昨年末の平成25年12月に訪れた桜井市横柿で聞いていた今年が廻り村の今井谷の八講祭。
8年ぶりであるが、日程が決まっておらず予め確認するため立ち寄った。
3月3日のことである。
今井谷住民のMさんが云った。
「今年から談山神社での祭典になった」である。
八講祭は生田(おいだ)・浅古(あさこ)・下(しも)・倉橋・下居(おりい)・今井谷・多武峰・八井内(やいない)の各大字で毎年入れ替る村の行事。
村の小堂に藤原鎌足父子肖像および寒山拾得の掛軸を掲げて祭典をされるのだが、今井谷以外は村から離れて談山神社に移っていた。
唯一、村の小堂で行っていたのが今井谷であった。
平成18年4月2日に取材した今井谷での祭典は最後になったわけだ。
どのような祭典の在り方になるのか、村の人も「来てや」と云われて談山神社へ出かけた。
予め電話してお願いしておいた談山神社。
神職にその旨を伝えれば、「村の行事なので一般の人もあがっていいです」の返答だ。
受付で入山料を払おうとしたが、「村の行事ならどうぞ」ということで受け取らなかった。
祭典の場は神社神廟拝所。「今井谷区奉仕」の案内を貼っていた。
祭典より一時間前に到着した村の人のうち、長老5人は神社神職が手伝いして緑色の狩衣に着替えていく。
8年前はそういうこともなく礼服、或いは平服であった。
装束を身につければ祭典のリハーサルが行われる。

神職の指導で玉串や講式奉戴(こうしきほうたい)の作法、礼拝の並び方、メインである掛軸掛けなどを入念にリハーサルされる。
神影である藤原鎌足父子肖像は4人がかり。
軸掛けの棒を持つ人に合わせて巻き物を回しながら広げる人もつく。
一番年寄りの長老はその様子を見守る。
お軸が斜めにならぬよう見守るのである。
神饌は予め供えて並べていた。
8年前の神饌には寒てん・麩・ダイコン・ゴボウ・ウド・タケノコ・ナガイモ・スルメに扇のような形にしたコンブを盛った立て御膳があった。
50年ぶりに復活した御膳であるが、今回は見られない。
当時は倉橋の長老に教えてもらって島台の高杯に供えたとUさんが云った。
当時の魚はブリやタイもあったが、今回はカマスであった。

三方に載せた古い巻き物は「談山権現講式」だ。
昭和32年発刊に発刊された『桜井町史続 民俗編』によれば、かつて多武峰は神式で、下居は神仏習合、他の村はすべて仏式だったそうだ。
区長の親父さんのUさんの話しによれば横柿・今井谷・生田・浅古・下・倉橋・下居組(下居・針道・鹿路)・音羽組(多武峰・八井内・飯塚盛)の廻りになると云う。
史料によれば、音羽組は大正九年頃に退いた大字北音羽に移ったのである。
その当時だと推定されるが、大字下居は針道・鹿路とともにする組になったようだ。
それまでは旧大字の八カ大字で廻っていた八講祭は村の小堂(八講堂)での営みであった。
行事を終えて、下座受になる次の村が受け取った掛軸は村で保管していたが、今では談山神社預かり。
だが、倉橋だけは村で保管しているとUさんは話す。
かつて村保管だったお軸は八講祭の他、五節句・毎月の3回に掲げて燈明をあげ、7月16日には虫干祭を行っていたと書いてあった。
太鼓打ちの合図に登場した神職と狩衣姿の5人の長老。
祭典の始まりだ。
平成18年に行われた今井谷の八講祭は村の満願寺であった。
先例に倣って今回より祭事の場を替えた今井谷の八講祭奉仕が始まった。
史料によれば、代々世襲する大字長老が扮する禰宜1人・副禰宜2人が奉仕していたとある。
大字によっては狩衣でなく、烏帽子に素襖或いは浄衣にしていたようだ。

祭典次第は神官入堂に始まって神職による修祓。
次が神影(しんえい)奉上となる。
カセットテープが謡う高砂の「尾上の松」が流される。

謡曲に合わせて神影のお軸をそろりそろりと揚げていく。
二人一組で寒山拾得の掛軸の脇立(わきだて)も奉上される。
この場合の謡いは高砂の「四海波」である。
横柿の婦人が云っていた区長預かりのカセットテープのようだ。
8年前に大字今井谷で行われたときは、これら謡いもなく、予め掲げていた。

宮司一拝、献饌、祝詞奏上の次は講式奉戴(こうしきほうたい)だ。
金文字で書かれた巻き物は詠みあげることなく始めの部分を広げるだけである。
僅か数秒で講式奉戴の作法を終えた。

次は神号奉唱で、「なーむたんざんだーいみょうじん(南無談山大明神)」を十遍唱える。
次は謡曲の奉納で「海人」の曲が流される。

玉串拝礼の際には5人の長老が整列された。

撤饌、宮司一拝を経て寒山(かんざん)・拾得(じっとく)の掛軸の脇立奉下である。
その際には高砂の「四海波」が流された。

神影の奉下では高砂の「尾上の松」謡いだった。
こうして祭典は神官らの退出で終えたのである。
かつての八講祭は3月11日が宵宮で、12日が本祭であった。
区長の親父さんが云うには宵宮の夜に下座受になる次の村も祭典に加わっていたそうだ。
羽織袴姿の両大字が向かい合って並び、謡いを掛けあっていたと云う。
本祭を終えた翌日の13日は下座受の生田が再びやってきてお軸を受け取って戻る。
その際にはシキビの葉をお堂の上から投げつけたと話す。
後日(6月28日)に話された迎え。
今井谷の前は横柿になる。
祭典を終えるころに村へ出向き、奉上された神影などを受け取る。
その際には幕だけはいち早く今井谷に持って帰る。
横柿から下った村の道を駆けていった。
そうしてすぐさま満願寺に掲げたと云う。
青年だったころの様相である。
受け取った一行がお寺に到着するころとなれば、ドドン、ドンドンと太鼓を打って迎えたと話す。
八講祭は八カ大字の村々で行われてきた礼拝祭典。
史料によればお軸に「東三郷八講之、談山大明神尊影一軸、並寒山拾得各一軸、於横柿村宝積寺総郷中励力奉修補其功記、発願主深教坊熊岳、元禄十四竜集辛巳(1701)九月十六日、於多武峰開眼供養、導師検校三部都法大阿闍梨権大僧都照泉院法印辯英大和尚位、於北音羽村玉光寺、以八ケ郷中之助力談山大明神尊影一軸、奉修補開眼供養畢、干時嘉永四年辛亥(1851)卯月十八日、導師霊園山聖林寺比丘大心」とある。
来年は生田。
40年前の昔しは預かった区長家で一年間祀っていたと云うだけに、祭典の在り方は、大字ごとの様相を拝見しなくてならない。
Uさんの話しによれば横柿・今井谷・生田・浅古・下・倉橋・下居組(下居・針道・鹿路)・音羽組(多武峰・八井内・飯塚盛)の廻りになると云う。
連続8年間の取材ができるかどうか・・・。
ちなみに6月8日に伺った82歳のUさんが見せてくださった村行事の写真に掛軸があった。
お供えもしている行事は念仏講の集まり。
今井谷には2組あると云う念仏講の掛軸は三尊降臨図のように見えた。
(H26. 3.16 EOS40D撮影)
8年ぶりであるが、日程が決まっておらず予め確認するため立ち寄った。
3月3日のことである。
今井谷住民のMさんが云った。
「今年から談山神社での祭典になった」である。
八講祭は生田(おいだ)・浅古(あさこ)・下(しも)・倉橋・下居(おりい)・今井谷・多武峰・八井内(やいない)の各大字で毎年入れ替る村の行事。
村の小堂に藤原鎌足父子肖像および寒山拾得の掛軸を掲げて祭典をされるのだが、今井谷以外は村から離れて談山神社に移っていた。
唯一、村の小堂で行っていたのが今井谷であった。
平成18年4月2日に取材した今井谷での祭典は最後になったわけだ。
どのような祭典の在り方になるのか、村の人も「来てや」と云われて談山神社へ出かけた。
予め電話してお願いしておいた談山神社。
神職にその旨を伝えれば、「村の行事なので一般の人もあがっていいです」の返答だ。
受付で入山料を払おうとしたが、「村の行事ならどうぞ」ということで受け取らなかった。
祭典の場は神社神廟拝所。「今井谷区奉仕」の案内を貼っていた。
祭典より一時間前に到着した村の人のうち、長老5人は神社神職が手伝いして緑色の狩衣に着替えていく。
8年前はそういうこともなく礼服、或いは平服であった。
装束を身につければ祭典のリハーサルが行われる。

神職の指導で玉串や講式奉戴(こうしきほうたい)の作法、礼拝の並び方、メインである掛軸掛けなどを入念にリハーサルされる。
神影である藤原鎌足父子肖像は4人がかり。
軸掛けの棒を持つ人に合わせて巻き物を回しながら広げる人もつく。
一番年寄りの長老はその様子を見守る。
お軸が斜めにならぬよう見守るのである。
神饌は予め供えて並べていた。
8年前の神饌には寒てん・麩・ダイコン・ゴボウ・ウド・タケノコ・ナガイモ・スルメに扇のような形にしたコンブを盛った立て御膳があった。
50年ぶりに復活した御膳であるが、今回は見られない。
当時は倉橋の長老に教えてもらって島台の高杯に供えたとUさんが云った。
当時の魚はブリやタイもあったが、今回はカマスであった。

三方に載せた古い巻き物は「談山権現講式」だ。
昭和32年発刊に発刊された『桜井町史続 民俗編』によれば、かつて多武峰は神式で、下居は神仏習合、他の村はすべて仏式だったそうだ。
区長の親父さんのUさんの話しによれば横柿・今井谷・生田・浅古・下・倉橋・下居組(下居・針道・鹿路)・音羽組(多武峰・八井内・飯塚盛)の廻りになると云う。
史料によれば、音羽組は大正九年頃に退いた大字北音羽に移ったのである。
その当時だと推定されるが、大字下居は針道・鹿路とともにする組になったようだ。
それまでは旧大字の八カ大字で廻っていた八講祭は村の小堂(八講堂)での営みであった。
行事を終えて、下座受になる次の村が受け取った掛軸は村で保管していたが、今では談山神社預かり。
だが、倉橋だけは村で保管しているとUさんは話す。
かつて村保管だったお軸は八講祭の他、五節句・毎月の3回に掲げて燈明をあげ、7月16日には虫干祭を行っていたと書いてあった。
太鼓打ちの合図に登場した神職と狩衣姿の5人の長老。
祭典の始まりだ。
平成18年に行われた今井谷の八講祭は村の満願寺であった。
先例に倣って今回より祭事の場を替えた今井谷の八講祭奉仕が始まった。
史料によれば、代々世襲する大字長老が扮する禰宜1人・副禰宜2人が奉仕していたとある。
大字によっては狩衣でなく、烏帽子に素襖或いは浄衣にしていたようだ。

祭典次第は神官入堂に始まって神職による修祓。
次が神影(しんえい)奉上となる。
カセットテープが謡う高砂の「尾上の松」が流される。

謡曲に合わせて神影のお軸をそろりそろりと揚げていく。
二人一組で寒山拾得の掛軸の脇立(わきだて)も奉上される。
この場合の謡いは高砂の「四海波」である。
横柿の婦人が云っていた区長預かりのカセットテープのようだ。
8年前に大字今井谷で行われたときは、これら謡いもなく、予め掲げていた。

宮司一拝、献饌、祝詞奏上の次は講式奉戴(こうしきほうたい)だ。
金文字で書かれた巻き物は詠みあげることなく始めの部分を広げるだけである。
僅か数秒で講式奉戴の作法を終えた。

次は神号奉唱で、「なーむたんざんだーいみょうじん(南無談山大明神)」を十遍唱える。
次は謡曲の奉納で「海人」の曲が流される。

玉串拝礼の際には5人の長老が整列された。

撤饌、宮司一拝を経て寒山(かんざん)・拾得(じっとく)の掛軸の脇立奉下である。
その際には高砂の「四海波」が流された。

神影の奉下では高砂の「尾上の松」謡いだった。
こうして祭典は神官らの退出で終えたのである。
かつての八講祭は3月11日が宵宮で、12日が本祭であった。
区長の親父さんが云うには宵宮の夜に下座受になる次の村も祭典に加わっていたそうだ。
羽織袴姿の両大字が向かい合って並び、謡いを掛けあっていたと云う。
本祭を終えた翌日の13日は下座受の生田が再びやってきてお軸を受け取って戻る。
その際にはシキビの葉をお堂の上から投げつけたと話す。
後日(6月28日)に話された迎え。
今井谷の前は横柿になる。
祭典を終えるころに村へ出向き、奉上された神影などを受け取る。
その際には幕だけはいち早く今井谷に持って帰る。
横柿から下った村の道を駆けていった。
そうしてすぐさま満願寺に掲げたと云う。
青年だったころの様相である。
受け取った一行がお寺に到着するころとなれば、ドドン、ドンドンと太鼓を打って迎えたと話す。
八講祭は八カ大字の村々で行われてきた礼拝祭典。
史料によればお軸に「東三郷八講之、談山大明神尊影一軸、並寒山拾得各一軸、於横柿村宝積寺総郷中励力奉修補其功記、発願主深教坊熊岳、元禄十四竜集辛巳(1701)九月十六日、於多武峰開眼供養、導師検校三部都法大阿闍梨権大僧都照泉院法印辯英大和尚位、於北音羽村玉光寺、以八ケ郷中之助力談山大明神尊影一軸、奉修補開眼供養畢、干時嘉永四年辛亥(1851)卯月十八日、導師霊園山聖林寺比丘大心」とある。
来年は生田。
40年前の昔しは預かった区長家で一年間祀っていたと云うだけに、祭典の在り方は、大字ごとの様相を拝見しなくてならない。
Uさんの話しによれば横柿・今井谷・生田・浅古・下・倉橋・下居組(下居・針道・鹿路)・音羽組(多武峰・八井内・飯塚盛)の廻りになると云う。
連続8年間の取材ができるかどうか・・・。
ちなみに6月8日に伺った82歳のUさんが見せてくださった村行事の写真に掛軸があった。
お供えもしている行事は念仏講の集まり。
今井谷には2組あると云う念仏講の掛軸は三尊降臨図のように見えた。
(H26. 3.16 EOS40D撮影)