三重県内で羯鼓踊りを継承している地域が12例もある。
伊賀市下柘植・愛田地区に伊賀市(旧阿山町の)大江、伊賀市山畑(やはた)がある。
京都南山城より東に向けて15kmから20kmの距離に三カ村が集約している。
一方、そこよりぐっと下がった南方に宮川が流れる。
その流域にある多気郡大台町下三瀬、伊勢市の円座町・佐八町・小股町の共敬・下小股・中小股・東豊浜町の土路、度会郡南伊勢町の道方、度会郡度会町の麻加江だ。
平成21年度に記録された「ふるさと文化再興事業地域伝統文化事業」を参照して整理した。
一に、伊賀市下柘植愛田地区・日置神社の「神事踊(別称宮踊り)」がある。
下柘植は南山城より東方の地。
直線距離で20kmも離れている。
雨乞い願掛け・満願の太鼓踊りで古くから伝わる羯鼓踊りの一種だ。
実施日はかつて7月24日の祇園祭り、現在は4月10日の大祭の午後に行われる。
一時途絶えていたが大正十三年に復活した。
戦中にも中断したが昭和31年に復興するも再び中断。
氏子青年会によって昭和51年に復帰する。
踊り子の構成はかんこ(羯鼓)を胸に背はシナイ姿の踊り子や歌役の「唄」に貝吹きの「貝」だ。
踊り子は薄青地の着物に浅黄地に狩猟文様の栽ち着け袴を履いて山鳥の羽飾りや冠の造花で飾ったオチズイ(かつてはヲチズエ)、締太鼓をつける。
10本の花が広がり垂れ下がるような恰好の花笠のように見えるのがオチズイと呼んでいるのだろう。
「唄」と「貝」は紺の着流しに紺の羽織を着て、菅(すげ)製の妻折れ笠(剣術を志す女性の道中笠で男性用が三度笠)を被る。
扇を上下に振って調子をとることもあれば円を描いて躍ることもある。
笠を被る「唄」は本歌、別に無笠のスケが補助につく。
「貝」はボーボーと単調な音色で法螺貝を吹き鳴らす。
鬼の衣装を着た道化役の鬼は赤熊をつけて面を被り、足は草鞋だ。
「御庭しずめ」、「御庭踊り」、「小祝入り」、「世の中踊り」に平成7年に復活した「順逆踊りと考えられるじゅんやく踊り」の五曲を継承している。
二に、伊賀市大江(旧阿山町)・陽夫多(やぶた)神社(在所は旧阿山町大字馬場)に奉納される「羯鼓(かっこ)踊」がある。
大江も南山城より東方の地。
直線距離で15kmも離れている。
雨乞い願掛け・満願・豊年の太鼓踊りは江戸時代の寛永年間(1624~)に始まったと伝わる。
現在の実施日は4月20日の陽夫多(やぶた)神社・例大祭に行われる奉納踊りであるが、かつては大字大江の氏神こと旧火明(ほあかし)神社の夏祭りだった。
当時は旧暦6月14日の祇園祭に奉納されていた踊りである。
明治41年、火明神社は他地区の神社とともに河合郷の郷社である陽夫多神社に合祀された。
躍る機会を失った結果、長い期間において中断していた。
大正二年、大旱魃に見舞われたことによって、陽夫多神社で雨乞い祈願、満願のときに羯鼓(かっこ)踊りが行われた。
その後、徴兵などで人手が集まらなかった昭和の戦時下に中断したが、出征兵士が戻った昭和22年に奉納するも高度成長期に突入する。
昭和35年、人手不足となり、再び中断。その後の昭和47年に踊り保存会を結成され復活した。
陽夫多神社は千貝、馬田、田中、馬場、川合、円徳院、大江(26戸)、波敷野を氏子圏ととする郷社である。
大江は河合郷の枝郷にあったが、それ以前は大江村であった。
昭和29年、鞆田村と合併した阿山村は、昭和42年に施行された町制によって阿山町となる。
平成16年、平成の大合併によって阿山町は伊賀市に含まれることになった。
踊り子が背に負うオチズイやオノフサ(苧の房の呼び名がある御幣)をマツリ前に大江・観音堂で調製する。
オチズイは2メートル近い長さのヒゴ竹。枝垂れに桜の造花と緑の花を取り付ける。
これを花造りと呼んでいる。
オノフサはオチズイの中心部に立てる白い御幣榊である。
青・赤鬼が手にする団扇はバイと呼ぶバチだ。
踊り子の構成は子供が法螺貝を吹く貝吹き、菅笠を被り三つ紋の浅葱色の着物を着て大太鼓を打つ楽打ち。
頭に山鳥・孔雀・雉・鶏の尾羽の飾り物を挿して、小紋の裁着(たっつけ)袴を履いた羯鼓の踊り子。
団扇で調子をとる歌出しは妻折れ笠(記録映像では三度笠のようだ)を被り、角帯を締めた五つ紋の黒地木綿を羽織る。
道化役の赤鬼・青鬼は大きな団扇を右手、竹製の金棒を左手に赤または紺の襦袢に股引き姿である。
「祠入り(しくいり)」、「お宮踊」、「世の中踊」、「御城踊」、「御殿踊」、「虎松踊」、「信玄踊」、「鐘巻踊」、「小順逆」、「大樹逆」、「四季踊」、「姫子踊」、「所望」、「かえせ」の14曲が伝承されているが、実際は10曲のようだ。
三に、伊賀市山畑(やはた)に鎮座する勝手神社に奉納される羯鼓型の神事踊がある。
山畑は南山城より東方の地。直線距離で20kmも離れている。
雨乞い願掛け後の満願返礼の際に躍られた神事踊は、毎年10月の第二日曜の勝手神社の祭礼に奉納している。
神事踊りは、何度も何度も中断の時期があったが、その都度、郷土の熱意によって復興してきた。
昭和10年に保存会組織を立ち上げ、今日まで伝承してきた。
神事踊は勝手神社奉仕団踊子部が作成した『勝手神社祭礼神事踊沿革史が』が詳しいそうだ。
起源は明らかでないが、明治40年までは勝手神社より離れた津島神社境内で旧暦6月13日に奉納されていた。
当時は「祇園祭神事花踊」と呼ばれ、悪疫平癒を願って踊っていた。
津島神社名は奈良県田原本町に鎮座する津島神社と同様にかつては祇園社の呼称があった。
伊賀市山畑も同じ神社名の津島神社。
明治時代の廃仏毀釈などで神社名を換えた経緯があると推測される。
話しを戻そう。
明治41年のことである。
理由は定かでないが、山畑の津島神社は勝手神社に合祀された機に中断となった。
その後の大正二年、大旱魃に見舞われたことによって雨乞いの踊りが行われたが継続することはなかった。
それから十数年後、昭和7年、青年団による復興運動が盛んになったことから、翌年の昭和8年に勝手神社の10月祭礼に躍ることになった。
慣例化されたものの、戦時下は中断する。
やがて、昭和27年に復興し踊りの在り方は崩れることなく現在に至る。
疫病退散に雨乞いのために行う山畑の神事踊りは、かつて笹踊りと花踊りの名称をもつものであった。
他地区の類例より、願掛けは笹竹などをつけて省略的な踊りの笹踊りと願済。
願解或は返礼の踊りとする花踊りであった。
勝手神社拝殿には明治二十六年に寄進奉納された絵馬が残されている。
その図柄によれば、現在の様式と同じようだというから貴重な史料である。
山畑の神事踊りは先に挙げた同市下柘植・愛田地区や旧阿山町の大江にない多くの特徴をもっている。
踊り子装束などに飾る付ける祭り用具は祭礼までに予め作っておく。
9月26日は「花きり」で社務所に関係者が集まって作業をする。
「花きり」は中踊りが背負うオチズイに取り付ける花や葉を作りあげる作業である。
白花に赤花を束ねてコヨリを通して作る。
葉は緑の紙を切って作る。
大太鼓が打つ楽打ちが付けるサイハイと呼ぶ五色幣もハサミを入れて作る。
ジャバラのような白い幣は「鉢の巣」の名がある。
これも中踊りが付ける。
踊り子の構成はハタカキと呼ぶ楽長(がくちょう)と鋲打ち大太鼓を打つ楽太鼓やかんこ打ちの中踊り、立歌いと地歌いの歌出し、地歌い兼任の横笛吹き、棒振りの鬼だ。
お渡りに付随する役もある。
籠馬(かごうま)にチャリと呼ばれる道化役の猿とひょっとこの馬子がつく。
楽長は一文字笠を被り、白着物に黒紋付羽織を着る。
楽太鼓は緋モミの前垂れのついた花笠を被り、腰に五色の御幣をつけて、赤の襦袢に広袖の白着物を黒の角帯で締める。
頭に山鳥、孔雀、雉、鶏などの羽根を取り付け白鉢巻き。
木綿地に唐獅子牡丹を染め出しした着物にウサギ染めの幕をつけた羯鼓を身につける。
両手にバイを持って造花で作ったホロ花を背負う。
蜂の巣やマキチリと呼び名がある緋の幟もつける。
ユニークなのは猿を表現したマルゴチの飾りもぶら下げる。
中踊りでは羯鼓を打つ仕草をするが、実際は打たない。
歌出しの地歌い役は妻折れ笠を被り、白着物に五つ紋の紋付羽織を着る。
一方、立歌い役は緋モミの前垂れのついた花笠を被り、白着物に紋付羽織で右手にもった団扇で踊りを振りつけるようにしながら歌う。
棒振りの鬼は青鬼と赤鬼。
頭に山鳥の毛冠、紺の襦袢に股引姿になる。
10月3日は参籠舎で行われる「花つくり」だ。
割竹は白い布を巻きつける。
「花きり」で作った花と葉をしなやかに曲がる4mほどの割竹に貼り付ける。
それらを終えれば境内に広げてホロ花を乾燥させる。
この日はお渡りに参列する黒と赤の籠馬には五色のタテガミやシュロで作った尻尾もある。
中踊りが背負う28本のホロ花も調製する。
出来上がれば下部を閉じてしなやかさが出るように曲げておく。
山畑には屋敷出、瀬古奥、上出(かんで)、谷出(たんで)、湯屋、湯屋奥、山王、瀬古、奥出、的場東、的場西、子守、中央、同満、宮西の15組がある。
祭り用具を作るのは廻り当番の二組があたる。
さらなる作業がある。
有志の人たちが作る赤い紙の牡丹花だ。
芯花に花びらを一枚、一枚、丹念にノリ付けする。
牡丹花は中踊りが背負うオチズイや楽打ちと立歌いの花笠に挿す。
なお、楽打ちは帯に薬入れの印籠を帯に着けたりするし、笠に緋色の布で顔を覆う「フクメン」もする。
このフクメンは立歌いの花笠にもある。
立歌いの花笠には12本の桜花も取り付ける。
祭り用具ができあがってほぼ2週間後の10月第二土曜日は宵宮。
この日は奉納相撲が手作り土俵の上で行われる。
夜、祈願祭が行われたのちに相撲が始まる。
裸姿の子供たちは白いふんどしをしている。
大正十五年より始まった青年会主催の「奉納角力」は小学生の部と成人の部がある。
成人の部は化粧回しを身につけた中入りや行司、呼び出しらも土俵に上がって角力甚句と力士歌を披露する。
奉納相撲の最後を飾る幣角力がある。
力士に大錦がある。
行司が幣を大錦に差し出すや否や幣を持った大錦が大きな声を掛けながらシコを踏む。
祝いの儀式になるそうだ。
そして、「ようてしゃんの」と声をかけてパン、パン、パン・・パンと手打ちする。
マツリの日は始めにお旅所へ向けてオチズイなどを運び出す。
オチズイの全容は美しいホロ花。
お旅所に持ち込んで立てることから「花あげ」の呼び名がある。
籠馬と猿はお旅所に建つ庚申堂に運ぶ。
お旅所の裏山は春日社跡地。
つまり津島神社があったとされる地であるが牛頭系ではなく春日というのが考えさせる。
お渡りを経て奉納される踊りは「式入踊り」、「御宮踊り」、「神役踊り(大神役・小神役の2曲)」、「津島踊り」の4曲であるが、かつては19曲の踊りがあったそうだ。
なお、神役踊りを終えれば左舞式入と呼ぶ「庭鎮め」の一節もある。
四に、宮川流域のひとつにある三重県多気郡大台町下三瀬(しもみせ)に羯鼓踊りがある。<資料なし>
大台町は名張市より東南の方角。
直線距離は35kmもある処だ。
元和元年(1615)大阪夏の陣に出陣し討死した三瀬左京祐の供養に由来すると云われている羯鼓踊りである。
三瀬左京祐は出陣にあたって、万一、討死の際は屋敷を地区のものとして、供養して欲しい旨を残したと云い、現存の慶雲寺は三瀬左京祐の屋敷跡と伝えられている。
五に、宮川流域のひとつである三重県多気郡明和町の有爾中(うになか)。
当地では毎年7月14日に近い日曜日に天王踊が行われる。
祭礼の場は宇爾桜神社。
疫病除けの天王祭行事の中で奉納される踊りが天王踊だ。
有爾中の羯鼓踊とも呼んでいる。
天王踊の主役となる踊り子は白馬の尾毛で作った円筒形の「シャグマ」を被って顔を隠し、羯鼓を打ちながら踊る大人に花笠を被って羯鼓を打ちながら踊る高学年の小学生。
綾踊りを演じる綾子と呼ばれる低学年の小学生が務める。
踊りは江戸時代半ばから行われてきたが、明治41年の神社合祀に伴って中断する。
その後は度々復活するも断続的に中断となっていた。
時代は昭和57年に移る。
伝統を絶やすまいと声をあげて当時の有志たちが造営を機会に復興する。
菅を編んで作ったシャグマは腰蓑にする。
竹ひごに紙で作った花を取り付け枝垂れ状にした飾りは「ヤナギ」と呼ぶ。
「ヤナギ」の原点は室町時代末のころから江戸時代にかけて全国的に広まった風流囃子の疫神祓いの造り物の一つにある「傘鉾」とされる。
「ヤナギ」はさらに緋色の円形布も取り付ける。
形から云えば伊賀市山畑(やはた)で行われる神事踊に登場する楽打ちや立歌いが顔を覆う「フクメン」と同型だと思った。
踊り子は皆、「ザイ」と呼ばれる飾り物を腰に挿す。
「ザイ」は形から采配のように思える。
演目は「入込み」を始めに、願済の「流願(立願の名もある)」、「世の中」、「世の中打ち抜き」。踊りが終われば境内に立ててあった「ヤナギ」こと傘鉾の花飾りを奪い合うように引き抜いて持ち帰る。
これを「ヤナギトリ」と呼ぶ。
その後の踊りは「きよまくま」、「三ツ願」、「回りズーデン」とも呼ばれる中踊りの「綾踊り」。休憩を挟んで「流願」で終えるが、このときの大人はシャグマを外して鉢巻き姿になる。
六に、三重県宮川流域にお盆の精霊を供養するカンコ(羯鼓)踊りがある。
下流域のカンコ踊りは菅の腰蓑にシャグマ姿という特異な扮装で踊る地域もあれば、円陣になって普段着で踊る盆踊りのような形態もある。
伊勢市の円座町(松阪より南方30km)・佐八町(松阪より南方18km)・小俣町の共敬(きょうけい)(松阪より南方16km)・下小俣(ホケソ踊り保存会)・中小俣・東豊浜町の土路、度会郡南伊勢町の道方、大台町の下三瀬、度会郡度会町の麻加江(大名行列踊りもある)など流域24カ所で行われている。
これらはお盆に踊る精霊初盆供養の踊りである。
地区によっては六斎鉦を打ち鳴らし「ガンニシクドク・・・念仏を唱えよう・・」などの詞章も入る。
「大踊り」、「念仏踊り」、「精霊踊り」、「大念仏」、「豊後」、「御所踊り」などがある。
昔からしていた念仏踊りに娯楽要素のある風流踊り(室町時代)が加味されたことによるものらしい。
七に、三重県松阪市小阿坂町のかんこ踊りがある。<資料なし>
年中行事として、今から200年前に起こったと伝えられるかんこ踊りは氏神に願礼報賽のために毎年1月14日に近い土曜日(12~18日間の土曜日)に小阿坂町阿射加神社境内に於いて奉納されている。
古来は、豊作の悦びと感謝の気持ちを込めて神に踊りを奉納する他、干害著しいときの雨乞い・諸祈願・慶事等に随時奉納していた。
踊りの内容は、太鼓を掛けた子供や大人の周りを和服姿で団扇を持った女子、その外側には赤采と白采を持った大人が唄・笛・洞貝に合わせて踊る世の中踊りなどがある。
八に、三重県松阪市西野町の西野子踊り(羯鼓型)がある。<資料なし>
いつ頃に始まったのか、定かではないが、言い伝えによれば、室町時代か安土桃山時代からとも考えられている。
明治末期から昭和初期にかけて最も盛大であったが、昭和27年以降、若い衆が少なくなったことから中断した。
その後、昭和54年に保存会を結成し、踊りを復活し、現在に至っている。
和歌山県日高市日高川町にある安珍清姫悲恋物語で知られる道成寺の流れをくむ郷土芸能である。
道成寺に展示してあった「道成寺から発信した郷土芸能の図」の中に、西野の子踊りがあった。
また、子踊りの「鐘巻踊」の歌の中にも安珍清姫悲恋物語が歌われている。
資料の一部によれば大江の羯鼓踊に近い様式をもつ地域は三重県の他、滋賀県にもあると書かれていた。
地区は甲賀市油日・油日神社の太鼓踊りがそうであるらしい。
こうした類事例の現状を調査するには何年もかかることであろう、と思う。
トップの写真は取材させていただいた南山城村・田山の花踊りである。
(H27.11. 3 EOS40D撮影)
伊賀市下柘植・愛田地区に伊賀市(旧阿山町の)大江、伊賀市山畑(やはた)がある。
京都南山城より東に向けて15kmから20kmの距離に三カ村が集約している。
一方、そこよりぐっと下がった南方に宮川が流れる。
その流域にある多気郡大台町下三瀬、伊勢市の円座町・佐八町・小股町の共敬・下小股・中小股・東豊浜町の土路、度会郡南伊勢町の道方、度会郡度会町の麻加江だ。
平成21年度に記録された「ふるさと文化再興事業地域伝統文化事業」を参照して整理した。
一に、伊賀市下柘植愛田地区・日置神社の「神事踊(別称宮踊り)」がある。
下柘植は南山城より東方の地。
直線距離で20kmも離れている。
雨乞い願掛け・満願の太鼓踊りで古くから伝わる羯鼓踊りの一種だ。
実施日はかつて7月24日の祇園祭り、現在は4月10日の大祭の午後に行われる。
一時途絶えていたが大正十三年に復活した。
戦中にも中断したが昭和31年に復興するも再び中断。
氏子青年会によって昭和51年に復帰する。
踊り子の構成はかんこ(羯鼓)を胸に背はシナイ姿の踊り子や歌役の「唄」に貝吹きの「貝」だ。
踊り子は薄青地の着物に浅黄地に狩猟文様の栽ち着け袴を履いて山鳥の羽飾りや冠の造花で飾ったオチズイ(かつてはヲチズエ)、締太鼓をつける。
10本の花が広がり垂れ下がるような恰好の花笠のように見えるのがオチズイと呼んでいるのだろう。
「唄」と「貝」は紺の着流しに紺の羽織を着て、菅(すげ)製の妻折れ笠(剣術を志す女性の道中笠で男性用が三度笠)を被る。
扇を上下に振って調子をとることもあれば円を描いて躍ることもある。
笠を被る「唄」は本歌、別に無笠のスケが補助につく。
「貝」はボーボーと単調な音色で法螺貝を吹き鳴らす。
鬼の衣装を着た道化役の鬼は赤熊をつけて面を被り、足は草鞋だ。
「御庭しずめ」、「御庭踊り」、「小祝入り」、「世の中踊り」に平成7年に復活した「順逆踊りと考えられるじゅんやく踊り」の五曲を継承している。
二に、伊賀市大江(旧阿山町)・陽夫多(やぶた)神社(在所は旧阿山町大字馬場)に奉納される「羯鼓(かっこ)踊」がある。
大江も南山城より東方の地。
直線距離で15kmも離れている。
雨乞い願掛け・満願・豊年の太鼓踊りは江戸時代の寛永年間(1624~)に始まったと伝わる。
現在の実施日は4月20日の陽夫多(やぶた)神社・例大祭に行われる奉納踊りであるが、かつては大字大江の氏神こと旧火明(ほあかし)神社の夏祭りだった。
当時は旧暦6月14日の祇園祭に奉納されていた踊りである。
明治41年、火明神社は他地区の神社とともに河合郷の郷社である陽夫多神社に合祀された。
躍る機会を失った結果、長い期間において中断していた。
大正二年、大旱魃に見舞われたことによって、陽夫多神社で雨乞い祈願、満願のときに羯鼓(かっこ)踊りが行われた。
その後、徴兵などで人手が集まらなかった昭和の戦時下に中断したが、出征兵士が戻った昭和22年に奉納するも高度成長期に突入する。
昭和35年、人手不足となり、再び中断。その後の昭和47年に踊り保存会を結成され復活した。
陽夫多神社は千貝、馬田、田中、馬場、川合、円徳院、大江(26戸)、波敷野を氏子圏ととする郷社である。
大江は河合郷の枝郷にあったが、それ以前は大江村であった。
昭和29年、鞆田村と合併した阿山村は、昭和42年に施行された町制によって阿山町となる。
平成16年、平成の大合併によって阿山町は伊賀市に含まれることになった。
踊り子が背に負うオチズイやオノフサ(苧の房の呼び名がある御幣)をマツリ前に大江・観音堂で調製する。
オチズイは2メートル近い長さのヒゴ竹。枝垂れに桜の造花と緑の花を取り付ける。
これを花造りと呼んでいる。
オノフサはオチズイの中心部に立てる白い御幣榊である。
青・赤鬼が手にする団扇はバイと呼ぶバチだ。
踊り子の構成は子供が法螺貝を吹く貝吹き、菅笠を被り三つ紋の浅葱色の着物を着て大太鼓を打つ楽打ち。
頭に山鳥・孔雀・雉・鶏の尾羽の飾り物を挿して、小紋の裁着(たっつけ)袴を履いた羯鼓の踊り子。
団扇で調子をとる歌出しは妻折れ笠(記録映像では三度笠のようだ)を被り、角帯を締めた五つ紋の黒地木綿を羽織る。
道化役の赤鬼・青鬼は大きな団扇を右手、竹製の金棒を左手に赤または紺の襦袢に股引き姿である。
「祠入り(しくいり)」、「お宮踊」、「世の中踊」、「御城踊」、「御殿踊」、「虎松踊」、「信玄踊」、「鐘巻踊」、「小順逆」、「大樹逆」、「四季踊」、「姫子踊」、「所望」、「かえせ」の14曲が伝承されているが、実際は10曲のようだ。
三に、伊賀市山畑(やはた)に鎮座する勝手神社に奉納される羯鼓型の神事踊がある。
山畑は南山城より東方の地。直線距離で20kmも離れている。
雨乞い願掛け後の満願返礼の際に躍られた神事踊は、毎年10月の第二日曜の勝手神社の祭礼に奉納している。
神事踊りは、何度も何度も中断の時期があったが、その都度、郷土の熱意によって復興してきた。
昭和10年に保存会組織を立ち上げ、今日まで伝承してきた。
神事踊は勝手神社奉仕団踊子部が作成した『勝手神社祭礼神事踊沿革史が』が詳しいそうだ。
起源は明らかでないが、明治40年までは勝手神社より離れた津島神社境内で旧暦6月13日に奉納されていた。
当時は「祇園祭神事花踊」と呼ばれ、悪疫平癒を願って踊っていた。
津島神社名は奈良県田原本町に鎮座する津島神社と同様にかつては祇園社の呼称があった。
伊賀市山畑も同じ神社名の津島神社。
明治時代の廃仏毀釈などで神社名を換えた経緯があると推測される。
話しを戻そう。
明治41年のことである。
理由は定かでないが、山畑の津島神社は勝手神社に合祀された機に中断となった。
その後の大正二年、大旱魃に見舞われたことによって雨乞いの踊りが行われたが継続することはなかった。
それから十数年後、昭和7年、青年団による復興運動が盛んになったことから、翌年の昭和8年に勝手神社の10月祭礼に躍ることになった。
慣例化されたものの、戦時下は中断する。
やがて、昭和27年に復興し踊りの在り方は崩れることなく現在に至る。
疫病退散に雨乞いのために行う山畑の神事踊りは、かつて笹踊りと花踊りの名称をもつものであった。
他地区の類例より、願掛けは笹竹などをつけて省略的な踊りの笹踊りと願済。
願解或は返礼の踊りとする花踊りであった。
勝手神社拝殿には明治二十六年に寄進奉納された絵馬が残されている。
その図柄によれば、現在の様式と同じようだというから貴重な史料である。
山畑の神事踊りは先に挙げた同市下柘植・愛田地区や旧阿山町の大江にない多くの特徴をもっている。
踊り子装束などに飾る付ける祭り用具は祭礼までに予め作っておく。
9月26日は「花きり」で社務所に関係者が集まって作業をする。
「花きり」は中踊りが背負うオチズイに取り付ける花や葉を作りあげる作業である。
白花に赤花を束ねてコヨリを通して作る。
葉は緑の紙を切って作る。
大太鼓が打つ楽打ちが付けるサイハイと呼ぶ五色幣もハサミを入れて作る。
ジャバラのような白い幣は「鉢の巣」の名がある。
これも中踊りが付ける。
踊り子の構成はハタカキと呼ぶ楽長(がくちょう)と鋲打ち大太鼓を打つ楽太鼓やかんこ打ちの中踊り、立歌いと地歌いの歌出し、地歌い兼任の横笛吹き、棒振りの鬼だ。
お渡りに付随する役もある。
籠馬(かごうま)にチャリと呼ばれる道化役の猿とひょっとこの馬子がつく。
楽長は一文字笠を被り、白着物に黒紋付羽織を着る。
楽太鼓は緋モミの前垂れのついた花笠を被り、腰に五色の御幣をつけて、赤の襦袢に広袖の白着物を黒の角帯で締める。
頭に山鳥、孔雀、雉、鶏などの羽根を取り付け白鉢巻き。
木綿地に唐獅子牡丹を染め出しした着物にウサギ染めの幕をつけた羯鼓を身につける。
両手にバイを持って造花で作ったホロ花を背負う。
蜂の巣やマキチリと呼び名がある緋の幟もつける。
ユニークなのは猿を表現したマルゴチの飾りもぶら下げる。
中踊りでは羯鼓を打つ仕草をするが、実際は打たない。
歌出しの地歌い役は妻折れ笠を被り、白着物に五つ紋の紋付羽織を着る。
一方、立歌い役は緋モミの前垂れのついた花笠を被り、白着物に紋付羽織で右手にもった団扇で踊りを振りつけるようにしながら歌う。
棒振りの鬼は青鬼と赤鬼。
頭に山鳥の毛冠、紺の襦袢に股引姿になる。
10月3日は参籠舎で行われる「花つくり」だ。
割竹は白い布を巻きつける。
「花きり」で作った花と葉をしなやかに曲がる4mほどの割竹に貼り付ける。
それらを終えれば境内に広げてホロ花を乾燥させる。
この日はお渡りに参列する黒と赤の籠馬には五色のタテガミやシュロで作った尻尾もある。
中踊りが背負う28本のホロ花も調製する。
出来上がれば下部を閉じてしなやかさが出るように曲げておく。
山畑には屋敷出、瀬古奥、上出(かんで)、谷出(たんで)、湯屋、湯屋奥、山王、瀬古、奥出、的場東、的場西、子守、中央、同満、宮西の15組がある。
祭り用具を作るのは廻り当番の二組があたる。
さらなる作業がある。
有志の人たちが作る赤い紙の牡丹花だ。
芯花に花びらを一枚、一枚、丹念にノリ付けする。
牡丹花は中踊りが背負うオチズイや楽打ちと立歌いの花笠に挿す。
なお、楽打ちは帯に薬入れの印籠を帯に着けたりするし、笠に緋色の布で顔を覆う「フクメン」もする。
このフクメンは立歌いの花笠にもある。
立歌いの花笠には12本の桜花も取り付ける。
祭り用具ができあがってほぼ2週間後の10月第二土曜日は宵宮。
この日は奉納相撲が手作り土俵の上で行われる。
夜、祈願祭が行われたのちに相撲が始まる。
裸姿の子供たちは白いふんどしをしている。
大正十五年より始まった青年会主催の「奉納角力」は小学生の部と成人の部がある。
成人の部は化粧回しを身につけた中入りや行司、呼び出しらも土俵に上がって角力甚句と力士歌を披露する。
奉納相撲の最後を飾る幣角力がある。
力士に大錦がある。
行司が幣を大錦に差し出すや否や幣を持った大錦が大きな声を掛けながらシコを踏む。
祝いの儀式になるそうだ。
そして、「ようてしゃんの」と声をかけてパン、パン、パン・・パンと手打ちする。
マツリの日は始めにお旅所へ向けてオチズイなどを運び出す。
オチズイの全容は美しいホロ花。
お旅所に持ち込んで立てることから「花あげ」の呼び名がある。
籠馬と猿はお旅所に建つ庚申堂に運ぶ。
お旅所の裏山は春日社跡地。
つまり津島神社があったとされる地であるが牛頭系ではなく春日というのが考えさせる。
お渡りを経て奉納される踊りは「式入踊り」、「御宮踊り」、「神役踊り(大神役・小神役の2曲)」、「津島踊り」の4曲であるが、かつては19曲の踊りがあったそうだ。
なお、神役踊りを終えれば左舞式入と呼ぶ「庭鎮め」の一節もある。
四に、宮川流域のひとつにある三重県多気郡大台町下三瀬(しもみせ)に羯鼓踊りがある。<資料なし>
大台町は名張市より東南の方角。
直線距離は35kmもある処だ。
元和元年(1615)大阪夏の陣に出陣し討死した三瀬左京祐の供養に由来すると云われている羯鼓踊りである。
三瀬左京祐は出陣にあたって、万一、討死の際は屋敷を地区のものとして、供養して欲しい旨を残したと云い、現存の慶雲寺は三瀬左京祐の屋敷跡と伝えられている。
五に、宮川流域のひとつである三重県多気郡明和町の有爾中(うになか)。
当地では毎年7月14日に近い日曜日に天王踊が行われる。
祭礼の場は宇爾桜神社。
疫病除けの天王祭行事の中で奉納される踊りが天王踊だ。
有爾中の羯鼓踊とも呼んでいる。
天王踊の主役となる踊り子は白馬の尾毛で作った円筒形の「シャグマ」を被って顔を隠し、羯鼓を打ちながら踊る大人に花笠を被って羯鼓を打ちながら踊る高学年の小学生。
綾踊りを演じる綾子と呼ばれる低学年の小学生が務める。
踊りは江戸時代半ばから行われてきたが、明治41年の神社合祀に伴って中断する。
その後は度々復活するも断続的に中断となっていた。
時代は昭和57年に移る。
伝統を絶やすまいと声をあげて当時の有志たちが造営を機会に復興する。
菅を編んで作ったシャグマは腰蓑にする。
竹ひごに紙で作った花を取り付け枝垂れ状にした飾りは「ヤナギ」と呼ぶ。
「ヤナギ」の原点は室町時代末のころから江戸時代にかけて全国的に広まった風流囃子の疫神祓いの造り物の一つにある「傘鉾」とされる。
「ヤナギ」はさらに緋色の円形布も取り付ける。
形から云えば伊賀市山畑(やはた)で行われる神事踊に登場する楽打ちや立歌いが顔を覆う「フクメン」と同型だと思った。
踊り子は皆、「ザイ」と呼ばれる飾り物を腰に挿す。
「ザイ」は形から采配のように思える。
演目は「入込み」を始めに、願済の「流願(立願の名もある)」、「世の中」、「世の中打ち抜き」。踊りが終われば境内に立ててあった「ヤナギ」こと傘鉾の花飾りを奪い合うように引き抜いて持ち帰る。
これを「ヤナギトリ」と呼ぶ。
その後の踊りは「きよまくま」、「三ツ願」、「回りズーデン」とも呼ばれる中踊りの「綾踊り」。休憩を挟んで「流願」で終えるが、このときの大人はシャグマを外して鉢巻き姿になる。
六に、三重県宮川流域にお盆の精霊を供養するカンコ(羯鼓)踊りがある。
下流域のカンコ踊りは菅の腰蓑にシャグマ姿という特異な扮装で踊る地域もあれば、円陣になって普段着で踊る盆踊りのような形態もある。
伊勢市の円座町(松阪より南方30km)・佐八町(松阪より南方18km)・小俣町の共敬(きょうけい)(松阪より南方16km)・下小俣(ホケソ踊り保存会)・中小俣・東豊浜町の土路、度会郡南伊勢町の道方、大台町の下三瀬、度会郡度会町の麻加江(大名行列踊りもある)など流域24カ所で行われている。
これらはお盆に踊る精霊初盆供養の踊りである。
地区によっては六斎鉦を打ち鳴らし「ガンニシクドク・・・念仏を唱えよう・・」などの詞章も入る。
「大踊り」、「念仏踊り」、「精霊踊り」、「大念仏」、「豊後」、「御所踊り」などがある。
昔からしていた念仏踊りに娯楽要素のある風流踊り(室町時代)が加味されたことによるものらしい。
七に、三重県松阪市小阿坂町のかんこ踊りがある。<資料なし>
年中行事として、今から200年前に起こったと伝えられるかんこ踊りは氏神に願礼報賽のために毎年1月14日に近い土曜日(12~18日間の土曜日)に小阿坂町阿射加神社境内に於いて奉納されている。
古来は、豊作の悦びと感謝の気持ちを込めて神に踊りを奉納する他、干害著しいときの雨乞い・諸祈願・慶事等に随時奉納していた。
踊りの内容は、太鼓を掛けた子供や大人の周りを和服姿で団扇を持った女子、その外側には赤采と白采を持った大人が唄・笛・洞貝に合わせて踊る世の中踊りなどがある。
八に、三重県松阪市西野町の西野子踊り(羯鼓型)がある。<資料なし>
いつ頃に始まったのか、定かではないが、言い伝えによれば、室町時代か安土桃山時代からとも考えられている。
明治末期から昭和初期にかけて最も盛大であったが、昭和27年以降、若い衆が少なくなったことから中断した。
その後、昭和54年に保存会を結成し、踊りを復活し、現在に至っている。
和歌山県日高市日高川町にある安珍清姫悲恋物語で知られる道成寺の流れをくむ郷土芸能である。
道成寺に展示してあった「道成寺から発信した郷土芸能の図」の中に、西野の子踊りがあった。
また、子踊りの「鐘巻踊」の歌の中にも安珍清姫悲恋物語が歌われている。
資料の一部によれば大江の羯鼓踊に近い様式をもつ地域は三重県の他、滋賀県にもあると書かれていた。
地区は甲賀市油日・油日神社の太鼓踊りがそうであるらしい。
こうした類事例の現状を調査するには何年もかかることであろう、と思う。
トップの写真は取材させていただいた南山城村・田山の花踊りである。
(H27.11. 3 EOS40D撮影)