奈良市の東山間部にある須山町に向かう。
前以ってお願いしていた子供の涅槃講の取材である。
須山の子供の涅槃講は、これまで2度もお伺いしたことがある。
一度目は平成23年の3月27日。
二度目がその後、2年後の平成25年の3月24日だった。
実施される日は特定日でなく、涅槃に村を巡る子どもたちが決める日だった。
だいたいが、春休みの期間中のようだった。
いつしか村の子どもは減少への道を歩むことになった。
須山町の子供の涅槃講の対象者は上が中学生までで、下は歩けるようであれば幾つでも、ということだ。
平成23年のときは年長の子どもたちがいたが、中学校を卒業した翌々年は下の子どもたちだけになった。
それも特定家の兄弟姉妹の子ども3人だけである。
それから4年目のこの年もまた兄弟姉妹の3人だけである。
日程は子ども中心に決められるが、家の事情も考慮して家族で決める。
今年も取材をお願いしたら、快く受けてくださった。
3回目の取材になった今回は、写真家Kさん、たってのお願いである。
一か月前の2月28日。
取材許可願いに立ち寄った須山町の時間帯はもう夕暮れどきだった。
呼び鈴を押しても反応がなかった。
振り返れば畑から戻ってきた鍬をもつ向かいの老婦人がおられた。
話しを伺えば、まだ村に通知が来ていないようだ。
だいたいが3月20日過ぎになるらしい。
それから数日後。許可願いするお家に電話を架けたら、そろそろ決めようとしているとのことだった。
待ち望んだ涅槃講の日が確定した。
特定家の子どもは3人。
小学6年生の双子男子に4年生の女の子。
うち一人は前日に風邪をひいたものだから、やむなく欠席。
2人だけが参ることになった。
双子男子は翌月に中学生。
小学生時代最後の涅槃講に参加できなかったのは兄の方だった。
母親は「ねはんこ」と呼んでいた。
「ねはんこ」の「こ」を充てる漢字は「子」だと思っていたそうだが、畑で作業をしていた長老は「ねはんこう」だと云った。
「ねはんこう」を充てる漢字は「涅槃講」。
講の行事であるという。
須山町は13軒の集落。
かつては大勢の子どもたちがいた。
村の家を巡ってお米貰い。
大昔はそうだったという。
いつしかお菓子に移ったお米貰い。
東西、2地区の東出、西出に住まいする子どもたちの地区別競争。
すべてを巡って最後にトーヤ家(当家)の人からもらうご飯盛り。
貰ったら一目散に駆け付ける如意輪観音石像がある地。
如意輪観音や彫りの有る地蔵さん、石塔などにご飯を塗り付ける。
2番手になった地区の子どもたちは先に済ましていたご飯の上から塗ることはできない。
塗り付けたご飯を洗い落としてから塗ることになる。
その日は朝から晩までトーヤ家(当家)で遊んで過ごした。
昼食はカレーライス。
夜の食事はイロゴハンだった。
食事をよばれて、遊び疲れるほど遊んだというのは、当時の経験者である。
涅槃講の日程決めは年長者が、下の子どもらの都合も考慮して決めた。
決めた日程は村各戸に電話を架けて伝えていた。
だいたいが2週間前に通知していたそうだ。
そのようなかつての在り方は、お菓子貰いしている間に話してくださる。
石仏に塗ったご飯はちょびっとでなく、全身に塗ったという人もいる。
手でぐちゃぐちゃ。頭から下まで塗りつけていた。
昼食はキリボシダイコンを炊いた煮物料理もあった
。それにはジャガイモのたいたん(炊いたん)もあったし、ほうれん草も・・。
全部食べ切れずに、余ったものは持って帰っていた。
サラダに寿司もあったというのは西出の人。
キリコの名で呼ぶキリコモチはもう少し前の時代だったから、というAさんは昭和33年生まれ。
以前の年代の人たちがキリコの年代になる。
夜の食事に小豆粥もあった。
アラレ、キリコは大層になったので、お菓子に替わった。
お米も出す家もあったが、炊いてもらっていた。
トゲトゲのタロの箸もあった。
膳に、今年最後の子やからと云われた男性は58歳。
中学2年のときやから、昭和42年から45年ぐらいだったと話す経験を語る。
タロの箸があったとは・・。
少し離れるが隣村にある「矢田原のこども涅槃」行事を思い出した。
タロの木は一般的名称でいえばウコギ科の低木落葉樹のタラノキ(タラの木)であるだ。
春近しのころ、芽生えするタラの芽は春の恵みの一つ。
天ぷらにして食べたらとても美味しい。
近年、3月初めころともなればスーパーでも売ることが多くなったタラの芽であるが、涅槃行事に出てくる形は棘があるままの状態である。
映像も含めて、なぜにトゲトゲのタロの箸が登場するのかは、「矢田原のこども涅槃」行事を参照されたい。
裏山から流れる石清水。
湧水は井戸に溜める。
今でも利用している井戸の水を拝見させてもらったN家。
子どもたちを接待する家はヤド家。
トーヤ家(当家)でもある。
平成21年が最後になったヤド家の接待。
以降、食事接待をすることはなくなったが、塗り付けるご飯を調達するヤド家。
N家は来年の平成30年がヤド家になるという。
かつてはちらし寿司にオムライスもしていたという。
また、カヤの実は秋の稔り。
キリコはホウラクで煎って食べていたことも話してくれた。
西出の集落から東出の家を巡る。
先だって日程はそろそろと云ってくださった高齢の婦人も用意していたお菓子を手渡す。
ここの家には懐かしい光景もある。
右はポンプで汲み上げて蛇口から出てくる井戸水。
水受けする洗面台も懐かしい。
左側は陶器製の大きな口を開けた蛙。
その台も陶器製で「薬売箱」を表記している。
お爺さんが顕在だったころに聞いたその用途。
商売をしているお家から貰ったものだからわからないと云っていた。
子どもたちに付いていくまま数えたお家は13軒。
どの家も温かく受け入れてくれてありがたくお菓子をいただく。
貰ったお菓子は大きな紙袋に詰めてもらう。
両手に抱えて持ち帰るお菓子袋は満載になった。
風邪でお外に出られなかった双子の兄にも分けてあげるだろう。
トーヤ家(当家)に寄ってもらったご飯は丼盛り。
落とさないように抱える妹に箸をもったのは双子の弟兄ちゃんだ。
向かう地はかつて円福寺があったところである。
現在は小堂があるのみになってしまったが、光背のある地蔵菩薩立像、不動明王像などを大切に保管されている。
この日は特別だったが、一年に一度はご開帳。
7月23日の地蔵さんの祭り。
村の女性や子供たちが参拝に集まる。
また、小堂は毎月23日が廻り当番。
お堂に周りも綺麗に掃除をしてお花を立てているという。
円福寺の名残の石仏群に如意輪観音坐像がある。
役行者坐像に地蔵石版彫りに数々の石塔が乱立する。
どこから塗っていっていいのやら、思案にくれる兄妹。
そりゃ、やはり如意輪観世音菩薩だと思う。
ご飯を塗りたくるというよりも、箸で摘まんでくっつけるという感じである。
兄がご飯丼鉢を抱えて、妹が塗り付ける。
この年は兄妹が協力し合ってする飯塗りそのものの行為にどういう意味があるのだろうか。
県内事例に見られない在り方に感動するのだが・・。
ご飯を塗りたくっていたころ。
何人かの大人たちが、どういう具合にしているのか、様子を見に来られた。
お菓子貰いのときに話題になったかつての在り方がどのような形態に移っているのか、実際に拝見したくなったと話していた。
飯付けの〆に作法がある。
塗りたくった箸は二つ折り。
それをちょこんと如意輪観音さんに置いて終えた。
平成25年に取材したときに昭和15年生まれの男性、Mさんが話したこと。
私らの年代がしていた当時は、手で塗りたくっていた。
箸を使うことはなかったという。
この箸折り行為、昔はそうすることはなかったということだ。
箸を置いたら、二人は手を合わせて終えた。
付き添いに廻っていたお母さんも一緒になって手を合わせた。
この子たちも成長していずれは子供の涅槃講を卒業する。
双子の兄弟も4月になれば新中学生。
3年も経てば妹さん一人になってしまう。
そのころには村の次世代を担う赤ちゃんが誕生しているだろうか。
(H29. 3.26 EOS40D撮影)
前以ってお願いしていた子供の涅槃講の取材である。
須山の子供の涅槃講は、これまで2度もお伺いしたことがある。
一度目は平成23年の3月27日。
二度目がその後、2年後の平成25年の3月24日だった。
実施される日は特定日でなく、涅槃に村を巡る子どもたちが決める日だった。
だいたいが、春休みの期間中のようだった。
いつしか村の子どもは減少への道を歩むことになった。
須山町の子供の涅槃講の対象者は上が中学生までで、下は歩けるようであれば幾つでも、ということだ。
平成23年のときは年長の子どもたちがいたが、中学校を卒業した翌々年は下の子どもたちだけになった。
それも特定家の兄弟姉妹の子ども3人だけである。
それから4年目のこの年もまた兄弟姉妹の3人だけである。
日程は子ども中心に決められるが、家の事情も考慮して家族で決める。
今年も取材をお願いしたら、快く受けてくださった。
3回目の取材になった今回は、写真家Kさん、たってのお願いである。
一か月前の2月28日。
取材許可願いに立ち寄った須山町の時間帯はもう夕暮れどきだった。
呼び鈴を押しても反応がなかった。
振り返れば畑から戻ってきた鍬をもつ向かいの老婦人がおられた。
話しを伺えば、まだ村に通知が来ていないようだ。
だいたいが3月20日過ぎになるらしい。
それから数日後。許可願いするお家に電話を架けたら、そろそろ決めようとしているとのことだった。
待ち望んだ涅槃講の日が確定した。
特定家の子どもは3人。
小学6年生の双子男子に4年生の女の子。
うち一人は前日に風邪をひいたものだから、やむなく欠席。
2人だけが参ることになった。
双子男子は翌月に中学生。
小学生時代最後の涅槃講に参加できなかったのは兄の方だった。
母親は「ねはんこ」と呼んでいた。
「ねはんこ」の「こ」を充てる漢字は「子」だと思っていたそうだが、畑で作業をしていた長老は「ねはんこう」だと云った。
「ねはんこう」を充てる漢字は「涅槃講」。
講の行事であるという。
須山町は13軒の集落。
かつては大勢の子どもたちがいた。
村の家を巡ってお米貰い。
大昔はそうだったという。
いつしかお菓子に移ったお米貰い。
東西、2地区の東出、西出に住まいする子どもたちの地区別競争。
すべてを巡って最後にトーヤ家(当家)の人からもらうご飯盛り。
貰ったら一目散に駆け付ける如意輪観音石像がある地。
如意輪観音や彫りの有る地蔵さん、石塔などにご飯を塗り付ける。
2番手になった地区の子どもたちは先に済ましていたご飯の上から塗ることはできない。
塗り付けたご飯を洗い落としてから塗ることになる。
その日は朝から晩までトーヤ家(当家)で遊んで過ごした。
昼食はカレーライス。
夜の食事はイロゴハンだった。
食事をよばれて、遊び疲れるほど遊んだというのは、当時の経験者である。
涅槃講の日程決めは年長者が、下の子どもらの都合も考慮して決めた。
決めた日程は村各戸に電話を架けて伝えていた。
だいたいが2週間前に通知していたそうだ。
そのようなかつての在り方は、お菓子貰いしている間に話してくださる。
石仏に塗ったご飯はちょびっとでなく、全身に塗ったという人もいる。
手でぐちゃぐちゃ。頭から下まで塗りつけていた。
昼食はキリボシダイコンを炊いた煮物料理もあった
。それにはジャガイモのたいたん(炊いたん)もあったし、ほうれん草も・・。
全部食べ切れずに、余ったものは持って帰っていた。
サラダに寿司もあったというのは西出の人。
キリコの名で呼ぶキリコモチはもう少し前の時代だったから、というAさんは昭和33年生まれ。
以前の年代の人たちがキリコの年代になる。
夜の食事に小豆粥もあった。
アラレ、キリコは大層になったので、お菓子に替わった。
お米も出す家もあったが、炊いてもらっていた。
トゲトゲのタロの箸もあった。
膳に、今年最後の子やからと云われた男性は58歳。
中学2年のときやから、昭和42年から45年ぐらいだったと話す経験を語る。
タロの箸があったとは・・。
少し離れるが隣村にある「矢田原のこども涅槃」行事を思い出した。
タロの木は一般的名称でいえばウコギ科の低木落葉樹のタラノキ(タラの木)であるだ。
春近しのころ、芽生えするタラの芽は春の恵みの一つ。
天ぷらにして食べたらとても美味しい。
近年、3月初めころともなればスーパーでも売ることが多くなったタラの芽であるが、涅槃行事に出てくる形は棘があるままの状態である。
映像も含めて、なぜにトゲトゲのタロの箸が登場するのかは、「矢田原のこども涅槃」行事を参照されたい。
裏山から流れる石清水。
湧水は井戸に溜める。
今でも利用している井戸の水を拝見させてもらったN家。
子どもたちを接待する家はヤド家。
トーヤ家(当家)でもある。
平成21年が最後になったヤド家の接待。
以降、食事接待をすることはなくなったが、塗り付けるご飯を調達するヤド家。
N家は来年の平成30年がヤド家になるという。
かつてはちらし寿司にオムライスもしていたという。
また、カヤの実は秋の稔り。
キリコはホウラクで煎って食べていたことも話してくれた。
西出の集落から東出の家を巡る。
先だって日程はそろそろと云ってくださった高齢の婦人も用意していたお菓子を手渡す。
ここの家には懐かしい光景もある。
右はポンプで汲み上げて蛇口から出てくる井戸水。
水受けする洗面台も懐かしい。
左側は陶器製の大きな口を開けた蛙。
その台も陶器製で「薬売箱」を表記している。
お爺さんが顕在だったころに聞いたその用途。
商売をしているお家から貰ったものだからわからないと云っていた。
子どもたちに付いていくまま数えたお家は13軒。
どの家も温かく受け入れてくれてありがたくお菓子をいただく。
貰ったお菓子は大きな紙袋に詰めてもらう。
両手に抱えて持ち帰るお菓子袋は満載になった。
風邪でお外に出られなかった双子の兄にも分けてあげるだろう。
トーヤ家(当家)に寄ってもらったご飯は丼盛り。
落とさないように抱える妹に箸をもったのは双子の弟兄ちゃんだ。
向かう地はかつて円福寺があったところである。
現在は小堂があるのみになってしまったが、光背のある地蔵菩薩立像、不動明王像などを大切に保管されている。
この日は特別だったが、一年に一度はご開帳。
7月23日の地蔵さんの祭り。
村の女性や子供たちが参拝に集まる。
また、小堂は毎月23日が廻り当番。
お堂に周りも綺麗に掃除をしてお花を立てているという。
円福寺の名残の石仏群に如意輪観音坐像がある。
役行者坐像に地蔵石版彫りに数々の石塔が乱立する。
どこから塗っていっていいのやら、思案にくれる兄妹。
そりゃ、やはり如意輪観世音菩薩だと思う。
ご飯を塗りたくるというよりも、箸で摘まんでくっつけるという感じである。
兄がご飯丼鉢を抱えて、妹が塗り付ける。
この年は兄妹が協力し合ってする飯塗りそのものの行為にどういう意味があるのだろうか。
県内事例に見られない在り方に感動するのだが・・。
ご飯を塗りたくっていたころ。
何人かの大人たちが、どういう具合にしているのか、様子を見に来られた。
お菓子貰いのときに話題になったかつての在り方がどのような形態に移っているのか、実際に拝見したくなったと話していた。
飯付けの〆に作法がある。
塗りたくった箸は二つ折り。
それをちょこんと如意輪観音さんに置いて終えた。
平成25年に取材したときに昭和15年生まれの男性、Mさんが話したこと。
私らの年代がしていた当時は、手で塗りたくっていた。
箸を使うことはなかったという。
この箸折り行為、昔はそうすることはなかったということだ。
箸を置いたら、二人は手を合わせて終えた。
付き添いに廻っていたお母さんも一緒になって手を合わせた。
この子たちも成長していずれは子供の涅槃講を卒業する。
双子の兄弟も4月になれば新中学生。
3年も経てば妹さん一人になってしまう。
そのころには村の次世代を担う赤ちゃんが誕生しているだろうか。
(H29. 3.26 EOS40D撮影)