ちゃんちゃん祭のカザグルマ作りの際に村総代からお聞きした天理市佐保庄町の観音講。
毎月17日のお勤めに集落北にある朝日観音堂に講中が集まると聞いて訪れた。
「講」の行事は年々高齢化が進んで消えゆく運命にあると話していた。
この日集まった講中の最高齢者は大正12年生。
この年で91歳になられる。
次の年齢も大正生まれの13年、14年。
それより若い昭和生まれでも2年、3年で、一番若い人でも5年生まれの84歳だ。
総代が話していたとおりのご高齢の婦人たち8人。
観音堂を改築された平成13年では14人の講中であったが、その後の10年で半数になってしまったと云う。
「若いもんは入ってくれんで、いつまでできるやら」と云っていた。
総代や講中の話しによれば、観音堂が建っている地域はかつて朝日寺(朝日山円通寺)・朝日神社があって、もっと広大であったと云う。
廃仏毀釈の煽りを受けた明治8年。
朝日神社は大和神社に遷され、朝日寺は廃寺となり、のちに建てた観音堂で祀っていると云い、お堂の隣家はかつてお寺の庫裡だったと話すKさん。
朝日観音堂の本尊は木造の聖観世音菩薩立像で、両脇に金銅仏の聖観世音菩薩立像も安置されている。
「幕を揚げますので撮ってください」と願われてシャッターを押した。
寺・神社の歴史は存知しないが、上街道沿いにあって昔は旅人でそうとう賑わったと伝わる。
朝日で名高い「ここは権現藤の棚、朝日にかがやくどじょう汁」と歌われ、どじょう汁振舞っていたと総代が話す。
観音堂より南に数十メートル離れた地に外の観音さんと呼んでいる石造の観音仏があると案内された。
石仏には「天文廿三年(1554)甲寅 十二月日各夜覚圓」の刻印が見られた。
「各夜」とは「隔夜」。
新薬師寺奥の隔夜堂(一説には高畑町とも)と長谷寺の間を一夜ずつ宿泊して修行・往復する隔夜参り信仰になるようだが、詳しくは雑賀さんがブログにアップされている「空也上人と朝日観音」の記事があるのでそちらを参照していただきたい。
外の観音さんがある地は墓地。
所有者はこの日に導師を勤めるS家。
「造り酒屋だった」と云う。
導師のご主人が戦後間もないころに山林にヒノキを植えておいた。
その木を伐採して今の観音堂を建てたと云う。
外の観音さんは北のほうにもあったらしいが、焼けてしまったそうだ。
例月は11時ころから西国三十三番ご詠歌を唱えるだけだが、7月は朝8時半より長柄町の融通念仏宗派長福寺の住職が来られて法要をされる。
60年も前の大祭観音祭には上街道をずらりと並ぶ露天店もでて賑わったそうだ。
今では自転車や配達の車が往来する街道。
真っ青な空が目にしみる。
法要は融通念仏、般若心経を唱えて、講中とともに大和西国の札所第七番朝日寺・朝日観音の和讃「ひさかたの 空に照りそふ 朝日寺 くもらぬ法の 光なるらむ」を唱える。
長丁場の法要はおよそ一時間。
朝日に照らされたお堂は、まさに朝日堂に相応しい佇まいをみせる。
堂内は「風が通りぬけるので講中はそれほどでも・・」と云うが、外気は暑いお日さんの熱気で熱中症になりそうな気配。
流れ落ちる汗をぬぐったタオルが塩にまみれる。
七月大祭の法要を終えた住職を見送ってから外の観音さんにお参りする二人の講中。
手押し車を押して各夜覚圓が建之したとされる観音石仏に向かっていった。
直射日光が強烈なこの日。
心経はつぶやく程度に短くして手を合わした。
二人が戻ってから始まったいつもの西国三十三番のご詠歌。
二十三番で休憩することもなく一挙に最後まで唱えていた。
導師の念仏に合わせて講中のおばあさん講が唱えている。
観音講はおばあさん講の呼び名があるが、最近は念仏講と呼ぶようになったそうだ。
アブラゼミが盛んに夏の声を告げていた。
汗が噴き出すこの日のお勤めはカンカン照り。
導師は汗をハンカチでぬぐいながら声をあげて鉦を打っていた。
ご詠歌を終えてから拝見した導師の鉦。
年代記銘はなかったが「西村左近宗春作」の作者名があった六斎鉦。
「西村左近宗春」の名は桜井市萱森の六斎念仏・桜井市北白木の虫の祈祷、大和郡山市大江町の六斎念仏、奈良市佐紀東町の六斎念仏、奈良市法蓮町の阿弥陀講のアマヨロコビの鉦の同一作者名である。
大江町の鉦は明和元年(1764)。
奈良市佐紀東町の鉦には寛延二年(1749)。
桜井市北白木の鉦は元禄十七年(1704)であった。
各地の鉦より推定するに、佐保庄の鉦は同じような年代であると思われた。
鉦の所有者は導師を勤めたS家。
観音講の営みの際には家から持参して打っていると云う。
もしかとすれば、であるが佐保庄にも六斎念仏講があったのかも知れない。
大切な鉦はいつも風呂敷に包んで持ち込んだと云う。
S家の所有物は観音堂に吊るした鰐口もある。
それには「和山邉郡佐保庄村 朝日寺 寛政六甲寅(1794)極月吉日 施主 島崗代」とも読めるような刻印があった。
おそらく鰐口よりも六斎鉦の方が古いように思えたのである。
大正15年生まれの導師Sさんは自宅でオッパン(仏飯)を供えて阿弥陀さんの前で融通念仏を唱えていると云う。
「家にも来てや」と云われたがこの日は遠慮した。
いずれは家の営みを拝見したいと思っている。
こうして7月の営みを終えた講中は注文した柿の葉寿司をよばれて午後3時ごろまで、お堂で過ごすと話していた。
(H26. 7.17 EOS40D撮影)
毎月17日のお勤めに集落北にある朝日観音堂に講中が集まると聞いて訪れた。
「講」の行事は年々高齢化が進んで消えゆく運命にあると話していた。
この日集まった講中の最高齢者は大正12年生。
この年で91歳になられる。
次の年齢も大正生まれの13年、14年。
それより若い昭和生まれでも2年、3年で、一番若い人でも5年生まれの84歳だ。
総代が話していたとおりのご高齢の婦人たち8人。
観音堂を改築された平成13年では14人の講中であったが、その後の10年で半数になってしまったと云う。
「若いもんは入ってくれんで、いつまでできるやら」と云っていた。
総代や講中の話しによれば、観音堂が建っている地域はかつて朝日寺(朝日山円通寺)・朝日神社があって、もっと広大であったと云う。
廃仏毀釈の煽りを受けた明治8年。
朝日神社は大和神社に遷され、朝日寺は廃寺となり、のちに建てた観音堂で祀っていると云い、お堂の隣家はかつてお寺の庫裡だったと話すKさん。
朝日観音堂の本尊は木造の聖観世音菩薩立像で、両脇に金銅仏の聖観世音菩薩立像も安置されている。
「幕を揚げますので撮ってください」と願われてシャッターを押した。
寺・神社の歴史は存知しないが、上街道沿いにあって昔は旅人でそうとう賑わったと伝わる。
朝日で名高い「ここは権現藤の棚、朝日にかがやくどじょう汁」と歌われ、どじょう汁振舞っていたと総代が話す。
観音堂より南に数十メートル離れた地に外の観音さんと呼んでいる石造の観音仏があると案内された。
石仏には「天文廿三年(1554)甲寅 十二月日各夜覚圓」の刻印が見られた。
「各夜」とは「隔夜」。
新薬師寺奥の隔夜堂(一説には高畑町とも)と長谷寺の間を一夜ずつ宿泊して修行・往復する隔夜参り信仰になるようだが、詳しくは雑賀さんがブログにアップされている「空也上人と朝日観音」の記事があるのでそちらを参照していただきたい。
外の観音さんがある地は墓地。
所有者はこの日に導師を勤めるS家。
「造り酒屋だった」と云う。
導師のご主人が戦後間もないころに山林にヒノキを植えておいた。
その木を伐採して今の観音堂を建てたと云う。
外の観音さんは北のほうにもあったらしいが、焼けてしまったそうだ。
例月は11時ころから西国三十三番ご詠歌を唱えるだけだが、7月は朝8時半より長柄町の融通念仏宗派長福寺の住職が来られて法要をされる。
60年も前の大祭観音祭には上街道をずらりと並ぶ露天店もでて賑わったそうだ。
今では自転車や配達の車が往来する街道。
真っ青な空が目にしみる。
法要は融通念仏、般若心経を唱えて、講中とともに大和西国の札所第七番朝日寺・朝日観音の和讃「ひさかたの 空に照りそふ 朝日寺 くもらぬ法の 光なるらむ」を唱える。
長丁場の法要はおよそ一時間。
朝日に照らされたお堂は、まさに朝日堂に相応しい佇まいをみせる。
堂内は「風が通りぬけるので講中はそれほどでも・・」と云うが、外気は暑いお日さんの熱気で熱中症になりそうな気配。
流れ落ちる汗をぬぐったタオルが塩にまみれる。
七月大祭の法要を終えた住職を見送ってから外の観音さんにお参りする二人の講中。
手押し車を押して各夜覚圓が建之したとされる観音石仏に向かっていった。
直射日光が強烈なこの日。
心経はつぶやく程度に短くして手を合わした。
二人が戻ってから始まったいつもの西国三十三番のご詠歌。
二十三番で休憩することもなく一挙に最後まで唱えていた。
導師の念仏に合わせて講中のおばあさん講が唱えている。
観音講はおばあさん講の呼び名があるが、最近は念仏講と呼ぶようになったそうだ。
アブラゼミが盛んに夏の声を告げていた。
汗が噴き出すこの日のお勤めはカンカン照り。
導師は汗をハンカチでぬぐいながら声をあげて鉦を打っていた。
ご詠歌を終えてから拝見した導師の鉦。
年代記銘はなかったが「西村左近宗春作」の作者名があった六斎鉦。
「西村左近宗春」の名は桜井市萱森の六斎念仏・桜井市北白木の虫の祈祷、大和郡山市大江町の六斎念仏、奈良市佐紀東町の六斎念仏、奈良市法蓮町の阿弥陀講のアマヨロコビの鉦の同一作者名である。
大江町の鉦は明和元年(1764)。
奈良市佐紀東町の鉦には寛延二年(1749)。
桜井市北白木の鉦は元禄十七年(1704)であった。
各地の鉦より推定するに、佐保庄の鉦は同じような年代であると思われた。
鉦の所有者は導師を勤めたS家。
観音講の営みの際には家から持参して打っていると云う。
もしかとすれば、であるが佐保庄にも六斎念仏講があったのかも知れない。
大切な鉦はいつも風呂敷に包んで持ち込んだと云う。
S家の所有物は観音堂に吊るした鰐口もある。
それには「和山邉郡佐保庄村 朝日寺 寛政六甲寅(1794)極月吉日 施主 島崗代」とも読めるような刻印があった。
おそらく鰐口よりも六斎鉦の方が古いように思えたのである。
大正15年生まれの導師Sさんは自宅でオッパン(仏飯)を供えて阿弥陀さんの前で融通念仏を唱えていると云う。
「家にも来てや」と云われたがこの日は遠慮した。
いずれは家の営みを拝見したいと思っている。
こうして7月の営みを終えた講中は注文した柿の葉寿司をよばれて午後3時ごろまで、お堂で過ごすと話していた。
(H26. 7.17 EOS40D撮影)