奈良県の北外れにある「田山」の地を知ったのはいつだったろうか。
福住別所の永照寺下之坊住職だったのか、それとも月ヶ瀬桃香野の善法寺住職だったのか覚えてないが、月ヶ瀬地区辺りにあるその地でオコナイ行事があるやに聞いていた。
もしかとしたら都祁針の観音寺住職だったかも知れない。
行事を行う寺名は存じていない。
オトナと呼ばれる長老らは宮本(宮元とも)座、中間(中元とも)座の二座を組織していた。
念仏を唱える際に発せられる「ランジョー」に合わせて子供が棒をもって叩くらしい。
それは諏訪神社宮司も一緒になって行う神仏混合の行事であった。
私の記録メモ、平成22年より書いてあった1月の正月行事は京都府相楽郡南山城村・田山にある観音寺だった。
この日に訪れた田山の諏訪神社におられた田山の花踊り保存会副会長が今でもしているが・・と云いかけた。
座の諸事情によって数年前からランジョー作法(本堂外縁のマナイタ叩き)は中断しているようだが、都祁針の観音寺住職が来られて法会を行っているということだ。
写真は諏訪神社の急な石段。
もしかとすればだが、角度は45度かも・・。
それはともかく最下段辺りの石段に数個の穴が彫られていた。
間違いなければこれは「盃状穴(はいじょうけつ)」。
いつの時代か判らないが当社においても願掛け、あるいはまじないをしていたのであろう。
田山の花踊りが奉納される神社は諏訪神社。
本殿下右横の境内で行われる。
同神社の割拝殿には数々の絵馬が奉納されて掲げられている。
正面に拝掲する絵馬に興味をもった。
10枚なのか、12枚なのか隠れている枚数もあるのか、それも判らない絵馬を一枚、一枚眺めてみる。
大きな松明とも思える道具に火が見える。
十月・マツリの日と思える出店の様相もある。
五月・笠を被った人が田植えをしている絵もあるし、六月・傘廻しと思える大道芸も。
三月はたぶんに梅の花見。
七月は競い馬だ。
画風や奉納寄進者の名から判断して江戸時代の作だと思えた絵馬に感動する。
また割拝殿には「明治乙亥(明治八年・1875)春陽日 淡海谷氣長筆」とある仇討を描いたと思える絵馬が一枚。
「明治三□□乙亥年(明治八年;1875)四月五日」の記銘がある赤穂浪士の討ち入りを描いたと思える一枚もある。
「施主長老」26人の連名があることから奉納寄進したのは座中(宮本座・中間座の二座)であろうか。
なお、他の資料によれば座は宮本座(宮元座とも)に中間座(中元座とも)、九日(くにち)座があるようだ。
田山に来た訳はもう一つある。
今年の8月末に京都府立山城郷土資料館の企画展の「踊る!南山城-おかげ踊り・花踊り・精霊踊り-」に南山城村の「田山の花踊りを紹介していた展示物を拝見したことによる。
11月3日に行われる花踊りは諏訪神社に奉納される。
集合・出発地は旧田山小学校グラウンド。
そこから神社に向けて練り歩く行列がある。
展示に記録動画もあった。
「花踊り」の踊りや衣装・シナイ飾りを見ていてなんとなく奈良市大柳生や月ヶ瀬石打の太鼓踊りを思い起こす。
太鼓に乗った子供が雨乞い願掛けを口上するのも石打と同じ。
行列に棒(棒術なのか、払い棒なのか?)のようなものを持つのも同じであるが、これまで見たこともないような、顔を金箔の笠で覆った黒い紋付の羽織袴衣装を着る「唄付け」にも興味をもった。
太鼓打ちの前で貝吹きをする修験者の姿もある。
この様相は是非とも拝見したいと思って出かけた田山。
午後ともなれば旧田山小学校跡の講堂体育館に集まって、踊り衣装の着替えが始まった。
傍には緑色の葉に咲いた桃色花の飾りを保管していた大きな箱があった。
それには「志ない」と書いてあった。
大人たちは踊り子。
その場に居た浴衣姿の小さな子供はササラを手にしている。
もう一人は裃姿だ。
椅子に座って念仏とも思えるような詞章を小さな声で唱えていた。
この男の子は諏訪神社で奉納される田山の花踊りに重要な役目を担う神夫知(しんぶち)である。
広げた詞章は「謹上再拝 謹上再拝 皆々様 静まり候らえ 静まり候らえ 京都府相楽郡南山城村大字田山には 古より 大旱天の年に当たりては 氏神様 諏訪神社に 雨乞いの祈願を込め 神威により 雨降らし給うや 村人達 うち集い 願済ましの踊りを奉納するを例とし 今日まで伝えられ候ところ 長き歳月 旱天もなく このままにては 古き文化も廃れ 後の世まで伝えること 難しくなるを虞れ これを改め 五穀豊穣 家内安全の祈願を願ましとし 氏神様の祭礼に奉納せんとす 御入来の皆々様 ゆるゆる御見物 なされ候らえ なされ候らえ 」、「平成二十七年十一月三日 神夫知○○」。(※ ○○は太鼓の上に乗って向上する男児の名前である。)
口上はもう一つ。
愛宕参り、八つ橋踊りを紹介する口上である。
黙々と頭に叩き込む姿に声はかけられない。
氏神さんを祀る諏訪神社へ奉納される花踊り。
踊り子たちが始めに登場する場は旧田山小学校の校庭だ。
平成15年3月を最後に廃校となった村立田山小学校である。
懐かしいケンケン遊びの痕跡がある。
昔の痕跡ではなく、午前中に立ち寄ったときにはなかったから、ついさっきまで子供たちが遊んでいたのであろう。
幕始めに披露される旧田山小学校校庭は旧有野家の庭だったそうだが、その関係性は田山花踊り保存会編集・発行の『雨乞い田山花踊り』には書かれていない。
何故に旧有野家の庭で披露されるのか、再訪した際に尋ねてみたい。
踊り子が背中に担いだシナイ。
復活したときに作った衣装は今年が最後の出番。
50年も使用してきた衣装は新調されて来年には披露されるらしい。
心棒の中半分は赤・緑三段の房飾り。
天頂は長さ2メートルほどの竹に造花や色紙で飾っている。
花笠のような仕立ての桃色花に緑色葉は色紙で作られている造花だ。
そこに赤10本・白色5本の御幣も挿していた。
重さはどれくらいか存知しないが、躍る際のバランスとりが難しいように思えた。
踊り子の衣装は花柄の長羽織。赤・黄紅葉が流水に舞っているような柄のようだ。
この柄は京都生まれの染物作家・皆川月華による作品らしい。
踊り方のコツを披露直前まで指導していたのは花踊り保存会の副会長。
長年に亘って受け継いだ花踊りを次世代に継いでいた。
足元は白脚絆に草鞋。
手は白い手甲を嵌める。
いずれも赤い紐で締めている。
長羽織を着る女装姿の踊り子たち(ハナの呼び名がある)が登場した時間帯は黒い雲が俄かに張りだした。
雨天における花踊りが心配されたが、10分ほどで流れていった。
旧田山小学校跡の校庭に二宮金次郎像があった。
懐かしい。
とはいっても私はここの出身者ではない。
大阪市内の住之江区。
生まれ育った北島町にある敷津浦小学校だ。
敷津浦小学校の創立は明治7年。
昭和41年に卒業してから何十年も経った。
記憶は曖昧だが、母校も校庭に二宮金次郎像があったことを鮮明に覚えている。
わたしが学んだ母校とほぼ同じ時期の明治9年に創立された旧田山小学校跡校舎の廊下の突きあたり手前の扉を開ける。
舎内教室にあった椅子や机。
黒板などなどはいずれも当時のまんまのようだ。
コの字型の校舎にあがってみる。
土足は厳禁。靴を脱いで廊下にでる。
綺麗に磨きをかけた板張り廊下。
このような建物構造は大阪市内にあった敷津浦小学校校舎となんら変わらない。
卒業して学年はあがって中学生。
学び舎は北に徒歩15分の市立南稜中学校に移った。
思いだすのは廊下も舎内教室も板張りだった。
スリッパを履いていたような気がする。
一直線に伸びる長い廊下を雑巾がけしていた時代を思いだして、同じポジションから横位置も撮ったが、奥行きはあまり感じない。
撮る位置の角度もあるのかも知れないが、確かめる時間はなかった。
田山の花踊りは雨乞い祈願。
水の神さんとして信仰される氏神・諏訪神社へ捧げる雨乞いの踊りである。
諏訪神社は明治時代の神仏分離令がでるまでは九頭大明神と呼ばれていた。
神社名が替わったのは明治四年一月のことだ。
このようなケースは日本各地で見られる。
神社に建之された灯籠などでその痕跡が判るが、この日は確かめる余裕はなかった。
「毎年のことだけど、奉納が始まるまで曇り空であっても晴れになる」と話したのは「入端(いりは)太鼓」役を務める女の子の母親だった。
「水の神さんに奉納するんやから、雨天でも決行する」と村人らが話していたのも頷ける。
ただ、決行する場所は「トレセン」になると話していた。
屋内スポーツ施設として利用されている「南山城村農業者トレーニングセンター」が「トレセン」の正式名称である。
田山の花踊りには願掛けの軽いものから重厚なものまで、十四段階の踊り系統がある。
『雨乞い田山花踊り』記念誌によれば14曲目。
軽いものに願掛けの雨乞いをして3日以内に叶った場合は諏訪神社の籠堂で躍る「こもりの願」がある。
その他、願が叶って各戸が持ち寄った青物を供える「青物願」や蒸し米を供える「供の願」、百若しくは百八つの灯明を灯す「百灯明の願」、千個の火を灯す「千灯明の願」、地区の組ごとに大灯籠に火を灯す「大灯籠の願」、キリコ灯籠を灯す「キリコ灯籠の願」、「山灯籠の願」、「臨時大祭の願」、自由な衣装で伊勢音頭を唄って自慢の芸をみせる「総いさめの願」、3日続けて踊っても雨が降らなかった場合に躍る「ふりかけ踊りの願」、羯鼓(かんこ)と呼ばれる締め太鼓を胸につけてバチを打ちながら踊る「かんこ踊りの願」。シナイの造花代わりに依代の笹をつけて踊る「笹踊りの願」、効験は見られず、期限も設けず踊り明かした「雨乞い願満」、茅葺の屋根から雨滴が落ちるぐらいの雨量になったときに踊る「花踊りの願」がある。
この日に披露される「田山の花踊り」は最後に挙げた「花踊り」の形式だ。
着替えを終えた踊り子たちは講堂を出て校庭に集まる。
家族とともに記念の写真をおさまる家族も多い。
お父さんの晴れ姿に絣模様の浴衣になった小さな子供も一緒になって記念撮影だ。
親子三代に亘って神夫知役を務めた家系もあるようだ。
「花踊り」の楽曲は12曲の「庭踊り」がある。
九節の「愛宕踊」、五節の「屋敷踊」、五節の「庭の踊」、五節の「手きき踊」、六節の「御殿踊」、八節の「姫子踊」、十八節の「陣役踊」、七節の「拾九踊」、五節の「鎌倉踊」、九節の「八ツ橋踊」、七節の「綾の踊」、七節の「御庭踊」である。
合計で十二段、九十一節。
すべてを奉納披露すれば丸々どころか二日間にも亘るらしい。
この日の時間枠からいえば数曲。曲(演目)は毎年替わるようだ。
さぁさ、踊ろう・・・旧田山小学校跡の校庭で披露される初めの楽曲は「愛宕踊り」。
小学3年生の男・女児が太鼓を打つ「入端(いりは)太鼓」によって始まる。
小学生が奏でる場に並んだ人は修験姿の四人。
ボー、ボーと吹き鳴らす法螺貝の音色は単調なように聞こえる。
次は真打の太鼓打ち。
子供と同じく鉢巻きを締めている。
上は黒紋付。
下は袴姿。
バチを打つ姿はさすがだなと思った。
その様子を横で拝見する入端太鼓役の子供たち。
大きくなったら担ってみたいと思っているのだろう。
入端太鼓役の子供たちの右に立っているのは3人の太鼓打ち。
シナイを背負った女装の姿。
衣装は中踊り役と同じようだ。
両手にバチを持っているので役目は一目瞭然だ。
田山の花踊りが最も特徴的なのは唄ウタイである。
唄ウタイは「唄付」の呼び名がある。
黒紋付に白足袋。
下駄履きで頭部は紅白の花を取り付けた菅笠。
顔部分に垂らした白布に前面は金箔マスクの顔隠し。
奈良県内ではまったく同類が見られない独特の装束に不思議を感じる。
右手に持つ白扇で調子をとる唄付は踊り子の調子をだす節回し役。
隠れた存在であるが、撮った画面をよくよくみれば白扇ではなくヒラヒラの金色紙を貼った棒のようなもので節回しをしている数人の唄付もおられたことを付記しておく。
呼び名が「唄付」の唄ウタイの顔隠し装束が気になり、類事例があるのかどうか調べてみた。
参照したのは「三重県インターネット放送局」が公開している三重県内の伝統行事である。
それによると、三重県内で羯鼓(かんこ若しくはかっこ)踊りを継承している地域は12例もある。
伊賀市下柘植・愛田地区に伊賀市(旧阿山町の)大江、伊賀市山畑(やはた)がある。
京都南山城より東に向けて15kmから20kmの距離に三カ村が集約している。
一方、そこよりぐっと下がった南方に宮川が流れる。
その流域にある多気郡大台町下三瀬、伊勢市の円座町・佐八町・小股町の共敬・下小股・中小股・東豊浜町の土路、度会郡南伊勢町の道方、度会郡度会町の麻加江だ。
なかでも田山の「唄付」の顔隠しとそっくりなのは伊賀市山畑(やはた)だ。
田山が白色に対して山畑は緋色の布である。
その名も「フクメン」。
そのまんまの呼び名である。
違いがあるのは扇に対して団扇になることだ。
また、唄ウタイでもなく、室町時代末のころから江戸時代にかけて全国的に広まった風流囃子の疫神祓いの造り物の一つにある「傘鉾」とされる多気郡明和町の有爾中(うになか)の「ヤナギに取り付けたものも「フクメン」と同じ形式であった。
なお、「フクメン」はしていないが、菅製妻折れの花笠を被り、黒紋付羽織で振りの扇が同じような地区に伊賀市下柘植愛田地区と大江(旧阿山町)がある。
詳しく書けばきりがないが、奈良大和の太鼓踊りや、十津川などの大踊りと似通った部分が多々見られる三重県事例は直に拝見したいものだと思うが、「三重県インターネット放送局」の事例公開だけでなく、もっともっと多くの事例がある。
調べれば調べるほど羯鼓踊りが多いことに驚く。
半年後に花踊りとか花笠踊り、太鼓踊り、あるいは羯鼓踊りなどこれら類事例を体系的に纏められ、数多くの論文を発表されている「京都学園大学人間文化学部メディア文化学科民俗芸能論」の青盛透氏とお会いする機会があった。
自ずと質問したのはこの唄付、フクメンの不思議な姿である。
青盛氏が云われたのはこの装束は「男性が女装する風流(ふりゅう)の一つにある」だった。
風流は逆に女性が男装する場合もある。
宝塚歌劇団もその流れ。
マツリによく見られる男性が女装する姿も風流になるそうだ。
ちなみに菅笠は平安時代の市女笠に見られるように女性が被る笠の一種。
笠に垂らしている金色の紙片で顔を隠し、周りは白地の布で囲う。
これは「モミ」という名、着物で云えば振袖のようなものだと話す。
「モミ」の色っていうのは何だろう。
調べてみれば紅花で染めた絹布の色。
これで合っているのだろうか。
ところで、田山のシナイを背負って羯鼓(かんこ若しくはかっこ)と呼ばれる締め太鼓を胸につけてバチを打ちながら踊る姿を拝見して気がついた。
音が鳴っていないのだ。
バチで羯鼓を打つ真似をしているだけだった。
これは田山に限ったものではなく、三重県事例にはいくつかある。
愛宕踊りを踊った踊り子たちは校庭を出発する。
先頭は陣笠を被った裃姿の警護武士。
次に編笠被りの竹の払い棒持ち(白装束の一の棒は七五三御幣を持つ世襲制家・二~五の棒持ちは女装の着流し)、長谷川流棒術の少年(かつては青年男子)。
ササラ、鶏兜を被る天狗とササラを手にするひょっとこ面の道化。
太鼓曳き、入端太鼓、師匠太鼓、修験姿で法螺貝を吹く4人、2人の貝の助、神夫知(しんぶち)、保存会役員、3~4人の太鼓打ち(シナイ飾りの太鼓打ちが3人)。
独特な装束の唄付は11~12人(昭和57年は9人)。
黒紋付に白足袋だ。
しかも、下駄履きで頭部は金箔マスクで全面顔隠し。
奈良県内ではまったく同類が見られない装束である。
菅笠を被り白扇で調子をとる唄付は踊りの節回し役。
隠れた存在である。
行列の最後を〆るのは踊り子12人の中踊り。
鉢巻き姿が勇ましい。
お渡りの終着点は諏訪神社の鳥居。
ここを潜って急な階段を登っていけば宮司が祓ってくださる。
ササラを持つ子供たちや屈めて登る踊り子も祓い清める。
隊列だけでなく、同じように登る一般の人も祓ってくださる。
行列の人数は多い。
場を離れて一息つく。
そこに落ちてあったササラ。
子供が落としたのであろう。
よくよく見れば鋸のような刻みがある。
音が鳴るササラの二重構造がよく判る。
曲(演目)は毎年替わると話していた「入端(いりは)太鼓」役を務める女の子の母親。
いろいろ教えてくださったのが嬉しい。
母親が云うには、入端太鼓は小学3年生の男・女児。
棒振りは小学4年生から6年生までの男女(平成14年までは男児)に中学3年生までの男の子たちが役目を務めるそうだ。
ちなみに、ササラ持ちは保育園児に小学1年生から2年生までが務める。
神夫知(しんぶち)の口上は二つある。
一つ目は太鼓の上に立って、神殿に向き軍配を片手に雨乞いの口上を述べる。
「謹上再拝 謹上再拝」を口上して二拝する。
二つ目は向きを換えて同じく太鼓の上に乗って「愛宕参りは所願成就 次に踊るは八つ橋踊りで御座候 団扇の用意為され候らえ 為され候らえ さらば太鼓の役 頼み申す ホー」を口上する。申して直ちに太鼓から降りて役目を終えた神夫知(4年生以上の小学校高学年)であった。
口上が終わるや否や一番手の太鼓が打たれて「ドドーン」。それを合図に「八ツ橋踊」を披露される。
『田山花踊保存会結成五十年のあゆみ 田山花踊り』によれば、これまでの楽曲は平成26年が「愛宕踊」、「十九踊」、「姫子踊」。
近年を繰り下がってみよう。
平成25年は「愛宕踊」、「屋敷踊」、「手きき踊」。
24年は「愛宕踊」、「綾の踊」、「御庭踊」。
23年は「愛宕踊」、「鎌倉踊」、「御庭踊」。
22年は「愛宕踊」、「陣役踊」、「御庭踊」。
21年は「愛宕踊」、「御殿踊」、「御庭踊」。
20年は「愛宕踊」、「庭の踊」、「御庭踊」。
19年は「愛宕踊」、「八ツ橋踊」、「御庭踊」。
平成27年の今年は「愛宕踊」、「八ツ橋踊」、「御庭踊」を披露された。
こうしてみれば校庭で行われる踊り始めは常に「愛宕踊」(校庭で3節・境内で後半3節であろうか)だ。
「八ツ橋踊」をされて一旦は小休止。
次は保存会副会長が口上を述べて「御庭踊」が始まった。
諏訪神社の奉納踊りの〆は、ここ数年間のだいたいが「御庭踊」で、中踊りがそれぞれの年によって異なるようである。
「田山の花踊り」の起源は明らかでないが、安永二年(1773)に発生した飢饉の年に願掛け花踊りが行われた際に使われた床几(しょうぎ)一台が残されていると、田山花踊り保存会編集・発行の『雨乞い田山花踊り』に書いてある。
床几に年代が書いてあったのかどうか、そこまでは書かれていない。
推測であるが、たぶんに床几の裏面に墨書があるのだろう。
また、寛政六年(1794)に書き記された唄本が保存されている。
唄本の裏書に「天保十一年(1840)花踊アリ、森本林助十二才、文久三年(1863)笹踊アリ、明治九年(1876)カンコ踊、明治十六年(1883)カンコ踊・・・明治十九年(1886)・・・明治二十六年(1893)五月十日・六月二十五日・・・」などの記帳がある。
田山の花踊りは大正13年に「笹踊り」を奉納してから飢饉の年は発生せずに花踊りが途絶えた。
昭和38年、初老厄年の有志5人が発起人となって保存会を立ち上げ復活した。
空白期間は40年間。
体験記憶を辿りながら復興され、諏訪神社例大祭日の10月17日に踊りを奉納していた。
その後の平成7年~9年にかけては第三日曜日。
翌年の平成10年からは11月3日の祝日に落ち着いた。
(H27.11. 3 EOS40D撮影)
福住別所の永照寺下之坊住職だったのか、それとも月ヶ瀬桃香野の善法寺住職だったのか覚えてないが、月ヶ瀬地区辺りにあるその地でオコナイ行事があるやに聞いていた。
もしかとしたら都祁針の観音寺住職だったかも知れない。
行事を行う寺名は存じていない。
オトナと呼ばれる長老らは宮本(宮元とも)座、中間(中元とも)座の二座を組織していた。
念仏を唱える際に発せられる「ランジョー」に合わせて子供が棒をもって叩くらしい。
それは諏訪神社宮司も一緒になって行う神仏混合の行事であった。
私の記録メモ、平成22年より書いてあった1月の正月行事は京都府相楽郡南山城村・田山にある観音寺だった。
この日に訪れた田山の諏訪神社におられた田山の花踊り保存会副会長が今でもしているが・・と云いかけた。
座の諸事情によって数年前からランジョー作法(本堂外縁のマナイタ叩き)は中断しているようだが、都祁針の観音寺住職が来られて法会を行っているということだ。
写真は諏訪神社の急な石段。
もしかとすればだが、角度は45度かも・・。
それはともかく最下段辺りの石段に数個の穴が彫られていた。
間違いなければこれは「盃状穴(はいじょうけつ)」。
いつの時代か判らないが当社においても願掛け、あるいはまじないをしていたのであろう。
田山の花踊りが奉納される神社は諏訪神社。
本殿下右横の境内で行われる。
同神社の割拝殿には数々の絵馬が奉納されて掲げられている。
正面に拝掲する絵馬に興味をもった。
10枚なのか、12枚なのか隠れている枚数もあるのか、それも判らない絵馬を一枚、一枚眺めてみる。
大きな松明とも思える道具に火が見える。
十月・マツリの日と思える出店の様相もある。
五月・笠を被った人が田植えをしている絵もあるし、六月・傘廻しと思える大道芸も。
三月はたぶんに梅の花見。
七月は競い馬だ。
画風や奉納寄進者の名から判断して江戸時代の作だと思えた絵馬に感動する。
また割拝殿には「明治乙亥(明治八年・1875)春陽日 淡海谷氣長筆」とある仇討を描いたと思える絵馬が一枚。
「明治三□□乙亥年(明治八年;1875)四月五日」の記銘がある赤穂浪士の討ち入りを描いたと思える一枚もある。
「施主長老」26人の連名があることから奉納寄進したのは座中(宮本座・中間座の二座)であろうか。
なお、他の資料によれば座は宮本座(宮元座とも)に中間座(中元座とも)、九日(くにち)座があるようだ。
田山に来た訳はもう一つある。
今年の8月末に京都府立山城郷土資料館の企画展の「踊る!南山城-おかげ踊り・花踊り・精霊踊り-」に南山城村の「田山の花踊りを紹介していた展示物を拝見したことによる。
11月3日に行われる花踊りは諏訪神社に奉納される。
集合・出発地は旧田山小学校グラウンド。
そこから神社に向けて練り歩く行列がある。
展示に記録動画もあった。
「花踊り」の踊りや衣装・シナイ飾りを見ていてなんとなく奈良市大柳生や月ヶ瀬石打の太鼓踊りを思い起こす。
太鼓に乗った子供が雨乞い願掛けを口上するのも石打と同じ。
行列に棒(棒術なのか、払い棒なのか?)のようなものを持つのも同じであるが、これまで見たこともないような、顔を金箔の笠で覆った黒い紋付の羽織袴衣装を着る「唄付け」にも興味をもった。
太鼓打ちの前で貝吹きをする修験者の姿もある。
この様相は是非とも拝見したいと思って出かけた田山。
午後ともなれば旧田山小学校跡の講堂体育館に集まって、踊り衣装の着替えが始まった。
傍には緑色の葉に咲いた桃色花の飾りを保管していた大きな箱があった。
それには「志ない」と書いてあった。
大人たちは踊り子。
その場に居た浴衣姿の小さな子供はササラを手にしている。
もう一人は裃姿だ。
椅子に座って念仏とも思えるような詞章を小さな声で唱えていた。
この男の子は諏訪神社で奉納される田山の花踊りに重要な役目を担う神夫知(しんぶち)である。
広げた詞章は「謹上再拝 謹上再拝 皆々様 静まり候らえ 静まり候らえ 京都府相楽郡南山城村大字田山には 古より 大旱天の年に当たりては 氏神様 諏訪神社に 雨乞いの祈願を込め 神威により 雨降らし給うや 村人達 うち集い 願済ましの踊りを奉納するを例とし 今日まで伝えられ候ところ 長き歳月 旱天もなく このままにては 古き文化も廃れ 後の世まで伝えること 難しくなるを虞れ これを改め 五穀豊穣 家内安全の祈願を願ましとし 氏神様の祭礼に奉納せんとす 御入来の皆々様 ゆるゆる御見物 なされ候らえ なされ候らえ 」、「平成二十七年十一月三日 神夫知○○」。(※ ○○は太鼓の上に乗って向上する男児の名前である。)
口上はもう一つ。
愛宕参り、八つ橋踊りを紹介する口上である。
黙々と頭に叩き込む姿に声はかけられない。
氏神さんを祀る諏訪神社へ奉納される花踊り。
踊り子たちが始めに登場する場は旧田山小学校の校庭だ。
平成15年3月を最後に廃校となった村立田山小学校である。
懐かしいケンケン遊びの痕跡がある。
昔の痕跡ではなく、午前中に立ち寄ったときにはなかったから、ついさっきまで子供たちが遊んでいたのであろう。
幕始めに披露される旧田山小学校校庭は旧有野家の庭だったそうだが、その関係性は田山花踊り保存会編集・発行の『雨乞い田山花踊り』には書かれていない。
何故に旧有野家の庭で披露されるのか、再訪した際に尋ねてみたい。
踊り子が背中に担いだシナイ。
復活したときに作った衣装は今年が最後の出番。
50年も使用してきた衣装は新調されて来年には披露されるらしい。
心棒の中半分は赤・緑三段の房飾り。
天頂は長さ2メートルほどの竹に造花や色紙で飾っている。
花笠のような仕立ての桃色花に緑色葉は色紙で作られている造花だ。
そこに赤10本・白色5本の御幣も挿していた。
重さはどれくらいか存知しないが、躍る際のバランスとりが難しいように思えた。
踊り子の衣装は花柄の長羽織。赤・黄紅葉が流水に舞っているような柄のようだ。
この柄は京都生まれの染物作家・皆川月華による作品らしい。
踊り方のコツを披露直前まで指導していたのは花踊り保存会の副会長。
長年に亘って受け継いだ花踊りを次世代に継いでいた。
足元は白脚絆に草鞋。
手は白い手甲を嵌める。
いずれも赤い紐で締めている。
長羽織を着る女装姿の踊り子たち(ハナの呼び名がある)が登場した時間帯は黒い雲が俄かに張りだした。
雨天における花踊りが心配されたが、10分ほどで流れていった。
旧田山小学校跡の校庭に二宮金次郎像があった。
懐かしい。
とはいっても私はここの出身者ではない。
大阪市内の住之江区。
生まれ育った北島町にある敷津浦小学校だ。
敷津浦小学校の創立は明治7年。
昭和41年に卒業してから何十年も経った。
記憶は曖昧だが、母校も校庭に二宮金次郎像があったことを鮮明に覚えている。
わたしが学んだ母校とほぼ同じ時期の明治9年に創立された旧田山小学校跡校舎の廊下の突きあたり手前の扉を開ける。
舎内教室にあった椅子や机。
黒板などなどはいずれも当時のまんまのようだ。
コの字型の校舎にあがってみる。
土足は厳禁。靴を脱いで廊下にでる。
綺麗に磨きをかけた板張り廊下。
このような建物構造は大阪市内にあった敷津浦小学校校舎となんら変わらない。
卒業して学年はあがって中学生。
学び舎は北に徒歩15分の市立南稜中学校に移った。
思いだすのは廊下も舎内教室も板張りだった。
スリッパを履いていたような気がする。
一直線に伸びる長い廊下を雑巾がけしていた時代を思いだして、同じポジションから横位置も撮ったが、奥行きはあまり感じない。
撮る位置の角度もあるのかも知れないが、確かめる時間はなかった。
田山の花踊りは雨乞い祈願。
水の神さんとして信仰される氏神・諏訪神社へ捧げる雨乞いの踊りである。
諏訪神社は明治時代の神仏分離令がでるまでは九頭大明神と呼ばれていた。
神社名が替わったのは明治四年一月のことだ。
このようなケースは日本各地で見られる。
神社に建之された灯籠などでその痕跡が判るが、この日は確かめる余裕はなかった。
「毎年のことだけど、奉納が始まるまで曇り空であっても晴れになる」と話したのは「入端(いりは)太鼓」役を務める女の子の母親だった。
「水の神さんに奉納するんやから、雨天でも決行する」と村人らが話していたのも頷ける。
ただ、決行する場所は「トレセン」になると話していた。
屋内スポーツ施設として利用されている「南山城村農業者トレーニングセンター」が「トレセン」の正式名称である。
田山の花踊りには願掛けの軽いものから重厚なものまで、十四段階の踊り系統がある。
『雨乞い田山花踊り』記念誌によれば14曲目。
軽いものに願掛けの雨乞いをして3日以内に叶った場合は諏訪神社の籠堂で躍る「こもりの願」がある。
その他、願が叶って各戸が持ち寄った青物を供える「青物願」や蒸し米を供える「供の願」、百若しくは百八つの灯明を灯す「百灯明の願」、千個の火を灯す「千灯明の願」、地区の組ごとに大灯籠に火を灯す「大灯籠の願」、キリコ灯籠を灯す「キリコ灯籠の願」、「山灯籠の願」、「臨時大祭の願」、自由な衣装で伊勢音頭を唄って自慢の芸をみせる「総いさめの願」、3日続けて踊っても雨が降らなかった場合に躍る「ふりかけ踊りの願」、羯鼓(かんこ)と呼ばれる締め太鼓を胸につけてバチを打ちながら踊る「かんこ踊りの願」。シナイの造花代わりに依代の笹をつけて踊る「笹踊りの願」、効験は見られず、期限も設けず踊り明かした「雨乞い願満」、茅葺の屋根から雨滴が落ちるぐらいの雨量になったときに踊る「花踊りの願」がある。
この日に披露される「田山の花踊り」は最後に挙げた「花踊り」の形式だ。
着替えを終えた踊り子たちは講堂を出て校庭に集まる。
家族とともに記念の写真をおさまる家族も多い。
お父さんの晴れ姿に絣模様の浴衣になった小さな子供も一緒になって記念撮影だ。
親子三代に亘って神夫知役を務めた家系もあるようだ。
「花踊り」の楽曲は12曲の「庭踊り」がある。
九節の「愛宕踊」、五節の「屋敷踊」、五節の「庭の踊」、五節の「手きき踊」、六節の「御殿踊」、八節の「姫子踊」、十八節の「陣役踊」、七節の「拾九踊」、五節の「鎌倉踊」、九節の「八ツ橋踊」、七節の「綾の踊」、七節の「御庭踊」である。
合計で十二段、九十一節。
すべてを奉納披露すれば丸々どころか二日間にも亘るらしい。
この日の時間枠からいえば数曲。曲(演目)は毎年替わるようだ。
さぁさ、踊ろう・・・旧田山小学校跡の校庭で披露される初めの楽曲は「愛宕踊り」。
小学3年生の男・女児が太鼓を打つ「入端(いりは)太鼓」によって始まる。
小学生が奏でる場に並んだ人は修験姿の四人。
ボー、ボーと吹き鳴らす法螺貝の音色は単調なように聞こえる。
次は真打の太鼓打ち。
子供と同じく鉢巻きを締めている。
上は黒紋付。
下は袴姿。
バチを打つ姿はさすがだなと思った。
その様子を横で拝見する入端太鼓役の子供たち。
大きくなったら担ってみたいと思っているのだろう。
入端太鼓役の子供たちの右に立っているのは3人の太鼓打ち。
シナイを背負った女装の姿。
衣装は中踊り役と同じようだ。
両手にバチを持っているので役目は一目瞭然だ。
田山の花踊りが最も特徴的なのは唄ウタイである。
唄ウタイは「唄付」の呼び名がある。
黒紋付に白足袋。
下駄履きで頭部は紅白の花を取り付けた菅笠。
顔部分に垂らした白布に前面は金箔マスクの顔隠し。
奈良県内ではまったく同類が見られない独特の装束に不思議を感じる。
右手に持つ白扇で調子をとる唄付は踊り子の調子をだす節回し役。
隠れた存在であるが、撮った画面をよくよくみれば白扇ではなくヒラヒラの金色紙を貼った棒のようなもので節回しをしている数人の唄付もおられたことを付記しておく。
呼び名が「唄付」の唄ウタイの顔隠し装束が気になり、類事例があるのかどうか調べてみた。
参照したのは「三重県インターネット放送局」が公開している三重県内の伝統行事である。
それによると、三重県内で羯鼓(かんこ若しくはかっこ)踊りを継承している地域は12例もある。
伊賀市下柘植・愛田地区に伊賀市(旧阿山町の)大江、伊賀市山畑(やはた)がある。
京都南山城より東に向けて15kmから20kmの距離に三カ村が集約している。
一方、そこよりぐっと下がった南方に宮川が流れる。
その流域にある多気郡大台町下三瀬、伊勢市の円座町・佐八町・小股町の共敬・下小股・中小股・東豊浜町の土路、度会郡南伊勢町の道方、度会郡度会町の麻加江だ。
なかでも田山の「唄付」の顔隠しとそっくりなのは伊賀市山畑(やはた)だ。
田山が白色に対して山畑は緋色の布である。
その名も「フクメン」。
そのまんまの呼び名である。
違いがあるのは扇に対して団扇になることだ。
また、唄ウタイでもなく、室町時代末のころから江戸時代にかけて全国的に広まった風流囃子の疫神祓いの造り物の一つにある「傘鉾」とされる多気郡明和町の有爾中(うになか)の「ヤナギに取り付けたものも「フクメン」と同じ形式であった。
なお、「フクメン」はしていないが、菅製妻折れの花笠を被り、黒紋付羽織で振りの扇が同じような地区に伊賀市下柘植愛田地区と大江(旧阿山町)がある。
詳しく書けばきりがないが、奈良大和の太鼓踊りや、十津川などの大踊りと似通った部分が多々見られる三重県事例は直に拝見したいものだと思うが、「三重県インターネット放送局」の事例公開だけでなく、もっともっと多くの事例がある。
調べれば調べるほど羯鼓踊りが多いことに驚く。
半年後に花踊りとか花笠踊り、太鼓踊り、あるいは羯鼓踊りなどこれら類事例を体系的に纏められ、数多くの論文を発表されている「京都学園大学人間文化学部メディア文化学科民俗芸能論」の青盛透氏とお会いする機会があった。
自ずと質問したのはこの唄付、フクメンの不思議な姿である。
青盛氏が云われたのはこの装束は「男性が女装する風流(ふりゅう)の一つにある」だった。
風流は逆に女性が男装する場合もある。
宝塚歌劇団もその流れ。
マツリによく見られる男性が女装する姿も風流になるそうだ。
ちなみに菅笠は平安時代の市女笠に見られるように女性が被る笠の一種。
笠に垂らしている金色の紙片で顔を隠し、周りは白地の布で囲う。
これは「モミ」という名、着物で云えば振袖のようなものだと話す。
「モミ」の色っていうのは何だろう。
調べてみれば紅花で染めた絹布の色。
これで合っているのだろうか。
ところで、田山のシナイを背負って羯鼓(かんこ若しくはかっこ)と呼ばれる締め太鼓を胸につけてバチを打ちながら踊る姿を拝見して気がついた。
音が鳴っていないのだ。
バチで羯鼓を打つ真似をしているだけだった。
これは田山に限ったものではなく、三重県事例にはいくつかある。
愛宕踊りを踊った踊り子たちは校庭を出発する。
先頭は陣笠を被った裃姿の警護武士。
次に編笠被りの竹の払い棒持ち(白装束の一の棒は七五三御幣を持つ世襲制家・二~五の棒持ちは女装の着流し)、長谷川流棒術の少年(かつては青年男子)。
ササラ、鶏兜を被る天狗とササラを手にするひょっとこ面の道化。
太鼓曳き、入端太鼓、師匠太鼓、修験姿で法螺貝を吹く4人、2人の貝の助、神夫知(しんぶち)、保存会役員、3~4人の太鼓打ち(シナイ飾りの太鼓打ちが3人)。
独特な装束の唄付は11~12人(昭和57年は9人)。
黒紋付に白足袋だ。
しかも、下駄履きで頭部は金箔マスクで全面顔隠し。
奈良県内ではまったく同類が見られない装束である。
菅笠を被り白扇で調子をとる唄付は踊りの節回し役。
隠れた存在である。
行列の最後を〆るのは踊り子12人の中踊り。
鉢巻き姿が勇ましい。
お渡りの終着点は諏訪神社の鳥居。
ここを潜って急な階段を登っていけば宮司が祓ってくださる。
ササラを持つ子供たちや屈めて登る踊り子も祓い清める。
隊列だけでなく、同じように登る一般の人も祓ってくださる。
行列の人数は多い。
場を離れて一息つく。
そこに落ちてあったササラ。
子供が落としたのであろう。
よくよく見れば鋸のような刻みがある。
音が鳴るササラの二重構造がよく判る。
曲(演目)は毎年替わると話していた「入端(いりは)太鼓」役を務める女の子の母親。
いろいろ教えてくださったのが嬉しい。
母親が云うには、入端太鼓は小学3年生の男・女児。
棒振りは小学4年生から6年生までの男女(平成14年までは男児)に中学3年生までの男の子たちが役目を務めるそうだ。
ちなみに、ササラ持ちは保育園児に小学1年生から2年生までが務める。
神夫知(しんぶち)の口上は二つある。
一つ目は太鼓の上に立って、神殿に向き軍配を片手に雨乞いの口上を述べる。
「謹上再拝 謹上再拝」を口上して二拝する。
二つ目は向きを換えて同じく太鼓の上に乗って「愛宕参りは所願成就 次に踊るは八つ橋踊りで御座候 団扇の用意為され候らえ 為され候らえ さらば太鼓の役 頼み申す ホー」を口上する。申して直ちに太鼓から降りて役目を終えた神夫知(4年生以上の小学校高学年)であった。
口上が終わるや否や一番手の太鼓が打たれて「ドドーン」。それを合図に「八ツ橋踊」を披露される。
『田山花踊保存会結成五十年のあゆみ 田山花踊り』によれば、これまでの楽曲は平成26年が「愛宕踊」、「十九踊」、「姫子踊」。
近年を繰り下がってみよう。
平成25年は「愛宕踊」、「屋敷踊」、「手きき踊」。
24年は「愛宕踊」、「綾の踊」、「御庭踊」。
23年は「愛宕踊」、「鎌倉踊」、「御庭踊」。
22年は「愛宕踊」、「陣役踊」、「御庭踊」。
21年は「愛宕踊」、「御殿踊」、「御庭踊」。
20年は「愛宕踊」、「庭の踊」、「御庭踊」。
19年は「愛宕踊」、「八ツ橋踊」、「御庭踊」。
平成27年の今年は「愛宕踊」、「八ツ橋踊」、「御庭踊」を披露された。
こうしてみれば校庭で行われる踊り始めは常に「愛宕踊」(校庭で3節・境内で後半3節であろうか)だ。
「八ツ橋踊」をされて一旦は小休止。
次は保存会副会長が口上を述べて「御庭踊」が始まった。
諏訪神社の奉納踊りの〆は、ここ数年間のだいたいが「御庭踊」で、中踊りがそれぞれの年によって異なるようである。
「田山の花踊り」の起源は明らかでないが、安永二年(1773)に発生した飢饉の年に願掛け花踊りが行われた際に使われた床几(しょうぎ)一台が残されていると、田山花踊り保存会編集・発行の『雨乞い田山花踊り』に書いてある。
床几に年代が書いてあったのかどうか、そこまでは書かれていない。
推測であるが、たぶんに床几の裏面に墨書があるのだろう。
また、寛政六年(1794)に書き記された唄本が保存されている。
唄本の裏書に「天保十一年(1840)花踊アリ、森本林助十二才、文久三年(1863)笹踊アリ、明治九年(1876)カンコ踊、明治十六年(1883)カンコ踊・・・明治十九年(1886)・・・明治二十六年(1893)五月十日・六月二十五日・・・」などの記帳がある。
田山の花踊りは大正13年に「笹踊り」を奉納してから飢饉の年は発生せずに花踊りが途絶えた。
昭和38年、初老厄年の有志5人が発起人となって保存会を立ち上げ復活した。
空白期間は40年間。
体験記憶を辿りながら復興され、諏訪神社例大祭日の10月17日に踊りを奉納していた。
その後の平成7年~9年にかけては第三日曜日。
翌年の平成10年からは11月3日の祝日に落ち着いた。
(H27.11. 3 EOS40D撮影)