『京都の民俗芸能』によれば、神楽に伝承はみられないものの、太鼓の胴に「文化四甲イ年」の文字があると書いてあったが、どうも合点がいかなかった。
文化四年の干支は“丁卯”である。
ところが、『京都の民俗芸能』の干支は“甲イ”。
“甲イ”は発音からおそらく“甲戌”であろう。
“甲戌”であれば文化四年ではなく、文化十一年が正しい。
写し間違いなのか、それとも記載誤りなのか、確かめるには、宮津朔日講に継承されている太鼓の胴を確認するしかないだろう。
そう、思ってはいたが、太鼓の所在を聞くことはなかった。
確認したのは神楽に使われる胴締め鼓だけだった。
この件については、またの機会に、としておく。
時間帯は朝の7時。
それ以前の時間帯に来られた村神主一人が動いていた。
本社殿に供えていた御供はパンにコップ酒。
実は後ほどお神酒はとっくり瓶に入れて御供箱ごと供えられる。
たぶんに参拝された人が氏神さんに飲んでもらおうと思って供えたのだろう。
一人黙々と動かれる村神主は朔日講の最年長者。
宮津の朔日講は8人組。
村神主は朔日講の一老でもある。
一年ずつ繰り上がって引退する村神主。
二老だった人が一老に上って村神主を勤める。
以下、それぞれが繰り上がると同時に末端加入する再年少者。
その人が八老になる。
かつては高齢の年齢層であったが、徐々に下がって今では40歳から50歳代の若手壮年層。
このままいけば30歳代にまで下ることになるだろうと話していた。
御供はパンだけではなく、お米もある。
お米は玄米であっても構わないし洗い米でもいいそうだ。
10杯の小鉢に盛った米御供は実に多い。
これらは昭和25年2月吉日に寄進されたオカモチ型御供箱に並べる。
御供を供える神さんは本殿に末社。
京田辺市、宮津に鎮座する白山神社の末社はとにかく多い。
稲田姫社、祈雨社、佐勢古勢社などに三十番神の石碑もあれば、金毘羅塔、猿田彦塔、石の祠、山の神も。
舞殿遥拝所内には朱智神社、佐勢古勢社、三十番神、祈雨社、高龗命、天照皇太神宮、春日大神宮、八幡大神宮、神武天皇も、である。
朝7時ともなれば八人衆がやってきた。
準備が調った御供は御供箱ごと運ぶ。
お神酒は専用の御供箱ごとそのまま供える。
そして社務所で着替える。
八人衆は普段着であるが、一老でもある村神主は、紺色の素襖に着替える。
その素襖は前年の平成28年12月30日に撮らせてもらっていた。
村神主が着用する素襖に「明治廿七年(1894)十月新調 價(値)金四円二拾銭 施主氏子」の文字がある。
今から124年も前からずっと一年交替する村神主が袖を通してきた素襖である。
神楽舞用いる道具は一老以外の人たちが奏でる道具。
大正三年壱月に新調された胴締め鼓や大小5枚の妙鉢に祓いの鈴である。
鳴り物は二老以下の講中が用いるが、祓いの鈴は神楽を舞う村神主の採り物であった。
京都府京田辺市宮津の宮ノ口に鎮座する白山神社へ初めて訪れた日は平成28年12月10日だった。
訪れた目的は大晦日に行われる神社の砂撒きであった。
その行事は地区在住の方々に教えてもらって取材したことがある。
今回は砂撒きではなく、神社に掲げていた朔日講のことである。
白山神社由緒書にあった「朔日講の神楽 毎月一日(現在は毎月第一日曜日など)」と京田辺市教育委員会ならびに文化財保護委員会が伝えていた。
その日に訪ねた在所住民がこの本の頁に紹介してあると拝見した本は昭和53年3月に発刊された『京都の民俗芸能』だった。
この本の編集・発行者は京都府教育委員会。
先に挙げた朔日講が所有する太鼓の胴の年代記銘の書き主である。
その後の大晦日に神社でお会いした朔日講の人たちがいう朔日講が神楽を舞う日は毎月の朔日。
例月は朔日に近い、いわゆる月初めの日曜日に移っているものの、正月や盆にも神楽を舞っているそうだ。
『京都の民俗芸能』が「朔日講の神楽」として紹介する解説文を若干要約して次のように記しておく。
「神楽は白山神社の宮座の行事で、一般に“宮さん組”と呼ばれる朔日講の組織によって、毎月一日の早朝に行われる」とある。
と、いうことは、昭和50年代は毎月の朔日(一日)日であった。
「神楽は浅黄色の装束を纏った“宮守”が鈴を採り、拝殿の正面に敷いた円座の上に立ち、上衣姿の太鼓・鼓に大小の鐃鈸(みょうはち)(※読みはにょうはちであるが、ここではみょうはちと充てている。また、鐃鈸は曹洞宗であって、真言宗や浄土宗では妙鉢の漢字を充てているようだ)ことからが加わった囃しに合わせて舞われる。舞といっても鈴を振りつつ右へ3回、左に3回、再び右に3回。円座の上で回転するだけだが、たいへん珍しい神楽である」と報告している。
また、「この神楽は4月3日、10月17日の祭りにも同様に挙げられるが、前日の16日のヨミヤでは村の家々を巡って、神楽を舞い、鈴をいただかせる風習がある」と、書いてあった。
「朔日講は宮ノ口の年長男の8人が、この任に当たる決まりで、うち年長者一人が宮守(村神主)を務める。宮守は神楽を舞い、他の7人が年齢順に太鼓、鼓、大きい鐃鈸(にょうはち)2枚。小さい鐃鈸(にょうはち)3枚の役に就く」とある。
さらに「こうして一年間の勤めを終えると、宮守は朔日講を退き、次の者が順に繰り上がり、新任一人が講員に就く。宮守が交替する日は2月1日。新宮守が講員を招いて一同を宴に計らう」とあった。
朔日講を紹介する記事はもう一つある。
平成23年1月17日に発刊された京都新聞の「いのちのほむら」シリーズにあった「白山神社の朔日講」である。
新年の正月元日に行われた朔日講の奉納神楽舞行事の記事は「元日、着物や洋服の男たちが白山神社を見上げ、トントン、トントン・・・神楽を奉納した。太鼓、鼓、妙鉢と呼ぶ小さなシンバルのような楽器などの囃しに合わせて素襖姿の最年長者の神主が、鈴と扇を手にみしろ(筵)と呼ぶ円座の上で右左に3回ずつゆっくり回った。本殿では宮司が村内安全、繁栄、五穀豊穣を願い祝詞奏上。囃子が明るい光と共に家々を包む」と伝える下りは朝日が昇るころの所作が伺える。
記事にある写真に烏帽子をかぶる朔日講の人たちの姿がある。
宮守は素襖を着用していたが、7人は羽織袴のように見える。
また烏帽子の形は一律ではなく、数名は角のない丸みのある烏帽子のようだ。
この日の朔日講に氏子参拝者の姿は見えない。
着替えを終えた講員は拝殿に座る。
元日や秋のマツリでは全員が素襖に烏帽子姿であるが、例月の場合、宮守以外の講員は烏帽子もなく普段着姿で所作をする。
まずは本殿に向かって2礼、2拍手、1礼。
右手に鈴を、左手に窄めた扇を採りもって、さっと立ち上がる。
すると同時に始まったドン、ドン、ドンドンドンの太鼓打ち。
妙鉢もそれに合わせてシャン、シャン、シャンシャンシャン。
鼓も同じ調子でトン、トン、トントントン。
単調な調子にまずは右回り。
採り物は動かさない。
足はすり足のようにして少しずつ動かして回転する。
3回廻って正面になれば、直ちに逆回転。
今度は左廻りに3回。
そして再び正面についたら直ちに逆回転の右廻りを3回。
3回廻って〆に鈴をシャラシャラ鳴らして座る。
鈴を台の上に置いて2礼、2拍手、1礼で終えた。
神楽舞は主神だけでなく朱智神社、佐勢古さんと呼んでいる佐勢古勢社に伊勢神宮遥拝地にも神楽を舞う。
神楽舞はいずれも同じ作法で右回りに左回り。
再び戻る右回り。
いずれも3回である。
主神遥拝の次も舞う場所は拝殿内。
遥拝する方角が少し西よりに移って朱智神社へ向けての神楽舞になる。
主神よりもやや斜めの方角であるが、舞う所作は同じであるから、静止画像ではわかり難い。
神楽舞に身体を右や左に回転する。
その所作の基本はすり足にあると思った。
それもドン、ドンの太鼓を打つ音にシャン、シャンの妙鉢。
足は右足だけのすり足。
その次のドンドンドンの太鼓打ちにシャンシャンシャンの妙鉢の音に合わせて左足をすり足で動かす。
その繰り返しのように思えた足の所作であった。
朱智神社の次は佐勢古勢社に向かって舞う遥拝。
正面本社殿に向かって舞っているように見えたが、宮守がいうには微妙な方向違いがあるらしい。
「させこさん」と呼んでいる佐勢古勢社はどのような神さんなのか。
初めて訪れた村の長老もわからないという神さん。
現在、勤めている8人の朔日講の人たちも存じない神さんは何者であるのかさっぱりわからないのであるが、正月十日に引退される宮守が社の周りに12本の幣を立てると聞いているが、それ以上のことは具体的に拝見していないので、実態は掴めていない。
ただ、この日に拝見した限りでは、瓦製と思われる社内に竹に挟んだ幣も見られるし、周囲に12本の幣も見られた。
拝殿での舞を終えたら場を移動する。
本社殿よりもまだ上。
小高い丘のような場に四方竹ならぬ棒を立てている。
それには縄で結った注連縄を張っている。
一見、祓えの場のように思えたが、この場は伊勢神宮を遥拝する場である。
東の方角にある伊勢神宮に向けて神楽を舞う。
7人の講員は腰を屈めた状態で楽器を奏でる。
講員の座る向きでわかる東向きである。
神楽舞の所作、鳴り物はこれまでと同様に行われる。
いずれもおよそ3分間の神楽舞であった。
この年の1月末に宮守を引き受けたYさんは朔日講年長者の村神主。
初のお披露目の神楽舞は3月の第一日曜日だった。
この月で2回目の神楽を舞った。
「いろんなことを考えたら所作が飛んでしまうから、心を引き締めて舞った」そうだ。
Yさんが朔日講にまだ新入りだったころに京都新聞の取材があった。
そのときのインタビューの受け答えは、初々しく「面白いです。みんなとやるのが楽しい」。
8年目になったこの年は村神主のお勤め。
心構えは神主役を受けたときからリーダーになっていた。
朔日講の神楽舞は月によって異なる。
例月の場合は本社殿の主神と佐勢古勢社に遥拝、奉納するが、4月だけは朱智神社と伊勢神宮遥拝所も行われる。
(H29. 4. 2 EOS40D撮影)
文化四年の干支は“丁卯”である。
ところが、『京都の民俗芸能』の干支は“甲イ”。
“甲イ”は発音からおそらく“甲戌”であろう。
“甲戌”であれば文化四年ではなく、文化十一年が正しい。
写し間違いなのか、それとも記載誤りなのか、確かめるには、宮津朔日講に継承されている太鼓の胴を確認するしかないだろう。
そう、思ってはいたが、太鼓の所在を聞くことはなかった。
確認したのは神楽に使われる胴締め鼓だけだった。
この件については、またの機会に、としておく。
時間帯は朝の7時。
それ以前の時間帯に来られた村神主一人が動いていた。
本社殿に供えていた御供はパンにコップ酒。
実は後ほどお神酒はとっくり瓶に入れて御供箱ごと供えられる。
たぶんに参拝された人が氏神さんに飲んでもらおうと思って供えたのだろう。
一人黙々と動かれる村神主は朔日講の最年長者。
宮津の朔日講は8人組。
村神主は朔日講の一老でもある。
一年ずつ繰り上がって引退する村神主。
二老だった人が一老に上って村神主を勤める。
以下、それぞれが繰り上がると同時に末端加入する再年少者。
その人が八老になる。
かつては高齢の年齢層であったが、徐々に下がって今では40歳から50歳代の若手壮年層。
このままいけば30歳代にまで下ることになるだろうと話していた。
御供はパンだけではなく、お米もある。
お米は玄米であっても構わないし洗い米でもいいそうだ。
10杯の小鉢に盛った米御供は実に多い。
これらは昭和25年2月吉日に寄進されたオカモチ型御供箱に並べる。
御供を供える神さんは本殿に末社。
京田辺市、宮津に鎮座する白山神社の末社はとにかく多い。
稲田姫社、祈雨社、佐勢古勢社などに三十番神の石碑もあれば、金毘羅塔、猿田彦塔、石の祠、山の神も。
舞殿遥拝所内には朱智神社、佐勢古勢社、三十番神、祈雨社、高龗命、天照皇太神宮、春日大神宮、八幡大神宮、神武天皇も、である。
朝7時ともなれば八人衆がやってきた。
準備が調った御供は御供箱ごと運ぶ。
お神酒は専用の御供箱ごとそのまま供える。
そして社務所で着替える。
八人衆は普段着であるが、一老でもある村神主は、紺色の素襖に着替える。
その素襖は前年の平成28年12月30日に撮らせてもらっていた。
村神主が着用する素襖に「明治廿七年(1894)十月新調 價(値)金四円二拾銭 施主氏子」の文字がある。
今から124年も前からずっと一年交替する村神主が袖を通してきた素襖である。
神楽舞用いる道具は一老以外の人たちが奏でる道具。
大正三年壱月に新調された胴締め鼓や大小5枚の妙鉢に祓いの鈴である。
鳴り物は二老以下の講中が用いるが、祓いの鈴は神楽を舞う村神主の採り物であった。
京都府京田辺市宮津の宮ノ口に鎮座する白山神社へ初めて訪れた日は平成28年12月10日だった。
訪れた目的は大晦日に行われる神社の砂撒きであった。
その行事は地区在住の方々に教えてもらって取材したことがある。
今回は砂撒きではなく、神社に掲げていた朔日講のことである。
白山神社由緒書にあった「朔日講の神楽 毎月一日(現在は毎月第一日曜日など)」と京田辺市教育委員会ならびに文化財保護委員会が伝えていた。
その日に訪ねた在所住民がこの本の頁に紹介してあると拝見した本は昭和53年3月に発刊された『京都の民俗芸能』だった。
この本の編集・発行者は京都府教育委員会。
先に挙げた朔日講が所有する太鼓の胴の年代記銘の書き主である。
その後の大晦日に神社でお会いした朔日講の人たちがいう朔日講が神楽を舞う日は毎月の朔日。
例月は朔日に近い、いわゆる月初めの日曜日に移っているものの、正月や盆にも神楽を舞っているそうだ。
『京都の民俗芸能』が「朔日講の神楽」として紹介する解説文を若干要約して次のように記しておく。
「神楽は白山神社の宮座の行事で、一般に“宮さん組”と呼ばれる朔日講の組織によって、毎月一日の早朝に行われる」とある。
と、いうことは、昭和50年代は毎月の朔日(一日)日であった。
「神楽は浅黄色の装束を纏った“宮守”が鈴を採り、拝殿の正面に敷いた円座の上に立ち、上衣姿の太鼓・鼓に大小の鐃鈸(みょうはち)(※読みはにょうはちであるが、ここではみょうはちと充てている。また、鐃鈸は曹洞宗であって、真言宗や浄土宗では妙鉢の漢字を充てているようだ)ことからが加わった囃しに合わせて舞われる。舞といっても鈴を振りつつ右へ3回、左に3回、再び右に3回。円座の上で回転するだけだが、たいへん珍しい神楽である」と報告している。
また、「この神楽は4月3日、10月17日の祭りにも同様に挙げられるが、前日の16日のヨミヤでは村の家々を巡って、神楽を舞い、鈴をいただかせる風習がある」と、書いてあった。
「朔日講は宮ノ口の年長男の8人が、この任に当たる決まりで、うち年長者一人が宮守(村神主)を務める。宮守は神楽を舞い、他の7人が年齢順に太鼓、鼓、大きい鐃鈸(にょうはち)2枚。小さい鐃鈸(にょうはち)3枚の役に就く」とある。
さらに「こうして一年間の勤めを終えると、宮守は朔日講を退き、次の者が順に繰り上がり、新任一人が講員に就く。宮守が交替する日は2月1日。新宮守が講員を招いて一同を宴に計らう」とあった。
朔日講を紹介する記事はもう一つある。
平成23年1月17日に発刊された京都新聞の「いのちのほむら」シリーズにあった「白山神社の朔日講」である。
新年の正月元日に行われた朔日講の奉納神楽舞行事の記事は「元日、着物や洋服の男たちが白山神社を見上げ、トントン、トントン・・・神楽を奉納した。太鼓、鼓、妙鉢と呼ぶ小さなシンバルのような楽器などの囃しに合わせて素襖姿の最年長者の神主が、鈴と扇を手にみしろ(筵)と呼ぶ円座の上で右左に3回ずつゆっくり回った。本殿では宮司が村内安全、繁栄、五穀豊穣を願い祝詞奏上。囃子が明るい光と共に家々を包む」と伝える下りは朝日が昇るころの所作が伺える。
記事にある写真に烏帽子をかぶる朔日講の人たちの姿がある。
宮守は素襖を着用していたが、7人は羽織袴のように見える。
また烏帽子の形は一律ではなく、数名は角のない丸みのある烏帽子のようだ。
この日の朔日講に氏子参拝者の姿は見えない。
着替えを終えた講員は拝殿に座る。
元日や秋のマツリでは全員が素襖に烏帽子姿であるが、例月の場合、宮守以外の講員は烏帽子もなく普段着姿で所作をする。
まずは本殿に向かって2礼、2拍手、1礼。
右手に鈴を、左手に窄めた扇を採りもって、さっと立ち上がる。
すると同時に始まったドン、ドン、ドンドンドンの太鼓打ち。
妙鉢もそれに合わせてシャン、シャン、シャンシャンシャン。
鼓も同じ調子でトン、トン、トントントン。
単調な調子にまずは右回り。
採り物は動かさない。
足はすり足のようにして少しずつ動かして回転する。
3回廻って正面になれば、直ちに逆回転。
今度は左廻りに3回。
そして再び正面についたら直ちに逆回転の右廻りを3回。
3回廻って〆に鈴をシャラシャラ鳴らして座る。
鈴を台の上に置いて2礼、2拍手、1礼で終えた。
神楽舞は主神だけでなく朱智神社、佐勢古さんと呼んでいる佐勢古勢社に伊勢神宮遥拝地にも神楽を舞う。
神楽舞はいずれも同じ作法で右回りに左回り。
再び戻る右回り。
いずれも3回である。
主神遥拝の次も舞う場所は拝殿内。
遥拝する方角が少し西よりに移って朱智神社へ向けての神楽舞になる。
主神よりもやや斜めの方角であるが、舞う所作は同じであるから、静止画像ではわかり難い。
神楽舞に身体を右や左に回転する。
その所作の基本はすり足にあると思った。
それもドン、ドンの太鼓を打つ音にシャン、シャンの妙鉢。
足は右足だけのすり足。
その次のドンドンドンの太鼓打ちにシャンシャンシャンの妙鉢の音に合わせて左足をすり足で動かす。
その繰り返しのように思えた足の所作であった。
朱智神社の次は佐勢古勢社に向かって舞う遥拝。
正面本社殿に向かって舞っているように見えたが、宮守がいうには微妙な方向違いがあるらしい。
「させこさん」と呼んでいる佐勢古勢社はどのような神さんなのか。
初めて訪れた村の長老もわからないという神さん。
現在、勤めている8人の朔日講の人たちも存じない神さんは何者であるのかさっぱりわからないのであるが、正月十日に引退される宮守が社の周りに12本の幣を立てると聞いているが、それ以上のことは具体的に拝見していないので、実態は掴めていない。
ただ、この日に拝見した限りでは、瓦製と思われる社内に竹に挟んだ幣も見られるし、周囲に12本の幣も見られた。
拝殿での舞を終えたら場を移動する。
本社殿よりもまだ上。
小高い丘のような場に四方竹ならぬ棒を立てている。
それには縄で結った注連縄を張っている。
一見、祓えの場のように思えたが、この場は伊勢神宮を遥拝する場である。
東の方角にある伊勢神宮に向けて神楽を舞う。
7人の講員は腰を屈めた状態で楽器を奏でる。
講員の座る向きでわかる東向きである。
神楽舞の所作、鳴り物はこれまでと同様に行われる。
いずれもおよそ3分間の神楽舞であった。
この年の1月末に宮守を引き受けたYさんは朔日講年長者の村神主。
初のお披露目の神楽舞は3月の第一日曜日だった。
この月で2回目の神楽を舞った。
「いろんなことを考えたら所作が飛んでしまうから、心を引き締めて舞った」そうだ。
Yさんが朔日講にまだ新入りだったころに京都新聞の取材があった。
そのときのインタビューの受け答えは、初々しく「面白いです。みんなとやるのが楽しい」。
8年目になったこの年は村神主のお勤め。
心構えは神主役を受けたときからリーダーになっていた。
朔日講の神楽舞は月によって異なる。
例月の場合は本社殿の主神と佐勢古勢社に遥拝、奉納するが、4月だけは朱智神社と伊勢神宮遥拝所も行われる。
(H29. 4. 2 EOS40D撮影)