診療していた歯医者の待ち時間。
ロビーに奈良の情報雑誌「naranto(奈良人)2013春夏号」があった。
ぱらぱらとページをめくれば石仏特集が目についた。
そこに書いてあった奈良市阪原の北出来迎阿弥陀磨崖仏。
「疫病から村を守った阿弥陀石仏・お籠りしてご利益に感謝」すると書いてあるのだ。
紹介文に「地元の男衆で作る富士講がお祀り。かつては泊りこみでお籠りをしていた。仏さんを囲んで酒を酌み交わし宴に興じていた。住民の話しによれば、富士講の起源は地区で疫病が流行って男衆が次々と亡くなった。村の人が阿弥陀さんに一心に祈ったら疫病は収束した。以来、講を作ってお礼の籠りをするようになった。今でも信仰篤い七人衆が7月末の農閑期に公民館に籠る。泊りはなくなったが、30代の若者も新たに加わり地域の話題で連帯感を育んでいる」とあった。
富士講の県内事例は、これまで柳生町・柳生下町および都祁上深川の様相を取材したことがある。
ただ、柳生では富士講の呼び名はなく、神社祭祀を勤める十二人衆が行う「土用垢離」である。
上深川は6人の富士講中によって行われる富士垢離であるが、長く途絶えていたものを年寄りの記憶がある間にということで、平成21年に復活された。
昭和50年代にされていた上深川の富士垢離は県立民俗博物館に動画映像で残されている。
行事名は浅間講の富士垢離だった。
近年までは都祁小倉町にも残っていたが、いつのころか判らないが「講」は廃れて八柱神社の石段の下に浅間さんの石碑を建てるだけになっている。
富士講或いは浅間講の石碑は山添村広瀬・吉田・勝原や天理市長柄、生駒市長久寺など県内各地にその存在を現認してきた。
この月の8日に取材した古市町の仙軒講も富士講の一つとしてあげられるが、水行の作法はされていない。
また、富士講碑でなく、浅間神社を奉る地域もある。
末社に浅間神社がある在所は奈良市鹿野園町・八阪神社、三郷町薬隆寺・八幡神社などが知られる。
「naranto」に来迎阿弥陀磨崖仏写真が掲載されていた文中表現を手掛かりに阪原の富士講を訪れた。
3月に行われた南明寺・涅槃会の際に宮総代から教えていただいた祭場は北出垣内の来迎阿弥陀磨崖仏。
ネット検索すればどなたがアップされたのか存知しないが、ある人がブログで公開していた北出垣内の来迎阿弥陀磨崖仏。
その映像には石仏前横に立てた忌竹があった。
目を凝らして見れば柄杓を吊っていた。
柄杓があることから水行をされている様子が判るが、アップした人はそれを「オコナイ」と書いていた。
間違ってもそれは「オコナイ」の道具ではない。
柳生と同様に土用垢離であれば、土用入りであろうと判断して出かけた阪原の北出垣内。
文中に書いてあった講中の家を探してみる。
家におられたご主人に訪れた理由を伝えたら一週間後にすると云うのである。
それなら所有している講箱を当番家が持っているとわざわざ運んでくれた。
講箱は柄杓・数珠・ご真言などを納めてあった。
水行作法に使う柄杓・数珠もある。
内部にはやや小さめの講箱もあった。
その箱蓋に「干時宝暦七年九月吉日・・・講中八人名 施主名」の墨書文字があった。
宝暦七年といえば西暦1757年。今から257年前である。
講中は代々が継承してきた特定家の8軒。
うち1軒は継ぐ者がなく、辞退されて現在は7軒になったと云う。
「古文書もありますので」と云われて拝見した。
表紙に「安政六年七月□□ 富士講仲箱入□残覚附帳 坂原□講中」と書かれていた。
安政六年は1859年。今から155年前であるが、綴じた文書は明治時代以降のものばかりだった。
理由は判らないが、なぜか江戸時代の記載文書は綴じられていないのである。
柳生・上深川には講箱や古文書は残されていない。
阪原には富士講の歴史を示す記録があったのだ。
257年間を特定家で営まれてきたことが歴史を残すことになったのだろうと思える貴重な富士講史料に感動する。
講箱には阪原の富士講を取材された記事が『読売奈良ライフ』1979年7月号も保管されていた。
同誌に書いてあった作法はほぼ克明に、である。。
当時の講中(尾上、田中、中田、中、吉野、山本、阪本、立川)の名も書いてあった。
発刊は昭和54年。35年前の様相を記録した阪原富士講の在り方だ。
ちなみに読売奈良ライフの創業は1976年(昭和51年)。
この号を発刊する2年前に創業された。
阪原富士講の史料ともなる記事を残してくれたことに感謝する。
1979年7月号には富士講とともに地蔵講の行事も書いてあった。
講中から案内されて緊急取材した門出垣内の地蔵盆は一週間前の20日に行われた。
富士講には中央に「富士山」の文字を配置した掛軸もある。
中央に地蔵菩薩、左右にも菩薩のようだが判別不能の来迎図。
下部には猿のような獣が2体ある掛軸は明日の水行前に掲げるようだ。
かつての富士講は27日に公民館で泊ってお籠り、翌日28日の朝に1回の水行、休憩を挟んでもう1回の水行。
昼食を摂ってからは昼寝。
夕方近くに3度目の水行をしていたそうだ。
今ではお籠りをすることもなく、水行前日に忌竹を設えるだけであると話していた。
こうした富士講の予備知識を頭に入れて訪れたこの日の午後4時。
石仏前の雑草を刈り取って奇麗に清掃されていた。
北出来迎阿弥陀磨崖仏を眼痛地蔵と呼んでいる地元民。
調べによれば、石仏は文和五年(1356)の作の阿弥陀磨崖仏。
彫りは深い。
湿気が多い日には目の辺りから水が流れる。
その水を目に浸けると難病が治ると伝えられている。
祭場を設えるのは2軒の当番さん。
四方に忌竹を立てて注連縄を張る。
そこに紙垂れを取り付ける。
手前の二本の竹には太めの青竹を括りつける。
そこへお花やサカキを挿し込んで汲んだ川の水を注ぐ。
こうした作業を経て、明日に行われる斎場ができあがった。
夏場の作業は汗びっしょり。
顔から汗がタラタラ流れ落ちる作業を終えて一段落。
飲料水を飲んで水分を補給する。
祭場前に流れる川は白砂川。
「ハイジャコ・アユ・ウナギ・ドジョウもおった。ウナギは生きたドジョウがエサだった」と云う。
針の先に挿して岩場の隙間に一晩寝かしたら釣れていたと話してくれた。
豪雨ともなれば川は洪水状態。
石仏の下半分ぐらいまでに水量があがると云う。
大量に流された川砂があがって石仏下の足場は砂地になっていた。
水が奇麗な白砂川にはハグロトンボが生息している。
翌日にはカエルを飲み込んでいたマムシも目撃した。
かつては祭場を設えたその夜に公民館で籠りをしていたと云う。
翌日の水行は午前中に2回連続。
川の水を柄杓で掬って「ひーふーみーよーいつむーななやっ」と声をかけて8回の水かけを繰り返す。
昼食を摂った夕方4時ころ。
3回目の水行をする。
そして、柄杓で掬った水を零れないように持って長尾神社に参ると云う。
掬う水は川の水ではなく、昔は道中にある谷脇の水だったと話す。
その付近には井戸があると話していた。
(H26. 7.25 EOS40D撮影)
ロビーに奈良の情報雑誌「naranto(奈良人)2013春夏号」があった。
ぱらぱらとページをめくれば石仏特集が目についた。
そこに書いてあった奈良市阪原の北出来迎阿弥陀磨崖仏。
「疫病から村を守った阿弥陀石仏・お籠りしてご利益に感謝」すると書いてあるのだ。
紹介文に「地元の男衆で作る富士講がお祀り。かつては泊りこみでお籠りをしていた。仏さんを囲んで酒を酌み交わし宴に興じていた。住民の話しによれば、富士講の起源は地区で疫病が流行って男衆が次々と亡くなった。村の人が阿弥陀さんに一心に祈ったら疫病は収束した。以来、講を作ってお礼の籠りをするようになった。今でも信仰篤い七人衆が7月末の農閑期に公民館に籠る。泊りはなくなったが、30代の若者も新たに加わり地域の話題で連帯感を育んでいる」とあった。
富士講の県内事例は、これまで柳生町・柳生下町および都祁上深川の様相を取材したことがある。
ただ、柳生では富士講の呼び名はなく、神社祭祀を勤める十二人衆が行う「土用垢離」である。
上深川は6人の富士講中によって行われる富士垢離であるが、長く途絶えていたものを年寄りの記憶がある間にということで、平成21年に復活された。
昭和50年代にされていた上深川の富士垢離は県立民俗博物館に動画映像で残されている。
行事名は浅間講の富士垢離だった。
近年までは都祁小倉町にも残っていたが、いつのころか判らないが「講」は廃れて八柱神社の石段の下に浅間さんの石碑を建てるだけになっている。
富士講或いは浅間講の石碑は山添村広瀬・吉田・勝原や天理市長柄、生駒市長久寺など県内各地にその存在を現認してきた。
この月の8日に取材した古市町の仙軒講も富士講の一つとしてあげられるが、水行の作法はされていない。
また、富士講碑でなく、浅間神社を奉る地域もある。
末社に浅間神社がある在所は奈良市鹿野園町・八阪神社、三郷町薬隆寺・八幡神社などが知られる。
「naranto」に来迎阿弥陀磨崖仏写真が掲載されていた文中表現を手掛かりに阪原の富士講を訪れた。
3月に行われた南明寺・涅槃会の際に宮総代から教えていただいた祭場は北出垣内の来迎阿弥陀磨崖仏。
ネット検索すればどなたがアップされたのか存知しないが、ある人がブログで公開していた北出垣内の来迎阿弥陀磨崖仏。
その映像には石仏前横に立てた忌竹があった。
目を凝らして見れば柄杓を吊っていた。
柄杓があることから水行をされている様子が判るが、アップした人はそれを「オコナイ」と書いていた。
間違ってもそれは「オコナイ」の道具ではない。
柳生と同様に土用垢離であれば、土用入りであろうと判断して出かけた阪原の北出垣内。
文中に書いてあった講中の家を探してみる。
家におられたご主人に訪れた理由を伝えたら一週間後にすると云うのである。
それなら所有している講箱を当番家が持っているとわざわざ運んでくれた。
講箱は柄杓・数珠・ご真言などを納めてあった。
水行作法に使う柄杓・数珠もある。
内部にはやや小さめの講箱もあった。
その箱蓋に「干時宝暦七年九月吉日・・・講中八人名 施主名」の墨書文字があった。
宝暦七年といえば西暦1757年。今から257年前である。
講中は代々が継承してきた特定家の8軒。
うち1軒は継ぐ者がなく、辞退されて現在は7軒になったと云う。
「古文書もありますので」と云われて拝見した。
表紙に「安政六年七月□□ 富士講仲箱入□残覚附帳 坂原□講中」と書かれていた。
安政六年は1859年。今から155年前であるが、綴じた文書は明治時代以降のものばかりだった。
理由は判らないが、なぜか江戸時代の記載文書は綴じられていないのである。
柳生・上深川には講箱や古文書は残されていない。
阪原には富士講の歴史を示す記録があったのだ。
257年間を特定家で営まれてきたことが歴史を残すことになったのだろうと思える貴重な富士講史料に感動する。
講箱には阪原の富士講を取材された記事が『読売奈良ライフ』1979年7月号も保管されていた。
同誌に書いてあった作法はほぼ克明に、である。。
当時の講中(尾上、田中、中田、中、吉野、山本、阪本、立川)の名も書いてあった。
発刊は昭和54年。35年前の様相を記録した阪原富士講の在り方だ。
ちなみに読売奈良ライフの創業は1976年(昭和51年)。
この号を発刊する2年前に創業された。
阪原富士講の史料ともなる記事を残してくれたことに感謝する。
1979年7月号には富士講とともに地蔵講の行事も書いてあった。
講中から案内されて緊急取材した門出垣内の地蔵盆は一週間前の20日に行われた。
富士講には中央に「富士山」の文字を配置した掛軸もある。
中央に地蔵菩薩、左右にも菩薩のようだが判別不能の来迎図。
下部には猿のような獣が2体ある掛軸は明日の水行前に掲げるようだ。
かつての富士講は27日に公民館で泊ってお籠り、翌日28日の朝に1回の水行、休憩を挟んでもう1回の水行。
昼食を摂ってからは昼寝。
夕方近くに3度目の水行をしていたそうだ。
今ではお籠りをすることもなく、水行前日に忌竹を設えるだけであると話していた。
こうした富士講の予備知識を頭に入れて訪れたこの日の午後4時。
石仏前の雑草を刈り取って奇麗に清掃されていた。
北出来迎阿弥陀磨崖仏を眼痛地蔵と呼んでいる地元民。
調べによれば、石仏は文和五年(1356)の作の阿弥陀磨崖仏。
彫りは深い。
湿気が多い日には目の辺りから水が流れる。
その水を目に浸けると難病が治ると伝えられている。
祭場を設えるのは2軒の当番さん。
四方に忌竹を立てて注連縄を張る。
そこに紙垂れを取り付ける。
手前の二本の竹には太めの青竹を括りつける。
そこへお花やサカキを挿し込んで汲んだ川の水を注ぐ。
こうした作業を経て、明日に行われる斎場ができあがった。
夏場の作業は汗びっしょり。
顔から汗がタラタラ流れ落ちる作業を終えて一段落。
飲料水を飲んで水分を補給する。
祭場前に流れる川は白砂川。
「ハイジャコ・アユ・ウナギ・ドジョウもおった。ウナギは生きたドジョウがエサだった」と云う。
針の先に挿して岩場の隙間に一晩寝かしたら釣れていたと話してくれた。
豪雨ともなれば川は洪水状態。
石仏の下半分ぐらいまでに水量があがると云う。
大量に流された川砂があがって石仏下の足場は砂地になっていた。
水が奇麗な白砂川にはハグロトンボが生息している。
翌日にはカエルを飲み込んでいたマムシも目撃した。
かつては祭場を設えたその夜に公民館で籠りをしていたと云う。
翌日の水行は午前中に2回連続。
川の水を柄杓で掬って「ひーふーみーよーいつむーななやっ」と声をかけて8回の水かけを繰り返す。
昼食を摂った夕方4時ころ。
3回目の水行をする。
そして、柄杓で掬った水を零れないように持って長尾神社に参ると云う。
掬う水は川の水ではなく、昔は道中にある谷脇の水だったと話す。
その付近には井戸があると話していた。
(H26. 7.25 EOS40D撮影)