かつて都祁上深川で行われていた富士垢離行事があった。
当時、営んでいた人たちは富士講。
今でもそうであるが講中は5人。
うちお一人は若い時の映像が残されている。
映像は動画である。
記録された映像を所蔵しているのは奈良県立民俗博物館である。
そこで拝見したときの感動は今でも忘れない。
当時30歳代だったOさんは逞しい筋肉姿。
小川のような深江川に浸かって水垢離の行をしていた。
時を隔ててお会いしたOさんに初めて会ったのはずいぶん前だ。
平成16年に訪れた上深川。
八柱神社下の境内である。
そこに建つお堂は元薬寺。
ここで初祈祷の乱声や柳のオコナイをしているから・・と云われて取材させてもらった。
それから幾度となく上深川の年中行事を取材させてもらった。
いつしか気になっていた富士垢離について尋ねてみた。
実は先代たちが亡くなったことから長い期間を中断していた。
県立民俗博物館で映像を拝見したとかお話しているうちに復活話になっていた。
機は熟して復活したときの営みを記録させていただいた。
平成22年に復活した富士垢離はそれからも続けていたと聞いたのは前月に行われた「ゲー」の行事のときである。
本来ならば8月24日に行われるのであるが、講中の事情もあって数日早いこの日になった。
あれから5年も経った。
年齢は講中それぞれが5歳ずつ繰り上がったわけではない。
70歳だったOさんは75歳。
長老のKさんは82歳であったが、引退されて息子さんに継いだ。
今回で3回目の体験があるから心もち慣れている。
実は父親が引退されるまでの時期。
20年ほど前にも体験したそうだ。
それは新聞社の依頼。
その関係があって参加したことがあると云う。
同年齢のNさんは膝を痛めて杖をついてはいるもののお元気な姿をみせてくれた。
あれから5年も経ったから88歳。
垢離場まで行くには無理があるから車利用で現地に向かう。
78歳だったⅠさんも前年に引退されて息子さんが継いだ。
講中はもう一人。
当時65歳だったAさんは70歳。
事情で出かけるはめになったから垢離取りの作法は参加できない。
引退はあるものの、代々を継いできた講中は前年の平成27年に本家本元の浅間神社に参って富士山も登ったそうだ。
若い二人に替わったこともあって段取りなども引き継がれて任しているという。
二人は相談しながらも深江川に運んでいく注連縄を作っていく。
張り方もあれば幣の付け方などもある。
記録された写真ではなかなかわかり難い部分である。
記録写真は平成22年8月24日に撮ったもの。
アルバム化した写真はさんが持ってきた。
年に一度の行事は細かい部分の記憶が曖昧になるようだ。
注連縄ができたかどうかが気になるNさんは八柱神社境内に置いてあった注連縄を点検していた。
ふと漏らした言葉は注連縄の竹は土に挿すから先は尖がらした方が挿しやすい・・・。
注連縄が出来上がれば白装束姿になる。
下着は越中ふんどし。
頭に鉢巻きを巻く。
締め帯も締めた。
履物以外の一切が白づくめ。
その履物は藁草履である。
深江川に足を浸けて垢離をする。
川に下りる際も、道中もずっと履き続ける藁草履である。
行の無事を祈願するに氏神さんに参る。
そして向かった先は深江川。
2月7日の初祈祷の際に架けられる勧請縄がある。
架ける地はカンジョウバ。
垢離をする場はそこより先になるヒガシカンジョウの地だ。
神社、寺本堂がある地より下っていく。
作り上げた注連縄を抱える役目もあれば、三方にのせた神酒とオセンマイ(洗米)を抱える役目もある。
お若い二人がその役につく。
5年前は初めて垢離をするAさんやⅠさんだった。
ずいぶんと若返り若返ったような感がある。
ただ、柄杓と数珠は個人所有。
人に頼むことなく我が自身が持っている。
垢離を終えてから拝見した柄杓と数珠は年代物。
それぞれが先代から継承してきた垢離取りの道具である。
ちなみに左よりⅠ家、O家、K家の持ち物である。
Ⅰ家、O家の数珠は八つ珠。
K家の数珠は算盤のようにも見える数珠珠である。
O家の柄杓に墨書がある。
文字は「せいひち」。
3代前のおじいさんの名であると云う。
それにしてもだ。
徒歩でカンジョバへ行く白装束の姿をみれば、あーそうか、ではなく、なんである。
村の人も初めて見る姿に驚かれた婦人がそう云った。
ヘイ刈り(稲田の雑草取り)をしていたときに気がついた婦人はその場できょとんとしていた。
上深川に富士講の存在を知る人は多くない。
多くないこともあるし、年に一度の垢離の行に遭遇することもない。
滅多に見ることもないから話題にも上らない。
そういうことだと思う。
ヒガシカンジョウの地に着いたら注連縄を立てる。
そこより離れた位置にも竹を立てる。
白衣を脱いでふんどし姿になる。
その白衣を架ける竹の竿架けであった。
深江川の土手を下りて祭壇を設える。
お神酒とオセンマイ(洗米)を祭壇に置く。
その方角は富士山がある位置である。
その方角に向かって一列に並ぶ。
手を合わせて富士山に向かって拝礼する。
水垢離はじめにお神酒を注いでオセンマイを川に浸して洗う。
そして東の方角に向かって並ぶ。
注連縄の遥か先が富士の山。
つまりはその先の富士山に向かって水垢離をするのである。
代々継いできた数珠を左手に持って数える。
「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー」と数えて柄杓で掬った川の水を頭からかけるような作法をする。
低頭姿勢で「やー」のときに水を落とす。
富士垢離の儀式に数珠珠は八つ。
それはひと節ごとにある。
次の節の数珠を数えて、またもや「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー」の「やー」で水をかける。
これを8回繰り返す。
再びお神酒を注いでオセンマイを川で洗う。
数珠を指でくって「ひー、ふー、みー・・・」。
これも8回繰り返す。
合計で108を数える。
かつては初めの64回の一垢離を終えてから、元薬寺本堂に戻ってオコモリの会食をしていた。いわゆる「籠り」である。
ゆっくりと昼寝の休息をとってから再び川に出かけて水垢離をしていた。
やがては効率化。
二垢離を一度で済ますようになった。
こうした作法を対岸から見続けていたNさんの顔が綻んでいた。
稔った稲穂は黄色くなってきた。
垢離を済ませば帰路につく。
架けていた白衣を再び身に着ける。
青空が眩しい上深川。
爽やかに流れる風に汗もかかない。
今回の取材にカメラマンが5人。
私が案内した人もおればたまたまこの日だと信じてやってきた人も。
富士講を調査している人は予めに尋ねていた。
実はそれぞれが知人、友人であった。
皆もあがっていきなと云われて講中のヨバレの席につく。
ありがたいことである。
「ゲー」のときもよばれた盛り合わせオードブルは旧都祁白石の「たけよし」。
豪勢な盛りに箸をつけるのは気が引ける。
それなら巻き寿司でもと・・。
夏は暑いからと持ってこられたビン詰めトマトジュースの原料はトマトベリー。
2年前から針テラスで販売するようになったが、栽培しているのはOさんの娘さん。
「ゲー」のときも来てはった。
ありがたくいただきますに美味しいを連発した。
この場を借りて厚く御礼申し上げます。
(H28. 8.21 EOS40D撮影)
当時、営んでいた人たちは富士講。
今でもそうであるが講中は5人。
うちお一人は若い時の映像が残されている。
映像は動画である。
記録された映像を所蔵しているのは奈良県立民俗博物館である。
そこで拝見したときの感動は今でも忘れない。
当時30歳代だったOさんは逞しい筋肉姿。
小川のような深江川に浸かって水垢離の行をしていた。
時を隔ててお会いしたOさんに初めて会ったのはずいぶん前だ。
平成16年に訪れた上深川。
八柱神社下の境内である。
そこに建つお堂は元薬寺。
ここで初祈祷の乱声や柳のオコナイをしているから・・と云われて取材させてもらった。
それから幾度となく上深川の年中行事を取材させてもらった。
いつしか気になっていた富士垢離について尋ねてみた。
実は先代たちが亡くなったことから長い期間を中断していた。
県立民俗博物館で映像を拝見したとかお話しているうちに復活話になっていた。
機は熟して復活したときの営みを記録させていただいた。
平成22年に復活した富士垢離はそれからも続けていたと聞いたのは前月に行われた「ゲー」の行事のときである。
本来ならば8月24日に行われるのであるが、講中の事情もあって数日早いこの日になった。
あれから5年も経った。
年齢は講中それぞれが5歳ずつ繰り上がったわけではない。
70歳だったOさんは75歳。
長老のKさんは82歳であったが、引退されて息子さんに継いだ。
今回で3回目の体験があるから心もち慣れている。
実は父親が引退されるまでの時期。
20年ほど前にも体験したそうだ。
それは新聞社の依頼。
その関係があって参加したことがあると云う。
同年齢のNさんは膝を痛めて杖をついてはいるもののお元気な姿をみせてくれた。
あれから5年も経ったから88歳。
垢離場まで行くには無理があるから車利用で現地に向かう。
78歳だったⅠさんも前年に引退されて息子さんが継いだ。
講中はもう一人。
当時65歳だったAさんは70歳。
事情で出かけるはめになったから垢離取りの作法は参加できない。
引退はあるものの、代々を継いできた講中は前年の平成27年に本家本元の浅間神社に参って富士山も登ったそうだ。
若い二人に替わったこともあって段取りなども引き継がれて任しているという。
二人は相談しながらも深江川に運んでいく注連縄を作っていく。
張り方もあれば幣の付け方などもある。
記録された写真ではなかなかわかり難い部分である。
記録写真は平成22年8月24日に撮ったもの。
アルバム化した写真はさんが持ってきた。
年に一度の行事は細かい部分の記憶が曖昧になるようだ。
注連縄ができたかどうかが気になるNさんは八柱神社境内に置いてあった注連縄を点検していた。
ふと漏らした言葉は注連縄の竹は土に挿すから先は尖がらした方が挿しやすい・・・。
注連縄が出来上がれば白装束姿になる。
下着は越中ふんどし。
頭に鉢巻きを巻く。
締め帯も締めた。
履物以外の一切が白づくめ。
その履物は藁草履である。
深江川に足を浸けて垢離をする。
川に下りる際も、道中もずっと履き続ける藁草履である。
行の無事を祈願するに氏神さんに参る。
そして向かった先は深江川。
2月7日の初祈祷の際に架けられる勧請縄がある。
架ける地はカンジョウバ。
垢離をする場はそこより先になるヒガシカンジョウの地だ。
神社、寺本堂がある地より下っていく。
作り上げた注連縄を抱える役目もあれば、三方にのせた神酒とオセンマイ(洗米)を抱える役目もある。
お若い二人がその役につく。
5年前は初めて垢離をするAさんやⅠさんだった。
ずいぶんと若返り若返ったような感がある。
ただ、柄杓と数珠は個人所有。
人に頼むことなく我が自身が持っている。
垢離を終えてから拝見した柄杓と数珠は年代物。
それぞれが先代から継承してきた垢離取りの道具である。
ちなみに左よりⅠ家、O家、K家の持ち物である。
Ⅰ家、O家の数珠は八つ珠。
K家の数珠は算盤のようにも見える数珠珠である。
O家の柄杓に墨書がある。
文字は「せいひち」。
3代前のおじいさんの名であると云う。
それにしてもだ。
徒歩でカンジョバへ行く白装束の姿をみれば、あーそうか、ではなく、なんである。
村の人も初めて見る姿に驚かれた婦人がそう云った。
ヘイ刈り(稲田の雑草取り)をしていたときに気がついた婦人はその場できょとんとしていた。
上深川に富士講の存在を知る人は多くない。
多くないこともあるし、年に一度の垢離の行に遭遇することもない。
滅多に見ることもないから話題にも上らない。
そういうことだと思う。
ヒガシカンジョウの地に着いたら注連縄を立てる。
そこより離れた位置にも竹を立てる。
白衣を脱いでふんどし姿になる。
その白衣を架ける竹の竿架けであった。
深江川の土手を下りて祭壇を設える。
お神酒とオセンマイ(洗米)を祭壇に置く。
その方角は富士山がある位置である。
その方角に向かって一列に並ぶ。
手を合わせて富士山に向かって拝礼する。
水垢離はじめにお神酒を注いでオセンマイを川に浸して洗う。
そして東の方角に向かって並ぶ。
注連縄の遥か先が富士の山。
つまりはその先の富士山に向かって水垢離をするのである。
代々継いできた数珠を左手に持って数える。
「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー」と数えて柄杓で掬った川の水を頭からかけるような作法をする。
低頭姿勢で「やー」のときに水を落とす。
富士垢離の儀式に数珠珠は八つ。
それはひと節ごとにある。
次の節の数珠を数えて、またもや「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー」の「やー」で水をかける。
これを8回繰り返す。
再びお神酒を注いでオセンマイを川で洗う。
数珠を指でくって「ひー、ふー、みー・・・」。
これも8回繰り返す。
合計で108を数える。
かつては初めの64回の一垢離を終えてから、元薬寺本堂に戻ってオコモリの会食をしていた。いわゆる「籠り」である。
ゆっくりと昼寝の休息をとってから再び川に出かけて水垢離をしていた。
やがては効率化。
二垢離を一度で済ますようになった。
こうした作法を対岸から見続けていたNさんの顔が綻んでいた。
稔った稲穂は黄色くなってきた。
垢離を済ませば帰路につく。
架けていた白衣を再び身に着ける。
青空が眩しい上深川。
爽やかに流れる風に汗もかかない。
今回の取材にカメラマンが5人。
私が案内した人もおればたまたまこの日だと信じてやってきた人も。
富士講を調査している人は予めに尋ねていた。
実はそれぞれが知人、友人であった。
皆もあがっていきなと云われて講中のヨバレの席につく。
ありがたいことである。
「ゲー」のときもよばれた盛り合わせオードブルは旧都祁白石の「たけよし」。
豪勢な盛りに箸をつけるのは気が引ける。
それなら巻き寿司でもと・・。
夏は暑いからと持ってこられたビン詰めトマトジュースの原料はトマトベリー。
2年前から針テラスで販売するようになったが、栽培しているのはOさんの娘さん。
「ゲー」のときも来てはった。
ありがたくいただきますに美味しいを連発した。
この場を借りて厚く御礼申し上げます。
(H28. 8.21 EOS40D撮影)