飛鳥のミロクさんを知ったのは昭和61年7月に発刊された『季刊明日香風19号』に掲載されていた「明日香村の民俗点描-飛鳥のミロクさん-」記事だった。
明日香村のどこにあるのか下見した平成28年6月19日。
場所はわかったが、何時、行事をされるのかわからなかった。
後日というか翌月の7月23日にも訪れた立地の場。
村人に聞いた立地大字は岡だった。
場所は岡であるが、行事をしているのは大字飛鳥と聞いてようやく目にすることができる。
受付をしている男性に申し出た行事取材。
承諾してくださって村総代のSさんにお会いできた。
ありがたいことである。
飛鳥のミロクさんは「弥勒石」。
真神原(まがみはら)の西を流れる飛鳥川の右岸に位置する石柱状の巨石である。
この「弥勒石」は飛鳥川を川渡りする飛び石にあったという。
小さい子供のころはここで川遊びをしていた。
ごっつい石があった。それが「弥勒石」。
石仏は飛び石利用していた渡り橋だった。
それを邪魔になると云ってどかした。
そのときからもう既に立っていた。
小屋は朽ちていたので建替えた。
地番は大字岡である。
ここは小字木葉。
井出の名で呼ぶ井堰がある。
灌漑用水に水を引く井堰である。
小屋を建てたのは8年前。
カミナリが鳴っても隠れて避難。
そういう状態でも参られるように整備したという
木葉井出より北方に2km少し行った処に橿原市の木之本町がある。
そこは大字岡から見れば小字木葉の幹の部分。
飛鳥川を下った下流が木之本町。
つまり木の本になると云う。
そういう話は大和郡山市と天理市にある。
天理市の櫟本町は大きな櫟の木の本。
枝になる地は大和郡山市の櫟枝町。
すぐ西隣にある村は横田町。
つまり櫟の木が西に倒れて枝は櫟枝町で櫟の大木が横たわったかた横田町になったということである。
物理的にはあり得ない伝承であるが、よく似た事例が明日香村の大字岡の小字木葉と橿原市の木之本町に繋がる話しが面白い。
総代が話すもう一つの話題は小屋の内部にある埋もれた石にある。
「弥勒石」の腰を触れば腰から下の病気が治ると信ぜられた。
弥勒堂の三方を戸板で隠している。
その三方とも刳りぬきの穴がある。
穴の形はまるで瓢箪のようにも見える。
そこから手を突っ込んで「弥勒石」を触る。
そうすると腰より下の病いが治るというわけだ。
ご利益を求める参拝者は小屋の椅子に腰かけて足を置く。
その置く位置にあるのが「くつぬぎ石」と呼ぶ埋め石である。
何故にそこで靴を脱ぐかといえば、「くつぬぎ石」に足を置くことで足を清めてもらうのだというのだ。
そんなありがたい「弥勒石」を覆う弥勒堂には多数の藁草履を吊るしている。
6月19日に訪れたときは大きな藁草履もあった。
県内事例ではあまり見かけることのない大草履であったが、この日にはそれがなかった。
実はこの日の午前中にお焚きあげ法要によって古くから奉ってあった藁草履を焚き上げたのだ。
草履はすべて外すのではなく大字役員が振り分ける。
その件については総代名で文書が発行されている。
但し書きに「古い草履とか新しい草履とかの判断は当大字の役員が行います。まだ残したかった方があればご容赦お願いいたします」とある。
文書期日は8月10日。
猶予期間は一か月以上もあるからお許しいただきたいと書いていた。
この日は古い藁草履のお焚き上げと午後に行われる大字飛鳥の弥勒さんの法要である。
いずれもすぐ近くに建つ飛鳥寺の住職が小字木葉の弥勒さんに来られる。
お供えの受付は当日設営されたテント張りの受付場で行われる。
参拝者は大字飛鳥の人たちだけでなく橿原市の飛騨町の人たちも。
昔から来られている飛騨町の人は信仰心から始まったようだ。
医者も手放すぐらいの病理だった。
それが弥勒さんに参ることで治った。
それを聞きつけた人たちが弥勒さんのご利益を求めてくるようになった。
口コミで広がった信仰心の繋がりのようだ。
また、弥勒さんは命の恩人であると信心している総代の話しもある。
この川で泳いでいたら身体を流され。
このまま流れていったら死んでいくのかと思ったそのときだ。
首を掴まれて助けられた。
弥勒さんが助けてくれはったというありがたい話しである。
また、役員さんは住職が来られるまでに果物盛りや餅御供を並べていた。
御供は他にも高野豆腐や海苔、鰹節にカップ麺などまである。
受付された人の中には手を合わせて真剣なお顔で弥勒さんに願いを伝えていた。
そうこうするうちに住職が来られた。
お顔を拝見して挨拶をさせてもらう。
実はU住職とお会いするのは初めてではない。
以前から存知している住職は大和郡山市内の行事に来られていたのだ。
初めてお会いしたのは平成23年に行われた丹後庄町の十日盆である。
もう一つは平成24年の2月15日の涅槃会。
いずれも法要してくださったお寺は丹後庄町の松本寺(しょうほんじ)である。
あれから4、5年も経っているのに私のことを覚えてくださっていた。
この場でもう一度お会いするとは予想もしていなかった住職はテレビで度々拝見するように優しく接してくださる。
弥勒さんの御前に座って唱えるご真言。
まーかーはんにゃーしんぎょーと唱えるときは拍子木を打つ。
その間に参拝者は焼香する。
こうして法要を済ませたら幕を下ろす。
その幕に隠れていた大草履が現われた。
(H28. 9. 5 EOS40D撮影)
明日香村のどこにあるのか下見した平成28年6月19日。
場所はわかったが、何時、行事をされるのかわからなかった。
後日というか翌月の7月23日にも訪れた立地の場。
村人に聞いた立地大字は岡だった。
場所は岡であるが、行事をしているのは大字飛鳥と聞いてようやく目にすることができる。
受付をしている男性に申し出た行事取材。
承諾してくださって村総代のSさんにお会いできた。
ありがたいことである。
飛鳥のミロクさんは「弥勒石」。
真神原(まがみはら)の西を流れる飛鳥川の右岸に位置する石柱状の巨石である。
この「弥勒石」は飛鳥川を川渡りする飛び石にあったという。
小さい子供のころはここで川遊びをしていた。
ごっつい石があった。それが「弥勒石」。
石仏は飛び石利用していた渡り橋だった。
それを邪魔になると云ってどかした。
そのときからもう既に立っていた。
小屋は朽ちていたので建替えた。
地番は大字岡である。
ここは小字木葉。
井出の名で呼ぶ井堰がある。
灌漑用水に水を引く井堰である。
小屋を建てたのは8年前。
カミナリが鳴っても隠れて避難。
そういう状態でも参られるように整備したという
木葉井出より北方に2km少し行った処に橿原市の木之本町がある。
そこは大字岡から見れば小字木葉の幹の部分。
飛鳥川を下った下流が木之本町。
つまり木の本になると云う。
そういう話は大和郡山市と天理市にある。
天理市の櫟本町は大きな櫟の木の本。
枝になる地は大和郡山市の櫟枝町。
すぐ西隣にある村は横田町。
つまり櫟の木が西に倒れて枝は櫟枝町で櫟の大木が横たわったかた横田町になったということである。
物理的にはあり得ない伝承であるが、よく似た事例が明日香村の大字岡の小字木葉と橿原市の木之本町に繋がる話しが面白い。
総代が話すもう一つの話題は小屋の内部にある埋もれた石にある。
「弥勒石」の腰を触れば腰から下の病気が治ると信ぜられた。
弥勒堂の三方を戸板で隠している。
その三方とも刳りぬきの穴がある。
穴の形はまるで瓢箪のようにも見える。
そこから手を突っ込んで「弥勒石」を触る。
そうすると腰より下の病いが治るというわけだ。
ご利益を求める参拝者は小屋の椅子に腰かけて足を置く。
その置く位置にあるのが「くつぬぎ石」と呼ぶ埋め石である。
何故にそこで靴を脱ぐかといえば、「くつぬぎ石」に足を置くことで足を清めてもらうのだというのだ。
そんなありがたい「弥勒石」を覆う弥勒堂には多数の藁草履を吊るしている。
6月19日に訪れたときは大きな藁草履もあった。
県内事例ではあまり見かけることのない大草履であったが、この日にはそれがなかった。
実はこの日の午前中にお焚きあげ法要によって古くから奉ってあった藁草履を焚き上げたのだ。
草履はすべて外すのではなく大字役員が振り分ける。
その件については総代名で文書が発行されている。
但し書きに「古い草履とか新しい草履とかの判断は当大字の役員が行います。まだ残したかった方があればご容赦お願いいたします」とある。
文書期日は8月10日。
猶予期間は一か月以上もあるからお許しいただきたいと書いていた。
この日は古い藁草履のお焚き上げと午後に行われる大字飛鳥の弥勒さんの法要である。
いずれもすぐ近くに建つ飛鳥寺の住職が小字木葉の弥勒さんに来られる。
お供えの受付は当日設営されたテント張りの受付場で行われる。
参拝者は大字飛鳥の人たちだけでなく橿原市の飛騨町の人たちも。
昔から来られている飛騨町の人は信仰心から始まったようだ。
医者も手放すぐらいの病理だった。
それが弥勒さんに参ることで治った。
それを聞きつけた人たちが弥勒さんのご利益を求めてくるようになった。
口コミで広がった信仰心の繋がりのようだ。
また、弥勒さんは命の恩人であると信心している総代の話しもある。
この川で泳いでいたら身体を流され。
このまま流れていったら死んでいくのかと思ったそのときだ。
首を掴まれて助けられた。
弥勒さんが助けてくれはったというありがたい話しである。
また、役員さんは住職が来られるまでに果物盛りや餅御供を並べていた。
御供は他にも高野豆腐や海苔、鰹節にカップ麺などまである。
受付された人の中には手を合わせて真剣なお顔で弥勒さんに願いを伝えていた。
そうこうするうちに住職が来られた。
お顔を拝見して挨拶をさせてもらう。
実はU住職とお会いするのは初めてではない。
以前から存知している住職は大和郡山市内の行事に来られていたのだ。
初めてお会いしたのは平成23年に行われた丹後庄町の十日盆である。
もう一つは平成24年の2月15日の涅槃会。
いずれも法要してくださったお寺は丹後庄町の松本寺(しょうほんじ)である。
あれから4、5年も経っているのに私のことを覚えてくださっていた。
この場でもう一度お会いするとは予想もしていなかった住職はテレビで度々拝見するように優しく接してくださる。
弥勒さんの御前に座って唱えるご真言。
まーかーはんにゃーしんぎょーと唱えるときは拍子木を打つ。
その間に参拝者は焼香する。
こうして法要を済ませたら幕を下ろす。
その幕に隠れていた大草履が現われた。
(H28. 9. 5 EOS40D撮影)