マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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大安寺八幡宮の花御供と餅御供

2016年07月07日 08時42分11秒 | 楽しみにしておこうっと
前日に大和郡山市白土町在住の知人が紹介してくださった大安寺八幡宮の宮司。

携帯に電話してから数時間後に応答があった。

いつでも来てくださって構わないと伝える宮司の言葉に釣られて早速伺う。

前日に訪れるも不在だった宮司は社務所で待っていた。

宮司は神戸市西区が出身。

ひょんなことから大安寺八幡宮の宮司を務めることになった。

縁のさきがけは奥駆け修験者の時代。

天河大弁財天社の神徳を得て神職になった。

神社庁で学習して役に就いたのが大安寺八幡宮。

平成23年のことである。

それまで2年間は先代宮司とともに祭りに就いていた。

在住する神戸からの通いの仮住まいであった。

神戸からは片道1時間半の阪神高速道路をひた走る。

2年間は先代宮司と共に務めたが、一旦は退いて神戸に戻って生業の建築業をこなしていた。

平成27年になってからだ。

氏子から電話があった。

先代宮司が辞めることになって継いでほしいと願われた。

正式には8月15日。

9月1日には辞令もでた。

先代宮司はI氏。

杖をついて神事を行っていた。

宮司期間は22年間。

私がお会いしたのは平成20年10月11日。

マツリ前日に訪れたときにお会いした宮司はこの人に違いない。

当時の社務所はいつ損壊するかも判らないぐらいの状態であった。

いつしか新築する話題がでるようになった。

現在の社務所は平成25年9月に竣工した。

私からみれば異次元に入り込んだかのように思えるピカピカ造りである。

現宮司が話す大安寺八幡宮以外の地で行われた神事。

その地は柳生の大字忍辱山であった。

氏子が着る装束は襟か袖、足首も縛っていたという。

素襖でもないような装束と思える特殊な様相に興味をもつ行事は素盞鳴尊社の秋祭りのようだ。

宮司の出身・住居は神戸市の西区。

氏神さんは大歳(おおとし)神社である。

80戸の集落からなるそうだが、それは新興住宅地も含めた戸数。

内8軒(一軒二人)辺りでマツリをしているようだ。

マツリにつきものの料理はサバ寿司。

〆サバを作るという。

ネットによれば伊川谷町17戸の集落の氏子が継承する大歳神社のマツリに子供相撲やハナフリ、シュウシの儀式などがあるらしいが、西区には同名神社が21社もある。

どの神社が該当するのか再訪問した際に聞いて見たい、と思った。

話しを大安寺八幡宮の行事に戻そう。

この日、訪れた目的はマツリに奉納された花御供・餅御供を拝見することだ。

マツリが終わって10日余り。

おそらく幣を挿す藁束や切り物以外は朽ちているだろう。

ただ、全容が判るのはこのときしかない、早めに拝見するのが良かろうと思って二日続いて訪問する。

大安寺八幡宮の氏子圏は大安寺町、東九条町、八条町の3カ大字。

八条町の花御供はマツリを終えて地区に持ち帰るので神社に残ることはない。

社務所の縁側においてあったのは東九条町の花御供(左)と右にある大安寺町の餅御供の二つだ。

左の花御供は天頂にミョウガの花やザクロを挿している。

「八」の白抜き文字を切りとったヒラヒラ。

紫、黄、緑、赤、白色の色紙を重ねて切ったものだ。

これには「ヒョウタン」の切り抜きもある。

「八」は八幡宮。

「ヒョウタン」はどういう意味をもつのだろうか。

豊臣家と関係があるのだろうか。

土台は太めの俵造りの藁束。

そこに竹串でさした。

中間部はヒバの木の葉(檜)。

そこに大きなナスビがある。

宮司曰く「ボウズ」の名があるナスビであろうか。

右は大安寺町の餅御供。

花御供にはミョウガとザクロが挿してあるが、餅御供にはそれがない。

代わりかどうか判らないが、半ば辺りに挿した個別の竹串。

挿した食材はザクロ、ミョウガ、イガイガのクリ、カキ。

それぞれ2個ずつあるようだ。

俵造りの藁束やヒバの木の葉。

檜は花御供と同じようであるが、御供の名称に餅があるように、竹串に挿した平べったいコモチやナガモチがある。

特徴的な形式をもつ餅御供である。

二つの御供は一年間も奉っておく。

餅御供を供える大安寺町、それとも八条町では「センニンツキ」と呼ばれる餅搗きがあるようだ。

「センニンツキ」を充てる漢字は「千人搗き」であろうか。

それとも県内各地で見られる類例より「千本搗き」かもしれない。

御供も含めてマツリの様相を拝見するなら東九条町、大安寺町よりも八条町が良かろうと云う。

八条町は旧村。20戸の宮座は昔のままだという。

トーヤの家は屋外にヤシロ(社)を建てる。

大きさ、形が気になるヤシロである。

八条町も花御供。

トーヤ家で作ってマツリのときに奉納する。

東九条町はやや簡素化しているそうだ。

かつてはトーヤ家でされていた在り方は公民館に場を移した。

そこに祀る分霊は固定しているようだ。

大安寺町はトーヤ家。

ヤカタは屋内に祀る。

これらのヤカタ、御供作りはいずれもマツリ前の金曜日にするようだ。

本殿前に建つ拝殿は古いらしい。

この拝殿は中門と呼ぶ。

中門の翼(よく)は座敷がある中間を意味する。

つまり左右に座小屋があるということだ。

座が座る位置は決まっている。

左座は畳敷き。

右座は板の間である。

格が違うのであろう。

初めてお会いする宮司と長話。

天河の宮司さんの名前も挙がり、滞在時間も長くなった。

その間にお参りをされる村の人。

男性、女性ともに多いのである。

お参りをされる度に挨拶をされる宮司。

信仰心もあるが、お互いが厚い信頼感で結ばれているのだと思った。

(H27.10.22 EOS40D撮影)

参拝、大安寺八幡宮

2016年07月07日 08時35分40秒 | 奈良市へ
心臓リハビリに自宅周辺を歩行訓練していたときに電話が鳴った。

発信者は市内白土町のNさんだ。

大安寺の南方数十メートルの地に八幡神社がある。

そこに来ていて宮司と話している。

社務所に残してあるマツリに奉納した神饌・花御供があるから拝見したらどうかという伝言だ。

八幡神社の鎮座地は奈良市東九条町字宮ノ森。

大同二年(807)、入唐した大安寺僧侶の行教が大安寺旧境内に造営・遷座したと伝わる鎮守社。

当地へは何度か伺ったことがあるがマツリは拝見していない。

体育の日前日は宮座の宵宮。

体育の日は宮座の祭典が行われることは存じている。

マツリに参集する氏子圏は大安寺、東九条、八条垣内。4軒のトウヤ、それぞれが供える花御供も拝見したことがない。

そのマツリを取材したと写真家のNさんが電話で話していた。

トウヤはそれぞれの家である。

判り難い上に車道は狭い。

そういうわけで宮司が運転する車に乗せてもらって取材したと云っていた。

平成20年10月11日、マツリ前日の八幡宮に訪れたときである。

杖をついた宮司さんがおられた。

傍には介助する婦人もおられた。

マツリに伺いたく挨拶をさせていただいたことを覚えているが、多数ある県内行事が重なる日。

優先すべき行事取材に没頭する数年間。

ときは経過して7年も経った。

場の再確認もしておきたくなって訪れた八幡社。

社務所は真新しい。

7年間のあいだに新築されたようだ。

Nさんが云うにはだいたいが社務所に居ると話していたが、不在であった。

社務所内にあるようだがシャッターも玄関も扉は閉まっていた。

あらためて拝観する八幡社。

拝礼を済ませて戻ろうとしたときに婦人が来られた。

拝殿に立って拝礼をされる婦人に声をかけた。

買い物に行く途中にある神社は通りがかる度に参拝をしているという。

孫さんが誕生した際に成長祈願した神社が八幡宮。

東九条に住む婦人はいつもそうして氏神さんに手を合している。

氏子でもある婦人が云うには神社は市が管理しているようだという。

40年前の宮司は社務所に常駐されて住んでいたそうだ。

何年か経って宮司は交替された。

そのときの宮司は常駐でなく通いだった。

杖をついていた宮司は引退されてか、新しく宮司が赴任されたが、短期間でその次の宮司に替わった。

現在の宮司もたぶんに通いだと思うと話していた。

ちなみに奈良県庁文書の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』資料によれば大安寺村東九条(辰市村)の八幡神社に宮座があると書かれていた。

左座・右座からなる十二人衆。

年長の者より一﨟(ろう)、二﨟と呼んでいたようだ。

(H27.10.21 EOS40D撮影)