マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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戒場の地蔵さん数珠繰り法要

2017年04月02日 05時33分03秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
つい最近になってよく訪れるようになったという榛原戒場(かいば)。

訪問する地は戒長寺。

ご住職と懇意にさせてもらっている。

その戒場で地蔵さんの数珠繰りをされるので、民俗を取材している私に声をかけてくださった女性がいる。

ありがたいことである。

彼女は東大寺を中心にブログで紹介している。

写真の腕前はメキメキと上達されて写真クラブにも入られた。

そのクラブの先生は存じている有名な方だ。

主宰する写真展に出かけて作品を拝見した。

その場に戒長寺住職にもお会いした。

平成25年1月3日に訪れた大字戒場の行事。

村の行事の「難除(なんじょ)」は自治会運営。

会長に了解を取っていただきたいと願われた。

そのときにお会いした自治会長はHさん。

かつて隣村の額井で行事を取材したことがある。

そこでお世話になったFさんがいる。

FさんとH会長は親戚筋。

行事を通じて縁が繋がっている人たちに感謝する。

上深川で同行取材した二人のカメラマンとともにでかける戒場。

その場にも知人の二人がいた。

この日はなにかと縁繋がりの人たちで顔を合わせる。

到着した場にはHさんがおられる。

久しぶりのご対面に大勢が押しかけて申しわけないと伝えた。

戒場の地蔵さん数珠繰り法要は本来ならば8月24日。

固定日では村の人たちも集まることが難しくなり日曜日に移したようだ。

戒場の地蔵さんを紹介する由来銘板がある。



それによれば、戒場の地蔵尊がある地は集落中央の「上の辻」。

石英粗面岩製地蔵尊の船形光背の高さが115cm。

光背面に「正長五年二月十一日」に多数の法名を刻んでいるらしい。

ところが、だ。

正長五年は和暦にない。

正長年代は西暦1428年の応永三十五年を継いだ正長元年は四月より始まる。

翌年の西暦1429年の正長二年までだ。

その年の八月に移った和暦は永享元年である。

しかも由来銘板にはこう書いてある。

「なほ正長五年は1433年、590年前である」と・・・。

西暦1433年は和暦年号でいえば永享五年。

あり得ない正長五年はどのように導かれたのか・・・。

それとも永享五年を正長五年としてしまったのか。

光背面を見直す必要があると思った。

数珠繰りをされる場にはもう一つの石仏がある。



祠内に安置しているので写真は撮れなかったが、これもまた由来銘板がある。

それによれば、“不動明王(廉申像)由来”とある。

そこからしてよくわからない表記である。

“廉申像”とは一体なんであるのか、である。

私が存知している範囲内に“廉申像”はない。

あるのは“庚申像”である。

漢字を見誤ったのか、それとも・・・。

仮に“庚申像”であったとしても、不動明王に“庚申像”をカッコ書きする理由が見つからない。

不動明王と庚申さんは別物である。

祠の小さな格子窓から覗いてみればわかるだろう。

二体なのか一体なのか、である。

銘板に続きがある。

「享保十二年、1727年、江戸中期造立の青面金剛像、康申が造立されてり作風は、この地方、篠楽康申と大宇陀大蔵寺「不動明王」、室生寺「軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)」の作風と同様同年号でもあり同作者の手によるものである」とあった。

青面金剛像であれば間違いなく庚申さん。

銘板にある“康申”は明らかな間違いである。

室生寺に巨岩に彫られた「軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)」をネットで調べてみれば確かに青面金剛像とよく似ている。

一面八臂姿の岩彫石仏は奈良県が発信するその記事にはこう書いてあった。

「4年に一度、庚申の日に町の人々が軍茶利明王石仏を拝みにくる習わしになっている」とあった。

気になる行事であるが、4年に一度と云えば新暦の閏年。

4年に一度のオリンピックがある。

庚申さんのトウゲ、或はトウアゲなどの名がある旧暦閏年に行っている庚申さんの行事である。

ちなみに青面金剛像は一面三眼六臂。

たしかに一面八臂の軍茶利明王像とよく似ている。

数珠繰りをされる戒場の庚申さんであれば可能性も考えられる。

今度、伺ったときに庚申講の存在などをお聞きしたいと思った。

なお、由来銘板には「・・・その昔康申講は、夜明けまで語り合う習慣もいつしかなくなり、昭和四十年以降は途絶えるが・・・」とある。

そうであったか。

戒場の庚申講はずいぶん前に解散されたようである。

ただ、気にかかるのは銘板に書かれた文字である。

この由緒銘板寄贈者は「井上薫 2015年84歳」とあるから前年のことである。

戒場在住の方なのか、村の関係者なのか、それとも学者であるのか、存知しないが、庚申講の誤記だけでも直しておいた方がいいだろうと思うのである。

そうこうしているうちに数珠繰りの準備が始まった。

村の人たちが数珠繰りをする場にブルーシートを敷く。

座布団をいっぱい広げる。

そこに据えたのは大珠のある数珠である。



その数珠を納めている箱がある。

何らかの文字があるかと思えて拝見させてもらった。

上蓋に書いてあった墨書に「明治弐拾年九月拾壱日整之」とある。

裏を返してもらえば数珠を寄進した人たちと思われる名が21人も連なる。

Hさん他、役員さんも見られた連名。

見たのは初めてだと話していた。

数珠繰りをするには導師の力が要る。

戒場の数珠繰り法要に導師を務めるのは真言宗御室派戒長寺の住職。

お供えをした地蔵尊の前に座る。

地べた直接ではなく座布団に座って唱える般若心経。

撞木を打つ伏せ鉦の音色・・・。

昔はこの鉦の音を聞いて数珠繰りの場にやってきたというから呼び出しの鉦でもある。

特に場から下にある垣内はそうであったと云う。



住職が唱える三巻の般若心経読経中に数珠繰りが行われる。

カン、カン、カン・・の音が戒場一帯に広がる。



鉦の音はたしかに村じゅうに聞こえるような音だった。

大きな房珠がわが身の前にくれば頭を下げる。

大人に混じって小さな子供たちも見習って頭を下げる。



数珠繰りは反時計回り。

地域によっては時計回りにしている場合もある。

何周したのか数えてはいないから回数はわからない。

三巻の心経ともなればまあまあの長丁場。

焼香はいつ終えたのかわからないが、数珠繰りを終えたら身体堅固。



数珠を束ねて背中をさする。

さすることからおさすりの身体堅固である。

子どもも大人も順番待ち。

この日に数珠を繰った21人が無病息災、身体堅固をしてもらった。



法要を終えて気になっていた伏せ鉦を拝見させてもらった。

鉦は戒長寺の什物である。



普段は本堂にあるが、この日は住職が運ばれる。

その鉦にあった刻印は「室町住出羽大掾宗味」。



これまで同記銘の鉦は県内各地で拝見してきた。

大和郡山市の杉町・南郡山町・伊豆七条町・額田部南、奈良市の今市・南田原町、桜井市の小夫、大淀町の畑屋、宇陀市榛原の篠楽である。

ほとんどが名前だけの刻印であるが、大和郡山市の伊豆七条町が所有する鉦は「安永八巳亥年二月 伊豆七条村 勝福寺什物 京室町住出羽宗味作」とあった。

安永八巳亥年は西暦で換算すれば1779年。

今からほぼ240年前になる。

伊豆七条町の手がかりしかないが、貴重な年代記銘である。

他村に見られた刻印は私が観る限りではあるが、同一人物が刻んだように見える。

断定はできないが、おそらくは村々に配布したものではないだろうか。

この伏せ鉦は融通念仏宗派に限られる。

戒長寺は真言宗派。

明治から大正時代にかけて高野山僧侶が兼務していた。



1480年代は興福寺領であった戒場村民は真言宗から融通念仏宗に宗派替えされたのであろうか・・・。

(H28. 8.21 EOS40D撮影)