マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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かつて牛頭天王社と呼ばれた大宇陀本郷の八阪神社

2016年07月24日 11時30分22秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
平成22年のことだ。

9月12日は十二薬師。

同月15日は薬師さんの数珠繰りをしていると写友人が聞いていた大宇陀本郷。

枝垂れ桜で名高い本郷の地は幾度か訪れた宿泊地がある。

椿寿荘である。

家族揃って泊まった椿寿荘の食事はとても美味しかった。

高齢のおふくろは柔らかくしてあるから食べやすいと云っていた。

食事の場はカラオケ会場にもなる。

食事を済ませて他に泊り客がいないことを良いことにカラオケ三昧したことがある。

あれから20年以上も経った椿寿荘は今もあるらしいが、その場を通り過ぎて山の方に向かう。

たしかここら辺りから山の方に登っていった記憶があるが道はすっかり忘れて不安が漂う。

集落手前に石で造った祭壇がある。

何かを祀っているのだろうと思って停車した。

右側に立つ石漂がある。

彫られた文字は「おご乃明神」。

付近に人影が見られず話は聞けていない。

その場より数メートル右も三叉路。

異なる石漂があった。

刻印に「嘉永酉年」がある。

おそらく嘉永二年(1849)に建てたと思われる石漂は「右・・云々」とある。

判読は難しい。

ひとっ子一人いない、その場を下って人影を探す。

右手にあった民家に数人の男性が居られた。

地元に住む人なら道辺寺垣内への行先道を教えてくれるであろうと思われた。

たしかにその通り。

ここら辺りは四垣内。

道辺寺垣内は山の上の方にある集落。

ここは西にあたるらしい。

山近くに建つ寺は薬師寺。

四垣内の代表者ぐらいしか登らないという寺だ。

その辺かどうか判らないが山の神の行事があれば・・・と云えば、それを知っているのはYさんぐらいだけだという。

そのYさんは入院療養中の身であるらしい。

どうやら5年前に具合が悪くなったようだと話す。

道辺寺垣内のすべてではないが山の仕事を主にしているという。

山の仕事人でないと存知さいない山の神行事。

村の行事や風習を知る人はYさんしかいない。

5年前にYさんが話していた山の神行事。

場所は不明だが、竹筒と藁ジャコのカケゴ掛けをしていると話していた。

療養中の身であるYさんが居らっしゃることを知っただけでもうれしく思った。

山へ向かう道を教えてもらって駆け上がる。

急カーブに急坂道。

おそるおそる駆け上がる。

なんとなくここは来たことがあるようだと思った村の景観。

ふっと不安になった。

怖くなったのだ。

Uターンして戻った処に住居表示があったが、Yさんの名前はない。

もっと上のようだが、この日は諦めて道を下った。



するとカーナビゲーションに寺名が表示された薬師寺とは違う名の寺だ。

そこに向かおうと思ってハンドルをきった。

ふっと現れた大きな石塔。

刻印に「太神宮」がある。

一方の辺にもあった刻印は「三太郷村中」だ。

ここら辺りは三太郷の呼び名があるらしい。

その地に鎮座する神社は八阪神社。

神社下に生えるクマザサらしき太い葉の笹がある。



その場に林立するかのように立てている割り竹がある。

何を意味するかの、不思議な光景だ。

鳥居脇に「天保二年辛卯(1831)三月吉日」の刻印文字がある常夜燈が建つ。

すぐ傍には月・日をあしらい、「庚申」の文字がある庚申さんがある。



格子戸から覗いてみた。

急な階段を登る。

2段構えの階段だ。

本殿に上がる階段下にも石灯籠が建っていた。

それには「牛頭天王社」の文字がある。

おそらくは江戸時代まではそう呼ばれていたのであろう。



もう一つの灯籠に「下本郷村」や「文化十二年乙亥(1815)六月」の刻印が見られる。

すべてが江戸末期の年号であった。

もう少しゆっくり調査したいと思ったが雨が降り始めた。

仕方なく先を急いだ。

(H27.11. 7 EOS40D撮影)