マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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阪原富士講の所有物

2015年02月04日 07時17分23秒 | 奈良市(東部)へ
これまで県内の富士講事例を調査してきた。

事例はごく僅かである。

奈良市阪原にその存在があると知ったのは奈良の情報雑誌「naranto(奈良人)2013春夏号」の記事だ。

『疫病から村を守った阿弥陀石仏・お籠りしてご利益に感謝・・・地元の男衆で作る富士講がお祀り。かつては泊りこみでお籠りをしていた』という一文である。

何人かの村人に伺って辿りついた講中。

籠りはしなくなったが、前日には彫りが深い文和五年(1356)作の阿弥陀磨崖仏前に忌竹を設えていると話す。

翌週もお伺いする講家のO家に保管されていた講箱を拝見した。

その蓋の裏面には墨書があった。

「干時宝暦七年(1757)九月吉日・・・講中八人」の名に施主名があった。

当時の講中である「尾上、田中、中田、中、吉野、山本、阪本、立川家」が代々続けてきた富士講の講箱だ。

古文書には「安政六年(1859)七月□□ 富士講仲箱入□浅覚附帳 坂原□講中」と書かれてあったが表紙だけだ。

江戸時代における講中記録はなく、綴書は明治始めころからであった。

「昭和云年には富士山に登って浅間神社に参った。3度登っていた」と云う。

富士講の作法は朝10時半ころから始まる。

公民館で白装束(木綿の白襦袢)に着替えて、北出来迎阿弥陀磨崖仏辺りに集まる。

締める帯は縄で、履き物は毎年作る草鞋。

ふんどし姿に普段着になって集まると云う。

講中は近年まで8軒だった。

昔から決まっている特定家で継承されてきた富士講。

そのうちの1軒は何年か前に村を出ることになって、現在は7軒の営みになったと云う。

以前は27日が籠りの泊りがあった。

夕方に集まって夜食を摂って、ひと晩過ごす。

翌日28日の朝は日の出とともに参る富士講。

昼も参って食事を摂る。

籠りの場は神社の参籠所であったが、かつては会所だった。

そこで身を清めるお籠り。

食事を調えるのも作法をするのもすべてが男性であったが、昨今は下支えに婦人たちが料理を作るようになった。

今では忌竹を前日に設営して、翌日の一日、一回限りのお参りになった。

忌竹は富士山の来拝所。数珠を手にして白砂川に足を浸ける。

川の水を柄杓で汲んで、ご真言を唱えながら「ひー、ふー、みー、よー、イーツ、ムー、ナナ、ヤッー」。

その際には汲んだ水を川面で投げかける。

これを八回繰り返す。

ご真言は「ウ(オ)ンタラタカマーノ マクサンバン(-)ダー サラサラセンダン(-)バー(カ) シャータヤ ソワカ(ヤ)」だ。

鎮守社の長尾神社に参って「水」を汲みとっていたが、本来は谷脇の「水」であった。

それを汲んで家に持ち帰る御神水は家人に飲ませていたと云う。

今では神社は参拝をする場となったが、主たる場は公民館。

古い「富士山」の掛軸を掲げて会食するそうだ。

来迎阿弥陀磨崖仏を地蔵さんと呼んでいる阪原の富士講

講中が残した三角形の石があるらしい。

それには「浅間神社」と書いているようだ。

講箱に収納されていた雑誌『読売奈良ライフ』があった。

発刊は1979年7月号(昭和54年)。



阪原富士講や地蔵講を紹介する記事が載っていた。

詳細はそれほど詳しくはないが、当時の様相が判るくらいに書き記されていた。

35年前の様相が判る貴重な史料でもある。

当番は2軒の人によって整えられる。

作法を終えたその日のうちに講箱一式を引き継ぐようだ。

(H26. 7.20 SB932SH撮影)