マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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桜井の竜谷から出雲、そして榛原柳の民俗探訪

2018年02月17日 08時31分38秒 | メモしとこっ!
この日に祈年祭があると思って桜井市の竜谷に出かける。

ところが竜谷の三輪神社にはどなたも現れない。

もしやと思って子守地蔵尊を安置する竜谷寺付近に住むN家を頼って訪ねた。

作業場におられた男性はお大師さん行事に導師を務めた母親の息子さん。

身体の具合は以前にお会いして時よりかはずいぶんと良くなったそうだが、車は運転のできない身。

私も心臓を壊してからは不安な毎日を暮らしているが二人ともなんとか生きていることに歓びを感じているなと云って思わず握手した。

お母さんは元気で畑仕事。

息子や娘たちもそれぞれが独り立ち。

親に世話をかけなくとも暮らしているのが嬉しいという。

思わず、うちも・・と云った。

肝心かなめの行事である。

その行事は神占の頭人定めに大幣を用いてフリアゲをすると記憶にあるが・・・男性の話しによれば秋の祭りに統合したという。

そういえば昨年の平成27年11月3日に訪れた竜谷の三輪神社では神職がフリアゲをしていた。

そうだったんだ。

その場を離れて旧暦閏年の庚申さん行事の正式取材願いをしたく榛原柳に向かう。

竜谷からはそれほど遠くない。

当日の4月2日は平成24年に訪れたものの取材時間が確保できずに断念した出雲の旧暦閏年の庚申さん行事もされる。

時間帯が重なる可能性が高い。高かっても少しでも拝見したく正確な時間を知りたくて榛原柳の再訪である。

数日前、いや昨年も紹介されたものの区長家を訪ねる時間がなかった榛原柳。

きちんとした取材である旨伝えたくて1軒のお家を尋ねたらその下だという。

結論から云えば同時間であった。

訪ねた区長家はT家。

年に6回の庚申講の寄り合いがある。営みの時間帯は夏場、冬場によって若干の時間差を設けている。

ちなみに夏場は午後7時半だが、冬場は7時になる。

それぞれが講中の掛図を揚げて営んでいたが、今は会所で両講中の集まりになったそうだ。

また、願文を墨書したヒノキ材の塔婆をあげる旧暦閏年の庚申行事もある。

閏庚申に奉ったヒノキ材の塔婆は玄関軒に掛けている。

トウヤを務めた家は奉った後に掛けるそうだ。

ヒノキ葉は削らずにそのまま掛けた塔婆は二本。

3文字の梵字がようわからないという。

梵字のことは詳しくないが、かつて天理市山田の蔵輪寺の住職に教えてもらったことがある。

その五文字の読みは「キャ カ ラ バ ア」。「キャ カ ラ バ ア」を意味する五つ漢字が「空 風 火 水 土 」であるが、柳の塔婆は三文字。

もともとからそうだったのか、それともあるときに五つから三文字になってしまったのか、謎だと区長がいう。

なお、柳の村は東出および西出それぞれの伊勢講もしているそうだ。

東出は8軒で西出は4軒の講中。

それぞれが年に2回。

2月の16日と12月の16日の夜にそれぞれの講中にあるヤカタを祭ったトウヤ家で営みをしていたが、今は会所に移っているようだ。

講の行事だけでなく村の行事の数々を教えてくださる。

榛原柳は東出垣内と西出垣内からなる13戸の集落。

2カ月に一度の庚申さんの日は村の会所である長福寺に寄り合う。

現在の長福寺は無住寺であるが本尊由来から想定するに長谷寺真言宗豊山派のようである。

その関係が色濃いのであろう旧暦1月11日に桜井市や宇陀市榛原地区の人たちが三社権現に参る行事もある。

詳しいことは後々に取材させていただくことにして詳細は省くが、蔵出しして発見した掛図に藤原鎌足三尊図がある。

正確な年代は不明であるが百年前の掛図はぼろぼろだったことから、新しく表装をしなおしたらしい。

藤原鎌足三尊図があったということは桜井市の談山神社下にある地域が祭る八講祭がある。

明日香村にも八講祭や同じように藤原鎌足公を祭る明神講もある。

ここ榛原柳にも同じように鎌足公を祭っていた講があったのだろうか。

奥さんは藤原講かも、と口にでた掛図に興味を惹かれる。

三社権現に参拝する権現ドーヤもある榛原柳は隣村の桜井市吉隠と榛原角柄からなる中之郷にあたる。

今年の2月5日が旧暦に1月11日であった。

しかも3年ごとに廻りがくる当たりの年だったという。

確か、カニノモチを供えると聞いているが、なにやらアトトリの男が宣言することによって行われるらしい。

今後ともよろしくお願いさせてもらった区長家の玄関にえらいものを吊っていた。

えらいものというのは江戸時代の木製消防ポンプである。

その名も龍吐水。嘉永二年(1849)の刻印があったので製造時代もわかる代物に竹編み籠に柿渋で貼った水溜め用のバケツもある。

その数、10個もある。

これまで見たこともない貴重な年代物の和式バケツには驚いたものだ。

排水用の木製ホースは屋内座敷で保管している。

篠原神社でもらってきた竹で挟んだごーさん札もある。

民俗行事に欠かせない祭り道具は他にもありそうだが、本日は挨拶伺い。

ぼちぼち取材させていただくと失礼させてもらった時間帯は午後12時半も過ぎていた。

ちなみに近鉄電車を見下ろす位置に建つ小社は四社大明神。

向かい側に旧長福寺がある。

さて、昼ご飯はどうするか、である。

頭の中をあれやこれやの頭の中でぐるぐる回る廻り燈籠。

場所は決まったが途中で場所の再確認をしておきたい桜井市の大字出雲に立ち寄る。

十二柱神社の鳥居に掛けてある太い注連縄に度肝を抜かれるが、あれぇ、である。



三つの垂れ房もそうだが、5年ぶりに訪れた本日の注連縄は巨大化していた。

なぜに巨大化したのか。

一般的な事例でいえば縄結いができなくなって細くなるのが常。

ところが出雲では逆に巨大化した。

機会があれば経緯を聞いてみたいものだ。

どれぐらい大きくなったのか。



参考までに平成24年の4月7日に訪れたときに撮っていた注連縄と比較していただきたい。

驚くばかりの変身ぶりにたまげたのである。

それはともかく十二柱神社が鎮座する大字出雲を東西に結ぶ旧道がある。

江戸時代は伊勢詣りをする人たちが往来していた伊勢街道である。

集落南、すぐ近くにある国道169号線が幹線道。

多くの車が往来する道が主道になった。

さて、十二柱神社である。

史料によれば、神社狛犬の台座の造りに特徴がある。

台座を支える姿は力士像。

左右それぞれの台座に4体の力士が支えているので拝見されたい。

文久元年(1861)建之された狛犬台座の力士は筋骨隆々。

出雲といえば島根県であるが、ここ大字も出雲。

古来、島根出身者がこの地に移ったからその大字名になったという説がある。

出雲といえば日本書紀に登場するスクネ(能見宿禰)。

垂仁天皇7年、天皇の命によりケハヤ(當麻蹶速)と相撲をとるために出雲の国から大和の国に出てきたとある。

その説から十二柱神社の狛犬台座に力士像が建之されたというが、同じような形、力士姿が支える台座は他所にもある。

桜井市山間部になる大字萱森に鎮座する高龗神社である。

当社の由来に力士の存在はない。

力士台座の一例ではあるが、同じ説ならここ萱森もスクネ(能見宿禰)説があっても良さそうだが、まったくない。

説を唱える人たちは萱森にある狛犬台座のことは存じていないのだろうか。

ただ、興味深いのは建之記銘である。

萱森の台座は文久二年(1862)二月。

十二柱神社の台座建之の一年後の記銘である。

作風も似ているようなので、作者との関係性があるのかもしれない。

(H24. 4. 7 SB932SH撮影)
(H29. 3.27 SB932SH撮影)