史料名は記憶にない。どこで見つけたのかも覚えていないが、そこから抜き出した簡単なメモ記がある。
平成25年の9月のコメントに付記していたのでメモっていたのはその年だ。
メモの内容は「吉野町津風呂・鬼輪垣内では旧暦の八月十五日にイモ名月があると書いていた。
旧暦の八月十五日は十五夜(じゅうごや)。
いわゆる中秋の名月にあたりサトイモの皮を剥いだダンゴをお月見と称して夕方のころから屋敷内に供える。
そういう風習は今も昔も変わらないが供えるのはサトイモではなく餅若しくは饅頭。
いずれも甘い和菓子。
本来の意味を失っている。
サトイモの皮を剥いだら真っ白。
楕円形ではないまん丸な形のイモはお月さんに見立てたもの。
例年であれば12個のイモを供えるが、旧暦閏年は大の月が13カ月となることからイモの数は13個になる。
そういうことをしていた鬼輪垣内の風習は「芋の子」の名があった。
果たして鬼輪垣内はどこにあるのか・・、である。
カーナビゲーションにセットした津風呂を示す通りに走っていく。
南国栖に抜けるトンネル道。
その手前、右折れを示すカーナビゲーション。
下っていけば右手に本堂が建っていた。
それは入野(しおの)の子安地蔵尊であると案内板書があった。
板書を要約すれば、「地蔵さんは元正天皇期の霊亀元年(715)に入野の亀之尾という所に霊亀に乗って金色の光を放ちながら天から降りてこられた」という伝承がある。
「現在、安置している子安地蔵は江戸時代作の塑像であるが、蓮華座でなく、亀の背に乗っている」ということだ。
特徴的なのは一般的に胸にかける涎掛けであるが、入野の地蔵さんは亀の首にかけているそうだ。
さて、行事日のことである。
毎年の正月と九月の年二回。
いずれも24日が会式(看板に例祭とあるが仏行事と思われるので会式とした)である。
お堂に近寄ってみれば但し書きが貼ってあった。
平成22年からはいずれも第三日曜日に移したとある。
もしかとすれば拝観させて行事取材も、と思って現地住民を探してみる。
一人の男性がおられたので声をかければ、なんと3週間前に村入りした東京の人だった。
一時的に住んでいた川上村を離れて当地に来たのは農業従事の専門者になるためだそうだ。
そういう男性が紹介してくれた婦人が住む家を訪ねたがお留守だった。
そこら辺りで見渡せば畑に婦人がおられる。
声をかければもともと当地で生まれ育った婦人。
住まいは田原本町だがここで畑仕事をしているという。
娘さん時代にはおばあさんが尋ねるイモ名月をしていたという。
が、離れて云十年。
村の姿は・・・わからないという。
そこよりさらに下った処は津風呂ダム湖の東の端。
旧家があったのでここでも尋ねるが鬼輪のことは知らないというが、子安地蔵のことはご存じだ。
来月の会式にはお菓子を撒くゴクマキがある。
午後の時間帯、浄土宗の僧侶が来られて法要をするらしい。
とにかく知りたい鬼輪垣内のこと。
場所も判らず、湖畔を回遊するかのような道路を走って探し回るが集落どころか家、一軒も見当たらない。
かつてダム湖に沈んだ村がある。
垣内はたぶん上津風呂に下津風呂であろうか、72戸の人たちが移転を余儀なくされた。
その人たちの一部(20戸)が移住した先は奈良市内。
山陵町(みささぎちょう)内にある津風呂町地区になるそうだ。
さて、鬼輪垣内のことである。
津風呂湖で一番賑わっている場所はといえば津風呂湖観光株式会社があるところだ。
ここなら何かの手がかりが掴めるのでは、と思って尋ねたら社長が一番よく知っていると云われて紹介された。
社長の話しによれば、鬼輪は昭和37年にダム湖が完成する以前の建設が始まった昭和29年ころに移転したという。
ここより見渡す向こう岸。
左手は平尾垣内。
谷を隔てて右寄りに津風呂垣内があったという。
そこら辺りが鬼輪垣内だった。
昭和26・27年発行の地形図に「鬼輪」の文字があるらしい。
村はダム湖建設によって沈んだ。住民は移転したという。
鬼輪の戸数は3軒だった。
うち、一軒は津風呂町に移転した。
2軒は隣村の大字平尾に移転したという。
移転したうちの1軒を教えてもらって探してみたが、結局は判らなかった。
万事休す。である。
(H28. 8.28 SB932SH撮影)
平成25年の9月のコメントに付記していたのでメモっていたのはその年だ。
メモの内容は「吉野町津風呂・鬼輪垣内では旧暦の八月十五日にイモ名月があると書いていた。
旧暦の八月十五日は十五夜(じゅうごや)。
いわゆる中秋の名月にあたりサトイモの皮を剥いだダンゴをお月見と称して夕方のころから屋敷内に供える。
そういう風習は今も昔も変わらないが供えるのはサトイモではなく餅若しくは饅頭。
いずれも甘い和菓子。
本来の意味を失っている。
サトイモの皮を剥いだら真っ白。
楕円形ではないまん丸な形のイモはお月さんに見立てたもの。
例年であれば12個のイモを供えるが、旧暦閏年は大の月が13カ月となることからイモの数は13個になる。
そういうことをしていた鬼輪垣内の風習は「芋の子」の名があった。
果たして鬼輪垣内はどこにあるのか・・、である。
カーナビゲーションにセットした津風呂を示す通りに走っていく。
南国栖に抜けるトンネル道。
その手前、右折れを示すカーナビゲーション。
下っていけば右手に本堂が建っていた。
それは入野(しおの)の子安地蔵尊であると案内板書があった。
板書を要約すれば、「地蔵さんは元正天皇期の霊亀元年(715)に入野の亀之尾という所に霊亀に乗って金色の光を放ちながら天から降りてこられた」という伝承がある。
「現在、安置している子安地蔵は江戸時代作の塑像であるが、蓮華座でなく、亀の背に乗っている」ということだ。
特徴的なのは一般的に胸にかける涎掛けであるが、入野の地蔵さんは亀の首にかけているそうだ。
さて、行事日のことである。
毎年の正月と九月の年二回。
いずれも24日が会式(看板に例祭とあるが仏行事と思われるので会式とした)である。
お堂に近寄ってみれば但し書きが貼ってあった。
平成22年からはいずれも第三日曜日に移したとある。
もしかとすれば拝観させて行事取材も、と思って現地住民を探してみる。
一人の男性がおられたので声をかければ、なんと3週間前に村入りした東京の人だった。
一時的に住んでいた川上村を離れて当地に来たのは農業従事の専門者になるためだそうだ。
そういう男性が紹介してくれた婦人が住む家を訪ねたがお留守だった。
そこら辺りで見渡せば畑に婦人がおられる。
声をかければもともと当地で生まれ育った婦人。
住まいは田原本町だがここで畑仕事をしているという。
娘さん時代にはおばあさんが尋ねるイモ名月をしていたという。
が、離れて云十年。
村の姿は・・・わからないという。
そこよりさらに下った処は津風呂ダム湖の東の端。
旧家があったのでここでも尋ねるが鬼輪のことは知らないというが、子安地蔵のことはご存じだ。
来月の会式にはお菓子を撒くゴクマキがある。
午後の時間帯、浄土宗の僧侶が来られて法要をするらしい。
とにかく知りたい鬼輪垣内のこと。
場所も判らず、湖畔を回遊するかのような道路を走って探し回るが集落どころか家、一軒も見当たらない。
かつてダム湖に沈んだ村がある。
垣内はたぶん上津風呂に下津風呂であろうか、72戸の人たちが移転を余儀なくされた。
その人たちの一部(20戸)が移住した先は奈良市内。
山陵町(みささぎちょう)内にある津風呂町地区になるそうだ。
さて、鬼輪垣内のことである。
津風呂湖で一番賑わっている場所はといえば津風呂湖観光株式会社があるところだ。
ここなら何かの手がかりが掴めるのでは、と思って尋ねたら社長が一番よく知っていると云われて紹介された。
社長の話しによれば、鬼輪は昭和37年にダム湖が完成する以前の建設が始まった昭和29年ころに移転したという。
ここより見渡す向こう岸。
左手は平尾垣内。
谷を隔てて右寄りに津風呂垣内があったという。
そこら辺りが鬼輪垣内だった。
昭和26・27年発行の地形図に「鬼輪」の文字があるらしい。
村はダム湖建設によって沈んだ。住民は移転したという。
鬼輪の戸数は3軒だった。
うち、一軒は津風呂町に移転した。
2軒は隣村の大字平尾に移転したという。
移転したうちの1軒を教えてもらって探してみたが、結局は判らなかった。
万事休す。である。
(H28. 8.28 SB932SH撮影)