富士講調査に立ち寄った奈良市阪原町。
講家が話していた地蔵盆はその日の夕刻であった。
「辻に建つ2mぐらいの石仏地蔵尊の前で地蔵盆をしますんや」と云うのである。
石仏地蔵尊を祀る地はマツリの際に担ぎだされる太鼓台が渡御人とともにお旅所に向かう処だ。
長尾神社を出発した太鼓台は辻の地蔵堂前を急カーブで下る。
安置しているのは足痛にご利益があるという天文五年(1536)銘がある足痛地蔵さん。
足元にはずらり石仏が並ぶ。
天保十一年(1840)の刻印があった右手前にある石仏は何であろうか。
目を凝らしてみれば、僅かに彩色が残る如意輪観音の石仏であった。
阪原には如意輪観音さんに手を合わせる十九夜講があると聞いている。
天明四年(1784)製作の如意輪観音のお軸を掲げるヤド家での営みであるが、ここへもお参りに来るかも知れない。
この場は門出垣内。門出と書いて「もんでん」と呼ぶが、1700年代の正徳年代は門前であった。
地蔵盆の場は足痛地蔵尊下の里道である。
地蔵さんは足痛にご利益があるという地蔵さん。
石仏巡りする人が度々訪れているそうだ。
地蔵さんの前に設えた地蔵盆の場はゴザを敷いて座布団を並べていた。
オードブル料理を置いたテーブルも用意して村の人を待っていた。
10年ほど前までは各家が持ちよった料理や手作りのおはぎがあったそうだ。
真言宗派南明寺の住職が来られて法要が始まるのは18時。
村の人とともにご真言を唱える。
住職が就くまでは村の人が導師を勤めていたと云う。
席に座った村人の人数は多い。
数えてみれば50人にもおよび、老若男女・・赤ちゃんまで来ていた。
普段は子供の姿がほとんど見られない阪原。
この日の地蔵盆には10人ほどの外孫も連れていた。
秋のマツリと同じように子供さんが多くなるのは、故郷に戻って一家団欒の村行事。
これまで数多くの地蔵盆を拝見してきたが、これほど多くの人たちが参拝される地蔵盆は他所では見られない光景だ。
阪原は門出・北出・中村の三垣内。
地蔵盆は阪原全体の村行事ではなく、門出(もんでん)垣内(江戸年間の正徳時代は門前)の行事、いわば垣内の行事である。
門出垣内は全戸で18戸、うち地蔵講は16戸であるが、地蔵盆には全戸が参拝されるようだ。
本来は23日が行事日であったが、できる限りみんなが集まりやすい日曜日に移された。
法要は10分ほどで終えて住職は寺に戻っていった。
会食の費用分も入っているのであるが、遠慮されての帰還である。
毎月、いくらかの集金で会食を賄っていると云う地蔵盆の用立て。
集めたお金で会所とか地蔵堂の修理費用に用立てをする。
「旅行にも行きますねん」と云う会費の使い方は村の楽しみでもあるようだ。
お酒やビール・お茶などで乾杯されて会食に移った垣内の地蔵盆。
この日は納涼と垣内の親睦を兼ねて寛ぐ時間帯である。
「家に留守番がいなけりゃ盗人が来ますやん」と云ってもお構いなし。
だが、実際は高齢者の「じっちゃん、ばあちゃんが留守番してますねん」と話していた。
陽が暮れる時間帯は大宴会。
期待していた夕陽は奇麗に出なかったが、提灯の灯りが増していく。
そのうちに一人増え、また、二人と増えていく大宴会。
遠くに住んでいる息子・娘夫婦は赤ちゃん連れて戻ってくるし、大和広陵高校の高校野球を応援していた生徒も戻ってきた。
大和広陵高校はその後も勝ち続けて7月27日の奈良智弁学園と対する準決勝戦まで至った。
応援は潰えて11対6で無念の夏を閉じた。
阪原の地から大和広陵高校に通学できるわけがなく「高校近くに住んでいる」と生徒は笑っていた。
最終的には61人にもなった門出垣内の地蔵盆は、年に一度の顔合せだ。
垣内の地蔵盆には奈良市青少年野外活動センターに勤める職員さんも参加している。
住まいは阪原であることから顔馴染み。
一住民も参加を受け入れているのだ。
それから1時間半後、費用で賄った花火は子供たちのお楽しみ。
提灯は電灯の灯り。
カメラでとらえた写真を見れば一目瞭然の白っぽさ。
背景の宴の様子も撮っておきたかったが写りこむこともない。
近くに寄ってきた母親が「娘を撮ってください」と願われてシャッターを押す。
線香花火が光る状況を写し込めたが父親は影になってしまった。
声を掛けた母親はこの日に地蔵盆を紹介してくださった娘さんだった。
阪原で育ったと云う母親は「兄ちゃん家族とも会えるし、毎年が楽しみなんです」と笑顔で応える。
花火の火点けは兄ちゃんと旦那さん。
この夜の当番である。
「そろそろ始めましょう」と声があがって宴のテーブルを片付ける。
場は数珠繰りに転じるのだ。
時間帯は丁度、夜8時。
とにかく人数が多い数珠繰りの場。
対面に座って数珠を繰っていく。
導師もなく、鉦もなく、「なんまんだー」を唱えながら、地蔵さんの真下で数珠を繰っていく。
お酒がたっぷりお腹に染みている男性たち。
「酔っ払いの数珠繰りや」と婦人たちから声があがる。
「今、何回目やー、朝までやろかー・・・」とか、口々に発声すれば、その都度に笑いが出る。
「夜9時ぐらいに始まりますねん」と云っていたが、一時間早めたようだ。
「なんまんだー」って唱えていた人も声が小さくなって、とにかく賑やかな数珠繰りだ。
みなが揃って楽しんでいるような雰囲気が夜の気配を忘れてしまう。
その間、供えた御供を分け分けで当番家は忙しい。
「あと半分やー」の声にどこで数えている人がいるのかもさっぱり判らない門出垣内の数珠繰りである。
あと5回やと云う人も居られたが、数珠の房がどこで廻っているのか、さっぱり判らない。
子供たちも一緒になってする門出垣内の数珠繰り。
娘時代には入っていたが「娘は怖がって・・・」と云う親子も居る。
「あと一回、これで最後の33回の数珠繰りやで、ようおがんどきや」。
「一年間は無事に暮らせる、風邪もひかんわ」と云って終わった。
盛りあがったご近所付き合いは至近距離。
「絆」とか「つながり」とか云うような言葉で表せない垣内が一体となった情景に心惹かれてシャッターを押していた。
(H26. 7.20 EOS40D撮影)
講家が話していた地蔵盆はその日の夕刻であった。
「辻に建つ2mぐらいの石仏地蔵尊の前で地蔵盆をしますんや」と云うのである。
石仏地蔵尊を祀る地はマツリの際に担ぎだされる太鼓台が渡御人とともにお旅所に向かう処だ。
長尾神社を出発した太鼓台は辻の地蔵堂前を急カーブで下る。
安置しているのは足痛にご利益があるという天文五年(1536)銘がある足痛地蔵さん。
足元にはずらり石仏が並ぶ。
天保十一年(1840)の刻印があった右手前にある石仏は何であろうか。
目を凝らしてみれば、僅かに彩色が残る如意輪観音の石仏であった。
阪原には如意輪観音さんに手を合わせる十九夜講があると聞いている。
天明四年(1784)製作の如意輪観音のお軸を掲げるヤド家での営みであるが、ここへもお参りに来るかも知れない。
この場は門出垣内。門出と書いて「もんでん」と呼ぶが、1700年代の正徳年代は門前であった。
地蔵盆の場は足痛地蔵尊下の里道である。
地蔵さんは足痛にご利益があるという地蔵さん。
石仏巡りする人が度々訪れているそうだ。
地蔵さんの前に設えた地蔵盆の場はゴザを敷いて座布団を並べていた。
オードブル料理を置いたテーブルも用意して村の人を待っていた。
10年ほど前までは各家が持ちよった料理や手作りのおはぎがあったそうだ。
真言宗派南明寺の住職が来られて法要が始まるのは18時。
村の人とともにご真言を唱える。
住職が就くまでは村の人が導師を勤めていたと云う。
席に座った村人の人数は多い。
数えてみれば50人にもおよび、老若男女・・赤ちゃんまで来ていた。
普段は子供の姿がほとんど見られない阪原。
この日の地蔵盆には10人ほどの外孫も連れていた。
秋のマツリと同じように子供さんが多くなるのは、故郷に戻って一家団欒の村行事。
これまで数多くの地蔵盆を拝見してきたが、これほど多くの人たちが参拝される地蔵盆は他所では見られない光景だ。
阪原は門出・北出・中村の三垣内。
地蔵盆は阪原全体の村行事ではなく、門出(もんでん)垣内(江戸年間の正徳時代は門前)の行事、いわば垣内の行事である。
門出垣内は全戸で18戸、うち地蔵講は16戸であるが、地蔵盆には全戸が参拝されるようだ。
本来は23日が行事日であったが、できる限りみんなが集まりやすい日曜日に移された。
法要は10分ほどで終えて住職は寺に戻っていった。
会食の費用分も入っているのであるが、遠慮されての帰還である。
毎月、いくらかの集金で会食を賄っていると云う地蔵盆の用立て。
集めたお金で会所とか地蔵堂の修理費用に用立てをする。
「旅行にも行きますねん」と云う会費の使い方は村の楽しみでもあるようだ。
お酒やビール・お茶などで乾杯されて会食に移った垣内の地蔵盆。
この日は納涼と垣内の親睦を兼ねて寛ぐ時間帯である。
「家に留守番がいなけりゃ盗人が来ますやん」と云ってもお構いなし。
だが、実際は高齢者の「じっちゃん、ばあちゃんが留守番してますねん」と話していた。
陽が暮れる時間帯は大宴会。
期待していた夕陽は奇麗に出なかったが、提灯の灯りが増していく。
そのうちに一人増え、また、二人と増えていく大宴会。
遠くに住んでいる息子・娘夫婦は赤ちゃん連れて戻ってくるし、大和広陵高校の高校野球を応援していた生徒も戻ってきた。
大和広陵高校はその後も勝ち続けて7月27日の奈良智弁学園と対する準決勝戦まで至った。
応援は潰えて11対6で無念の夏を閉じた。
阪原の地から大和広陵高校に通学できるわけがなく「高校近くに住んでいる」と生徒は笑っていた。
最終的には61人にもなった門出垣内の地蔵盆は、年に一度の顔合せだ。
垣内の地蔵盆には奈良市青少年野外活動センターに勤める職員さんも参加している。
住まいは阪原であることから顔馴染み。
一住民も参加を受け入れているのだ。
それから1時間半後、費用で賄った花火は子供たちのお楽しみ。
提灯は電灯の灯り。
カメラでとらえた写真を見れば一目瞭然の白っぽさ。
背景の宴の様子も撮っておきたかったが写りこむこともない。
近くに寄ってきた母親が「娘を撮ってください」と願われてシャッターを押す。
線香花火が光る状況を写し込めたが父親は影になってしまった。
声を掛けた母親はこの日に地蔵盆を紹介してくださった娘さんだった。
阪原で育ったと云う母親は「兄ちゃん家族とも会えるし、毎年が楽しみなんです」と笑顔で応える。
花火の火点けは兄ちゃんと旦那さん。
この夜の当番である。
「そろそろ始めましょう」と声があがって宴のテーブルを片付ける。
場は数珠繰りに転じるのだ。
時間帯は丁度、夜8時。
とにかく人数が多い数珠繰りの場。
対面に座って数珠を繰っていく。
導師もなく、鉦もなく、「なんまんだー」を唱えながら、地蔵さんの真下で数珠を繰っていく。
お酒がたっぷりお腹に染みている男性たち。
「酔っ払いの数珠繰りや」と婦人たちから声があがる。
「今、何回目やー、朝までやろかー・・・」とか、口々に発声すれば、その都度に笑いが出る。
「夜9時ぐらいに始まりますねん」と云っていたが、一時間早めたようだ。
「なんまんだー」って唱えていた人も声が小さくなって、とにかく賑やかな数珠繰りだ。
みなが揃って楽しんでいるような雰囲気が夜の気配を忘れてしまう。
その間、供えた御供を分け分けで当番家は忙しい。
「あと半分やー」の声にどこで数えている人がいるのかもさっぱり判らない門出垣内の数珠繰りである。
あと5回やと云う人も居られたが、数珠の房がどこで廻っているのか、さっぱり判らない。
子供たちも一緒になってする門出垣内の数珠繰り。
娘時代には入っていたが「娘は怖がって・・・」と云う親子も居る。
「あと一回、これで最後の33回の数珠繰りやで、ようおがんどきや」。
「一年間は無事に暮らせる、風邪もひかんわ」と云って終わった。
盛りあがったご近所付き合いは至近距離。
「絆」とか「つながり」とか云うような言葉で表せない垣内が一体となった情景に心惹かれてシャッターを押していた。
(H26. 7.20 EOS40D撮影)