてから3年目。
ようやく拝見できることになった。
涅槃さんが始まるまでにお供えを1戸ずつ持ってくる村の人。
大きいものだけに、祭壇下にずらりと並べていた。
親しみを込めて涅槃さんと呼ぶ会式は長滝町の村行事。
家で昼食を摂ってから集まってくる。
導師を勤めるのは念仏講と婆講の婦人たち。
それぞれの営みは講中の当番が決めるらしく、だいたいが15日頃だと云う。
念仏講は4人、婆講は8人の老婦人たち。
念仏講は毎月の営みであるが、婆講は春・秋の彼岸と十夜にお勤めをするそうだ。
これもまた当番の都合で日程は落ち着かないが、いずれは取材したいとお願いした。
長滝町の涅槃さんはかつて2月15日であったが、ヨモギもまだ生えていないから3月に移したと云う。
これまでに何度か行事を取材してきた長滝町。
何人かはお顔を知っているので「よー来たな」と云われる。
かつては子供の涅槃があった長滝町。
子供が30人も居た時代は昼食、夕食ともヤド家で15人ずつに分かれてよばれていたそうだ。
ホウラクで煎ったキリコ(千切ったモチ)を食べていたが、いつしかお菓子になったと老婦人が話す。
かつてはキリコを苗箱におましていたとも話す。
昼はカレー、夜はちらし寿司だった時代もあったが、村で生まれた子供は撃滅した。
それからかどうか定かではないが、村行事に移して、講中が地蔵寺で念仏を唱えるようになったと云う。
子供が生まれた家は米と餅米を半々混ぜた米を挽いて粉にして作ったダンゴを供える。
シロダンゴとヨモギを混ぜて練って作ったダンゴはヨゴミ(ヨモギが訛った)のクサダンゴと呼んでいたが、この日にお勤めをする講中は「センダンゴや」と云っていた。
老婦人の話しは「本堂に安置した小安地蔵に参って安産を願います。願いが叶って子供が生まれたらセンダンゴを作って供える」であったが、今年は村外で生まれた外孫。
本堂の小安地蔵に参って安産を願った家は、願いが叶って子供が誕生すればセンダンゴを作って供えるのである。
村内で誕生(ウチ孫)した場合は、トウヤ家で涅槃をすると云っていたが、若い人は皆無で老人ばかりの村ではその姿を見ることもできなくなったと話す。
みんなが揃ったようだと区長がはじめの挨拶。
次に念仏講と婆講の二人が代表して「導師を勤めます」と挨拶された。
講中は浄土宗総本山の京都知恩院派。
香偈、三宝礼、四奉請、歎仏偈、懺悔偈、十念、開経偈、四誓偈、本誓偈などの念仏を唱えた。
浄土宗勤行はもっと長いのであるが「本日はここまで」と終えた。
お釈迦さんが亡くなったときを表現している涅槃さんの謂れや長滝町の戦前の様子などを話す導師。
いつまでも行事が続いてほしいという願いで導師の昔話に移った。
村人に見てもらいたくて、かつてはヤドでよばれていた涅槃の献立をわざわざ作ってもってきた料理を披露される。
村には分教場もあったぐらいに子供が大勢いたころ、4kmの道を通ったと話した時代は昭和初期の戦前まで。
親に作ってもらった草履は、二日間しかもたなかった戦争時代の体験談は食糧難。
ぜいたくができなかった時代は、質素な「膳」を食べたとか、ジンベサンに風呂敷き包みで通ったとかお話しされる。
「膳」と呼ぶ涅槃の料理を懐かしそうに見る人もおれば「始めて見たわ」という若い人も魅入る。
献立はチクワ、漬けもの、味付けしたコンニャク、サクラエビを降った菜っ葉の味噌和えであるが、白ご飯を盛った椀とかトーフの汁椀もあった6品の盛り。
当時は脚がある膳だった。
涅槃料理の披露を済まして、最後は般若心経を一巻唱えて終わった。
涅槃の会式を終えたお供えは大きな箱から取り出して、一人、一人に配られる。
何箱もあるからまるで戦場のような様相になった。
その間をぬってコジュウタに入れたセンダンゴもひとつずつ袋にポイポイと入れていく。
まだあるからと云って、もうひと廻り。
持って帰る袋包みは抱えることもできないから風呂敷に包んで担いで帰った。
ちなみに長滝町の閏年のトアゲは旧暦でなく新暦である。
旧暦は村人にとって判り難く、「毎回、いつごろするねん」という意見がでる。
そういうことで、誰しも判りやすい4年ごとのオリンピックの年に替えたそうだ。
というわけで、次回のトアゲは2016年のブラジル開催のリオ・デ・ジャネイロオリンピックの年の4月29日である。
(H26. 3. 9 EOS40D撮影)
藤井の取材の合間に訪れた地蔵寺が涅槃さんの場となる。
本堂には地獄絵図と涅槃図のお軸を掲げていた。
藤井町もそうであるが、長滝町も掛軸が傷んだので何年か前に表装しなおしたそうだ。
いずれも年代記銘を示す墨書は見られなかった。
長滝町の涅槃さんも聞いてから3年目。
ようやく拝見できることになった。
涅槃さんが始まるまでにお供えを1戸ずつ持ってくる村の人。
大きいものだけに、祭壇下にずらりと並べていた。
親しみを込めて涅槃さんと呼ぶ会式は長滝町の村行事。
家で昼食を摂ってから集まってくる。
導師を勤めるのは念仏講と婆講の婦人たち。
それぞれの営みは講中の当番が決めるらしく、だいたいが15日頃だと云う。
念仏講は4人、婆講は8人の老婦人たち。
念仏講は毎月の営みであるが、婆講は春・秋の彼岸と十夜にお勤めをするそうだ。
これもまた当番の都合で日程は落ち着かないが、いずれは取材したいとお願いした。
長滝町の涅槃さんはかつて2月15日であったが、ヨモギもまだ生えていないから3月に移したと云う。
これまでに何度か行事を取材してきた長滝町。
何人かはお顔を知っているので「よー来たな」と云われる。
かつては子供の涅槃があった長滝町。
子供が30人も居た時代は昼食、夕食ともヤド家で15人ずつに分かれてよばれていたそうだ。
ホウラクで煎ったキリコ(千切ったモチ)を食べていたが、いつしかお菓子になったと老婦人が話す。
かつてはキリコを苗箱におましていたとも話す。
昼はカレー、夜はちらし寿司だった時代もあったが、村で生まれた子供は撃滅した。
それからかどうか定かではないが、村行事に移して、講中が地蔵寺で念仏を唱えるようになったと云う。
子供が生まれた家は米と餅米を半々混ぜた米を挽いて粉にして作ったダンゴを供える。
シロダンゴとヨモギを混ぜて練って作ったダンゴはヨゴミ(ヨモギが訛った)のクサダンゴと呼んでいたが、この日にお勤めをする講中は「センダンゴや」と云っていた。
老婦人の話しは「本堂に安置した小安地蔵に参って安産を願います。願いが叶って子供が生まれたらセンダンゴを作って供える」であったが、今年は村外で生まれた外孫。
本堂の小安地蔵に参って安産を願った家は、願いが叶って子供が誕生すればセンダンゴを作って供えるのである。
村内で誕生(ウチ孫)した場合は、トウヤ家で涅槃をすると云っていたが、若い人は皆無で老人ばかりの村ではその姿を見ることもできなくなったと話す。
みんなが揃ったようだと区長がはじめの挨拶。
次に念仏講と婆講の二人が代表して「導師を勤めます」と挨拶された。
講中は浄土宗総本山の京都知恩院派。
香偈、三宝礼、四奉請、歎仏偈、懺悔偈、十念、開経偈、四誓偈、本誓偈などの念仏を唱えた。
浄土宗勤行はもっと長いのであるが「本日はここまで」と終えた。
お釈迦さんが亡くなったときを表現している涅槃さんの謂れや長滝町の戦前の様子などを話す導師。
いつまでも行事が続いてほしいという願いで導師の昔話に移った。
村人に見てもらいたくて、かつてはヤドでよばれていた涅槃の献立をわざわざ作ってもってきた料理を披露される。
村には分教場もあったぐらいに子供が大勢いたころ、4kmの道を通ったと話した時代は昭和初期の戦前まで。
親に作ってもらった草履は、二日間しかもたなかった戦争時代の体験談は食糧難。
ぜいたくができなかった時代は、質素な「膳」を食べたとか、ジンベサンに風呂敷き包みで通ったとかお話しされる。
「膳」と呼ぶ涅槃の料理を懐かしそうに見る人もおれば「始めて見たわ」という若い人も魅入る。
献立はチクワ、漬けもの、味付けしたコンニャク、サクラエビを降った菜っ葉の味噌和えであるが、白ご飯を盛った椀とかトーフの汁椀もあった6品の盛り。
当時は脚がある膳だった。
涅槃料理の披露を済まして、最後は般若心経を一巻唱えて終わった。
涅槃の会式を終えたお供えは大きな箱から取り出して、一人、一人に配られる。
何箱もあるからまるで戦場のような様相になった。
その間をぬってコジュウタに入れたセンダンゴもひとつずつ袋にポイポイと入れていく。
まだあるからと云って、もうひと廻り。
持って帰る袋包みは抱えることもできないから風呂敷に包んで担いで帰った。
ちなみに長滝町の閏年のトアゲは旧暦でなく新暦である。
旧暦は村人にとって判り難く、「毎回、いつごろするねん」という意見がでる。
そういうことで、誰しも判りやすい4年ごとのオリンピックの年に替えたそうだ。
というわけで、次回のトアゲは2016年のブラジル開催のリオ・デ・ジャネイロオリンピックの年の4月29日である。
(H26. 3. 9 EOS40D撮影)