昨年の平成28年11月11日に拝見した画帳である。
作者は天理市福住町に住んでおられた故永井清繁さんが書き遺した福住の民俗画である。
素晴らしい画帳を残してくださったと思う。
うち一枚はとても興味深く拝見した。
その絵は、今もなお茅葺の西念寺に参る三人のおばあさんを描いていた。
寺本堂と想定される場に花御堂がある。
甘茶をかけていることから4月8日の花祭りである。
尤も5月8日に行われている地域もあるが・・。
絵のタイトルに「おつきよか 旧暦四月八日」とあるから4月8日である。
4月は旧暦で云えば「卯月」である。
「卯月」は「うつき」。
「うつき」は訛って「おつき」。
福住ではさらに縮まり「八日」が「よか」になった。
つまりは4月8日に行われている「旧暦卯月八日の花祭り」の情景である。
赤い色の花を竹竿に縛って高く揚げる。
2本の竹竿は珍しい形態だが、高く揚げるモノは「天道花」。
一般的には「てんどうばな」と呼ばれる地域が多いが、訛って「てんとばな」と呼ぶ地域も多い。
多いが今ではすっかり消えてしまった風習である。
画を書かれたのは福住に生まれ育った故永井清繁さん(明治38~平成11年:1905〜99)。
明治・大正期の地元風俗などを描いていた。
福住の生活文化を後世に残そうと、古希を迎えてから描き始めたという全5冊のスケッチブックには134点の絵が残された。
画帳に残された福住の伝統的な文化を再現したい。
そう思って立ちあげた福住S・ジョブズ・スクール。
後継者になるかどうかわからないが、将来を継ぐ子供たちに体験させてあげたいと動き出した。
舞台は花祭りをしていた融通念仏宗蓮台山来迎院西念寺である。
その様子をブログで紹介されていた。
そのブログの案内によれば4月23日(日曜日)が開講式。
開会挨拶から始まって、朝小新聞里山支局こども記者の任命、キュウリ苗の定植、里山の花を探しに散歩西念寺に移動、天道花を作りお月さまに供える、桜の下で昼食、西念寺お花まつり・甘茶かけに参加、とある。
ここで気になったのが、この「プログラム」である。
「天道花を作りお月さまに供える」とはどういうことなのか。
「天道花」とは「天」の字のごとくであって「月」そのものではない。
三省堂大辞林・デジタル大辞泉を要約すれば「4月8日の灌仏会(仏生会)に長い竹の竿の先につけて庭先に立てるウツギ・ベニツツジ・シャクナゲ・(フジ)などの束。近畿・中国・四国地方で行い、花の種類は地方によって異なる。たかばな(高花)。八日花。」とある。
読みは「てんとうばな」、或は訛って「てんたうばな」や「てんどうばな」と濁る場合もある。
花祭りは4月8日であるが、地域若しくは村、寺事情よってさまざま。
4月の場合もあれば5月にもある。
旧暦を新暦にしている場合もあれば、ひと月遅れと称して行われている地方もある。
それに沿っているのかどうかわからないが、天道花を揚げるのも4月、或は5月であるが、どちらであっても「八日」である。
福住でこの年に行われる西念寺を中心とする花祭りはこの年の4月23日の日曜日。
訪れたお寺さんや花まつり実行委員会の代表に聞けば村のイベント。
八日という観念に縛られることなく有名になってきた枝垂れ桜が満開になる時期を鑑みて実行日を決めたそうだ。
尤も、この日に訪れる日が平日であれば子どもたちの参加は難しい。
親御さんの関係も考慮されて日曜日の実施になったそうだ。
西念寺の枝垂れ桜が咲く時期は例年であればだいたいが4月13日。
写真は撮らなくとも何度も様子伺いに来ているので、ほぼ間違いないが、この年は3末になっても気温は低い。
4月になっても気温は上昇せずに至っている。
そうした気候状況もあって県内の桜時期は一週間から十日間もズレがある。
逆に丁度いい具合に咲いてくれた枝垂れ桜の下で集う人たちがお弁当を食べる。
良いイベント日和になったわけだ。
開講式が始まる前に伺いたい花まつり実行委員会。
その会に、ずいぶん昔から存じているOさんがおられた。
昨年に訪れた画帳展示の公民館にもお会いした。
半年ぶりである。
こちらに寄せてもらったのはこの日の天道花である。
プログラムに「天道花を作りお月さまに供える」とある。

故永井清繁さんが描かれた「おつきよか 旧暦四月八日」に以下のキャプションがある。
「各家の前へ つ丶じの花を 竹にゆわいて 月にそなえる」だ。
プログラムの元になったキャプションにある「月にそなえる」はあり得ない。
“天道花”は作物の豊かな稔りを願う農耕の民俗儀礼。
柳田民俗学によれば天に掲げて山の神さんを迎える依り代である。
そして、降りてきた山の神は田の神さんになるとうの考え方があるようだが、田原本町などの平坦でも天道花風習があったという事実から考えれば整合がとれない。
尤も奈良県内事例ではここ福住地域や奈良市の別所町、旧都祁村、山添村、吉野町、川上村などの山間部で行われていた。
その他、市町村史などの史料に残されたおつきよかはさまざま。
県外では滋賀県や兵庫県に大阪(能勢町は5月8日)。
京都でもあったという。
遠くは福井県の小浜にあるとも聞いたことがある。
川上村ではつい数年前に復活された家もある。
その家ではなく、私が聞き取りした情報では天道花を揚げた翌日には下ろしてコイノボリを揚げたという話もある。
数は少ないが県内の行事例に「天道御供」」がある。
夜中に籠って朝を迎える。
太陽が上がってくる直前にお供えをする神事がある。
それが「天道御供」。
呼び名は「てんどうごく」である。
朝の4時ころ、村内の人に聞こえるように空き缶を単車で引っ張ってカラン、コロンの音を立てる。
朝日が昇るから神事を始めるという合図である。
つまり「天道」とは「おてんとうさま」である。
私は大阪生まれ。お日さんのことは子どものころどころか、今でも「おてんとさん」と呼んでいる。
「悪いことをすればおてんとさんに筒抜け・・」とか、「おてんとうさんが見ている・・」の詞はいつも心の中にある。
「天道花」の元意は「纏頭花」とする論がある。
「纏頭花」は「てんとうばな」であるが、読みは濁らない。
つまりは画帳にある「月にそなえる」のではなく、天に花を奉げて竿を立てるということに他ならない。
そう、思うのである。
そういう思いをOさんに伝えたら、私もそう思っているという。
風習を後継者に伝える活動は素晴らしいが、誤った知識を伝えていけば、福住の後世に問題が生じる。
そのようなことを話された。
Oさんが子どものころの記憶によれば、竿を降ろしてから屋根に放ることがあったそうだ。
放るという行為は家人に行方知らずの人がいる場合である。
どこかに行ってしまって家に戻ってこなくなって、居やんようになった場合だ。
帰って欲しいと願うときにそれを燃やして屋根に放っておく。
そうすれば戻ってくると信じられていた。
まじないのようだと思うと話される。
そう話すO家の花は赤い色はツツジ。
白い花はウツギだった。
十字に結んで花を飾った。
そして、画帳と同じように竹編みの籠を吊るしていたという。
お寺さんといえば西念寺のご住職である。
後ろ姿でわかった住職にお声をかけたら振り向いた。
在住する大和郡山市横田町西興寺の住職であったのだ。
まさか、ここでお会いするとは思っても見ない出会い。
なぜにここに、と尋ねたら、ここ福住も兼務することになったという。
西念寺は親父さんが若いころに修業したお寺。
縁があったからここ福住でお世話になることになったと話す。
縁というものは当地にも繋がっていた。

この日の行事に本堂階段前に設えたお釈迦さまがある。
アマチャをかけて参拝する子どもたち。
元気いっぱい走り回る子どももいる。
この日にたまたま出会った二人の女性も参拝していた。
一人は存じている写真家のNさん。
知人の東大寺僧と同行されてこの地にやってきた。
まさか枝垂れ桜が満開のここで出会うとは思っても見なかった。

振る舞い甘茶もよばれるひと時の場に落ち着く。
それまではピーカン照りの青空の下に咲く桜を撮っていた。
平成26年4月20日はほぼ満開だったが、訪れたときの茅葺本堂は、丁度葺き替えの工事中だった。
カヤサシ作業に使用する梯子を本堂に架けていたから、工事中だったとわかった。
雨の日に訪れたときの西念寺の遅咲き枝垂れ桜。
だいたいが、4月半ば過ぎと聞いていて、ときおり訪れるも曇天や雨天が常であった。
そのときとはうって変わって白い雲がまったくないすこぶる快晴の日。
釈迦さん生誕は4月8日であるが、ハレの日が地区の事情で遅咲き桜に合わせて正解だったと思う。

満開の桜を前景に茅葺本堂をとらえる向きが難しい。
が、なんとかとらえてみたものの若葉が膨らんでいたことに気づく。
午前10時半の時間帯に全開になったお日さんの照りに浮かぶ若葉が美しい。

一方、正門から若干見上げ気味にとらえた本堂の茅葺屋根。
正門屋根瓦を際いっぱいに入れて撮っておいた。
その下、である僧侶が何やら細い棒のようなものをもって振っていた。
早々と作法を始められたのか、と思って聞けば、本堂前に植わる樹木に張っている蜘蛛の巣を除けていたというのだ。
午後には招かれた雅楽演奏家を拝見する人たちでごったがえす。
衣服が蜘蛛の巣にあたって汚れないようにしているだけだという。
心優しい新住職の気配りであった。
その樹の下に苔むした手水鉢がある。

柄杓を置いていた手水鉢に落下した桜がぷかり。
見ての通り、枝垂れ桜は八重桜である。

もう一つの水鉢にも落下した八重桜がぷかり。
これもまた美しいと思ってシャッターを切る。
もう一枚は一本の光が差し込む桜道。
桜の花ではなく、桃色ツツジに黄色のレンギョであろう。
撮った写真。

周囲がもっと暗部であればほんまの光の道。
あーこれこそ、天に導く道・・・天道花・・・なんて想像を巡らせていた。
これら花材は、もうすぐやってくるお花集めの子どもたちが天道花づくりに飾るのだろうか。
その花は使われたのか、それとも予備のままであったのか聞きそびれた。
本堂庫裏はお迎えの客人たちにもてなす広間になる。
その場に配られる福もちがある。
福住の女性何人かが公民館で作っていた福もちは手造り。

緑色はヨゴミモチ(ヨモギモチが訛った)で淡いピンク色は色粉で色付けした桜餅。
作った個数は200~230にもなると話していたから相当な客人を迎えたのであろう。
さて、呼びかけに応じた子どもたちはどこにいるのだろうか。
尋ねてみれば福住小学校に居るらしい。
どうやらそこで開講式を調えるようだ。
NPO法人日本無形文化継承機構/福住S・ジョブズ・スクールのブログによれば、開講式プログラムが公開されていた。
開会挨拶に参加者の紹介。
朝小新聞里山支局子ども記者の任命にキュウリ苗の定植、里山の花探しを経て天道花つくり。“お月さまに供える”とある。
前述したように、この件に関しては疑問がある。
先にも述べたように天道花にはお月さんはまったく関係がない。
もう一度書くが、画帳そのものに書いてあったキャプションに誤りがあるのだ。
「お月」でなくて「卯月」が訛って「オツキ」になった民俗語彙を存じていなかったということである。
“お月”の表記でなく“おつき”であれば、何ら問題のない画である。
代表にご挨拶と思って車を走らせた小学校。
校庭前におられた男性から声がかかった。
私は覚えていなかったが、どうやら別所の申祭りのときにお会いした別所下ノ坊在住のNさんである。
Nさんはつい最近に逆取材を受けた産経新聞奈良版に載ってしまった「青春18きっぷ紀行ポスター展」記事を見ていたという。
これはウエブ記事であるが、新聞誌上では、私が展示ポスターを見ている姿が写っている。
紹介されたネット記事はいずれ消滅する可能性があると判断できるので、ここに掲載することにした。

また、Nさんは著書である『奈良大和路の年中行事』も見ていると話してくれた。ありがたいことである。
そのころ、単車でやって来た男性がいる。
NさんがNPOの代表と伝えてくれた男性。
この日のイベントに忙しく駆けずり回る代表とは会話もできずじまいだったが、名刺交換だけはさせてもらった。
こうして戻ってきたメイン会場の西念寺。
つい1時間前よりもお客さんは増えていた。
会場は人で溢れていた。
しばらく待っていたら、伐ってきたツツジ花をもつ子供を先頭にやってきた。

早速、始まるツツジ花とレンギョの十字括り。
供えたら三本足のカエルが飛び込むやもしれないと云われているシングリの名で呼ばれる竹製の籠も結わえる。
シングリの籠はサシナエ作業などに用いられる農具。
山添村切幡で拝見したことがある。
切幡でもシングリと呼んでいる苗籠であるが、福住のそれはもっと大きいように思える。

お寺さんの許可を得て阿弥陀堂前に揚げる。
大人の力も借りて高く揚げた「おつきよかの天道花」が青空に映える。

長さはほぼ7m。
高く、高く揚げた天道花を見上げる子どもたち。
背高のっぽをしてもまだまだ届かない。

高く揚げた天道花の枝ぶりが良くて、まるで天女が舞っているようにも見える。
なん十年ぶりかに見る天道花。
茅葺屋根の西念寺本堂も喜んでいることだろう。

この日のイベント行事を夕がたに報じていた大阪NHKのニュース番組。
映像とともに解説されたアナウンスは「天理市でかつて伝わっていた竹の先に花を飾って、庭先に高く掲げ、豊作を祈る風習。“天道花(てんどうばな)”を再現する催しが行われました。この催しは地元のNPOの呼びかけで行われ、参加した子供など50人は、山でツツジの花を集めました。続いて長さ6mほどの竹の先端に花や竹の籠を紐で結わえて飾りつけました。できあがった“天道花”をゆっくり起こすと、薄紅色のツツジの花が青空に高く掲げられました」
続けて、「“天道花”は庭先に立てて豊作を祈ったと伝えられ、天理市の福住地区では、昭和の初めころまで行われていたということです」に続けて体験した子ども数人にインタビュー。「楽しかったです。持ち上げて立てるのが難しかった」と感想を述べる子どもたち。
続いて、天道花づくりを企画したNPO代表の前嶋文典さんが「子どもたち10年、20年先に自分たちで伝えてくれるようになったらいいなぁと思います」とインタビューに答えていた。
翌日の夕方放映の奈良NHK制作の情報番組「ならナビ」でも報道された。
アナウンサーが語るアナウンスは、「こちらをご覧ください。お釈迦さまの誕生を祝って、旧暦の4月8日に行われる“花まつり”の様子を描いた絵です。このうち、端に描かれているのは、“天道花(てんどうばな)”と呼ばれるものです」。その絵に対して、応えるアナウンサーは「子どもたちが見上げています㋧」と指で示した。
「この長い竹の先にあるのがツツジの花です。これを庭に立て、豊作を祈る風習です。かつては、各地で広く行われてきたこの“天道花”を天理市の子どもたちが復活させました」と紹介する。
「集まったおよそ20人の子どもたち。天理市のNPOの呼びかけで、昨日、“天道花”つくりが行われました。お目当ては“天道花”に使われるツツジの花。なるべく、花がたくさん咲いている枝を選びます。ツツジを採り終わると、次はいよいよ“天道花”づくりです。大人たちに教わりながらツツジを竹に結び付けます。緩んでしまわないよう、幾重にも紐を巻き付けます。こうして数十年ぶりに復活した“天道花”。お寺の屋根よりも高く、立てられました」と紹介する。
続けてインタビューした村の女性たちは「うれしいです。懐かしいですね。いいもの見せていただきました」と笑顔で応えていた。
NPO代表の前嶋文典さんは「優雅な風習やなと思います。これだけでなく地域の行事をもう一度、子どもらと一緒に体験していきながら、10年、20年先に自分たちで伝えてくれるようになったらいいなぁと思います」と答えていた。
アナウンサーは最期に「企画したNPOは来年以降も、毎年子どもと一緒に“天道花”を続けていきたいとしています」と締めくった。
ここではたと気がついた。
代表が述べ詞はわかるが、延々と続けていかなければならない落とし穴がある。
本日、参加した福住校区の子どもたちは翌年も、またその翌年も来てくれるのだろうか。
集まった子どもたちはそのとき限り。
翌年の呼びかけに、続けて応じてくれるのだろうか。
代表の意気込み、思いは伝わるが、それが現実的でないということだ。
イベントは継続されても、参加する子どもたちが一定でなければ、学習効果は期待できない。
参加する子どもたち自身に継続性がなければ、いつまでもイベントをし続けなければならない。
何年経っても代表の意思を継ぐ子どもたちが現われなければ、何年もし続けることになる。
10年経っても、20年経っても同じことの繰り返しにならないよう願っている。
(H29. 4.23 EOS40D撮影)
作者は天理市福住町に住んでおられた故永井清繁さんが書き遺した福住の民俗画である。
素晴らしい画帳を残してくださったと思う。
うち一枚はとても興味深く拝見した。
その絵は、今もなお茅葺の西念寺に参る三人のおばあさんを描いていた。
寺本堂と想定される場に花御堂がある。
甘茶をかけていることから4月8日の花祭りである。
尤も5月8日に行われている地域もあるが・・。
絵のタイトルに「おつきよか 旧暦四月八日」とあるから4月8日である。
4月は旧暦で云えば「卯月」である。
「卯月」は「うつき」。
「うつき」は訛って「おつき」。
福住ではさらに縮まり「八日」が「よか」になった。
つまりは4月8日に行われている「旧暦卯月八日の花祭り」の情景である。
赤い色の花を竹竿に縛って高く揚げる。
2本の竹竿は珍しい形態だが、高く揚げるモノは「天道花」。
一般的には「てんどうばな」と呼ばれる地域が多いが、訛って「てんとばな」と呼ぶ地域も多い。
多いが今ではすっかり消えてしまった風習である。
画を書かれたのは福住に生まれ育った故永井清繁さん(明治38~平成11年:1905〜99)。
明治・大正期の地元風俗などを描いていた。
福住の生活文化を後世に残そうと、古希を迎えてから描き始めたという全5冊のスケッチブックには134点の絵が残された。
画帳に残された福住の伝統的な文化を再現したい。
そう思って立ちあげた福住S・ジョブズ・スクール。
後継者になるかどうかわからないが、将来を継ぐ子供たちに体験させてあげたいと動き出した。
舞台は花祭りをしていた融通念仏宗蓮台山来迎院西念寺である。
その様子をブログで紹介されていた。
そのブログの案内によれば4月23日(日曜日)が開講式。
開会挨拶から始まって、朝小新聞里山支局こども記者の任命、キュウリ苗の定植、里山の花を探しに散歩西念寺に移動、天道花を作りお月さまに供える、桜の下で昼食、西念寺お花まつり・甘茶かけに参加、とある。
ここで気になったのが、この「プログラム」である。
「天道花を作りお月さまに供える」とはどういうことなのか。
「天道花」とは「天」の字のごとくであって「月」そのものではない。
三省堂大辞林・デジタル大辞泉を要約すれば「4月8日の灌仏会(仏生会)に長い竹の竿の先につけて庭先に立てるウツギ・ベニツツジ・シャクナゲ・(フジ)などの束。近畿・中国・四国地方で行い、花の種類は地方によって異なる。たかばな(高花)。八日花。」とある。
読みは「てんとうばな」、或は訛って「てんたうばな」や「てんどうばな」と濁る場合もある。
花祭りは4月8日であるが、地域若しくは村、寺事情よってさまざま。
4月の場合もあれば5月にもある。
旧暦を新暦にしている場合もあれば、ひと月遅れと称して行われている地方もある。
それに沿っているのかどうかわからないが、天道花を揚げるのも4月、或は5月であるが、どちらであっても「八日」である。
福住でこの年に行われる西念寺を中心とする花祭りはこの年の4月23日の日曜日。
訪れたお寺さんや花まつり実行委員会の代表に聞けば村のイベント。
八日という観念に縛られることなく有名になってきた枝垂れ桜が満開になる時期を鑑みて実行日を決めたそうだ。
尤も、この日に訪れる日が平日であれば子どもたちの参加は難しい。
親御さんの関係も考慮されて日曜日の実施になったそうだ。
西念寺の枝垂れ桜が咲く時期は例年であればだいたいが4月13日。
写真は撮らなくとも何度も様子伺いに来ているので、ほぼ間違いないが、この年は3末になっても気温は低い。
4月になっても気温は上昇せずに至っている。
そうした気候状況もあって県内の桜時期は一週間から十日間もズレがある。
逆に丁度いい具合に咲いてくれた枝垂れ桜の下で集う人たちがお弁当を食べる。
良いイベント日和になったわけだ。
開講式が始まる前に伺いたい花まつり実行委員会。
その会に、ずいぶん昔から存じているOさんがおられた。
昨年に訪れた画帳展示の公民館にもお会いした。
半年ぶりである。
こちらに寄せてもらったのはこの日の天道花である。
プログラムに「天道花を作りお月さまに供える」とある。

故永井清繁さんが描かれた「おつきよか 旧暦四月八日」に以下のキャプションがある。
「各家の前へ つ丶じの花を 竹にゆわいて 月にそなえる」だ。
プログラムの元になったキャプションにある「月にそなえる」はあり得ない。
“天道花”は作物の豊かな稔りを願う農耕の民俗儀礼。
柳田民俗学によれば天に掲げて山の神さんを迎える依り代である。
そして、降りてきた山の神は田の神さんになるとうの考え方があるようだが、田原本町などの平坦でも天道花風習があったという事実から考えれば整合がとれない。
尤も奈良県内事例ではここ福住地域や奈良市の別所町、旧都祁村、山添村、吉野町、川上村などの山間部で行われていた。
その他、市町村史などの史料に残されたおつきよかはさまざま。
県外では滋賀県や兵庫県に大阪(能勢町は5月8日)。
京都でもあったという。
遠くは福井県の小浜にあるとも聞いたことがある。
川上村ではつい数年前に復活された家もある。
その家ではなく、私が聞き取りした情報では天道花を揚げた翌日には下ろしてコイノボリを揚げたという話もある。
数は少ないが県内の行事例に「天道御供」」がある。
夜中に籠って朝を迎える。
太陽が上がってくる直前にお供えをする神事がある。
それが「天道御供」。
呼び名は「てんどうごく」である。
朝の4時ころ、村内の人に聞こえるように空き缶を単車で引っ張ってカラン、コロンの音を立てる。
朝日が昇るから神事を始めるという合図である。
つまり「天道」とは「おてんとうさま」である。
私は大阪生まれ。お日さんのことは子どものころどころか、今でも「おてんとさん」と呼んでいる。
「悪いことをすればおてんとさんに筒抜け・・」とか、「おてんとうさんが見ている・・」の詞はいつも心の中にある。
「天道花」の元意は「纏頭花」とする論がある。
「纏頭花」は「てんとうばな」であるが、読みは濁らない。
つまりは画帳にある「月にそなえる」のではなく、天に花を奉げて竿を立てるということに他ならない。
そう、思うのである。
そういう思いをOさんに伝えたら、私もそう思っているという。
風習を後継者に伝える活動は素晴らしいが、誤った知識を伝えていけば、福住の後世に問題が生じる。
そのようなことを話された。
Oさんが子どものころの記憶によれば、竿を降ろしてから屋根に放ることがあったそうだ。
放るという行為は家人に行方知らずの人がいる場合である。
どこかに行ってしまって家に戻ってこなくなって、居やんようになった場合だ。
帰って欲しいと願うときにそれを燃やして屋根に放っておく。
そうすれば戻ってくると信じられていた。
まじないのようだと思うと話される。
そう話すO家の花は赤い色はツツジ。
白い花はウツギだった。
十字に結んで花を飾った。
そして、画帳と同じように竹編みの籠を吊るしていたという。
お寺さんといえば西念寺のご住職である。
後ろ姿でわかった住職にお声をかけたら振り向いた。
在住する大和郡山市横田町西興寺の住職であったのだ。
まさか、ここでお会いするとは思っても見ない出会い。
なぜにここに、と尋ねたら、ここ福住も兼務することになったという。
西念寺は親父さんが若いころに修業したお寺。
縁があったからここ福住でお世話になることになったと話す。
縁というものは当地にも繋がっていた。

この日の行事に本堂階段前に設えたお釈迦さまがある。
アマチャをかけて参拝する子どもたち。
元気いっぱい走り回る子どももいる。
この日にたまたま出会った二人の女性も参拝していた。
一人は存じている写真家のNさん。
知人の東大寺僧と同行されてこの地にやってきた。
まさか枝垂れ桜が満開のここで出会うとは思っても見なかった。

振る舞い甘茶もよばれるひと時の場に落ち着く。
それまではピーカン照りの青空の下に咲く桜を撮っていた。
平成26年4月20日はほぼ満開だったが、訪れたときの茅葺本堂は、丁度葺き替えの工事中だった。
カヤサシ作業に使用する梯子を本堂に架けていたから、工事中だったとわかった。
雨の日に訪れたときの西念寺の遅咲き枝垂れ桜。
だいたいが、4月半ば過ぎと聞いていて、ときおり訪れるも曇天や雨天が常であった。
そのときとはうって変わって白い雲がまったくないすこぶる快晴の日。
釈迦さん生誕は4月8日であるが、ハレの日が地区の事情で遅咲き桜に合わせて正解だったと思う。

満開の桜を前景に茅葺本堂をとらえる向きが難しい。
が、なんとかとらえてみたものの若葉が膨らんでいたことに気づく。
午前10時半の時間帯に全開になったお日さんの照りに浮かぶ若葉が美しい。

一方、正門から若干見上げ気味にとらえた本堂の茅葺屋根。
正門屋根瓦を際いっぱいに入れて撮っておいた。
その下、である僧侶が何やら細い棒のようなものをもって振っていた。
早々と作法を始められたのか、と思って聞けば、本堂前に植わる樹木に張っている蜘蛛の巣を除けていたというのだ。
午後には招かれた雅楽演奏家を拝見する人たちでごったがえす。
衣服が蜘蛛の巣にあたって汚れないようにしているだけだという。
心優しい新住職の気配りであった。
その樹の下に苔むした手水鉢がある。

柄杓を置いていた手水鉢に落下した桜がぷかり。
見ての通り、枝垂れ桜は八重桜である。

もう一つの水鉢にも落下した八重桜がぷかり。
これもまた美しいと思ってシャッターを切る。
もう一枚は一本の光が差し込む桜道。
桜の花ではなく、桃色ツツジに黄色のレンギョであろう。
撮った写真。

周囲がもっと暗部であればほんまの光の道。
あーこれこそ、天に導く道・・・天道花・・・なんて想像を巡らせていた。
これら花材は、もうすぐやってくるお花集めの子どもたちが天道花づくりに飾るのだろうか。
その花は使われたのか、それとも予備のままであったのか聞きそびれた。
本堂庫裏はお迎えの客人たちにもてなす広間になる。
その場に配られる福もちがある。
福住の女性何人かが公民館で作っていた福もちは手造り。

緑色はヨゴミモチ(ヨモギモチが訛った)で淡いピンク色は色粉で色付けした桜餅。
作った個数は200~230にもなると話していたから相当な客人を迎えたのであろう。
さて、呼びかけに応じた子どもたちはどこにいるのだろうか。
尋ねてみれば福住小学校に居るらしい。
どうやらそこで開講式を調えるようだ。
NPO法人日本無形文化継承機構/福住S・ジョブズ・スクールのブログによれば、開講式プログラムが公開されていた。
開会挨拶に参加者の紹介。
朝小新聞里山支局子ども記者の任命にキュウリ苗の定植、里山の花探しを経て天道花つくり。“お月さまに供える”とある。
前述したように、この件に関しては疑問がある。
先にも述べたように天道花にはお月さんはまったく関係がない。
もう一度書くが、画帳そのものに書いてあったキャプションに誤りがあるのだ。
「お月」でなくて「卯月」が訛って「オツキ」になった民俗語彙を存じていなかったということである。
“お月”の表記でなく“おつき”であれば、何ら問題のない画である。
代表にご挨拶と思って車を走らせた小学校。
校庭前におられた男性から声がかかった。
私は覚えていなかったが、どうやら別所の申祭りのときにお会いした別所下ノ坊在住のNさんである。
Nさんはつい最近に逆取材を受けた産経新聞奈良版に載ってしまった「青春18きっぷ紀行ポスター展」記事を見ていたという。
これはウエブ記事であるが、新聞誌上では、私が展示ポスターを見ている姿が写っている。
紹介されたネット記事はいずれ消滅する可能性があると判断できるので、ここに掲載することにした。

また、Nさんは著書である『奈良大和路の年中行事』も見ていると話してくれた。ありがたいことである。
そのころ、単車でやって来た男性がいる。
NさんがNPOの代表と伝えてくれた男性。
この日のイベントに忙しく駆けずり回る代表とは会話もできずじまいだったが、名刺交換だけはさせてもらった。
こうして戻ってきたメイン会場の西念寺。
つい1時間前よりもお客さんは増えていた。
会場は人で溢れていた。
しばらく待っていたら、伐ってきたツツジ花をもつ子供を先頭にやってきた。

早速、始まるツツジ花とレンギョの十字括り。
供えたら三本足のカエルが飛び込むやもしれないと云われているシングリの名で呼ばれる竹製の籠も結わえる。
シングリの籠はサシナエ作業などに用いられる農具。
山添村切幡で拝見したことがある。
切幡でもシングリと呼んでいる苗籠であるが、福住のそれはもっと大きいように思える。

お寺さんの許可を得て阿弥陀堂前に揚げる。
大人の力も借りて高く揚げた「おつきよかの天道花」が青空に映える。

長さはほぼ7m。
高く、高く揚げた天道花を見上げる子どもたち。
背高のっぽをしてもまだまだ届かない。

高く揚げた天道花の枝ぶりが良くて、まるで天女が舞っているようにも見える。
なん十年ぶりかに見る天道花。
茅葺屋根の西念寺本堂も喜んでいることだろう。

この日のイベント行事を夕がたに報じていた大阪NHKのニュース番組。
映像とともに解説されたアナウンスは「天理市でかつて伝わっていた竹の先に花を飾って、庭先に高く掲げ、豊作を祈る風習。“天道花(てんどうばな)”を再現する催しが行われました。この催しは地元のNPOの呼びかけで行われ、参加した子供など50人は、山でツツジの花を集めました。続いて長さ6mほどの竹の先端に花や竹の籠を紐で結わえて飾りつけました。できあがった“天道花”をゆっくり起こすと、薄紅色のツツジの花が青空に高く掲げられました」
続けて、「“天道花”は庭先に立てて豊作を祈ったと伝えられ、天理市の福住地区では、昭和の初めころまで行われていたということです」に続けて体験した子ども数人にインタビュー。「楽しかったです。持ち上げて立てるのが難しかった」と感想を述べる子どもたち。
続いて、天道花づくりを企画したNPO代表の前嶋文典さんが「子どもたち10年、20年先に自分たちで伝えてくれるようになったらいいなぁと思います」とインタビューに答えていた。
翌日の夕方放映の奈良NHK制作の情報番組「ならナビ」でも報道された。
アナウンサーが語るアナウンスは、「こちらをご覧ください。お釈迦さまの誕生を祝って、旧暦の4月8日に行われる“花まつり”の様子を描いた絵です。このうち、端に描かれているのは、“天道花(てんどうばな)”と呼ばれるものです」。その絵に対して、応えるアナウンサーは「子どもたちが見上げています㋧」と指で示した。
「この長い竹の先にあるのがツツジの花です。これを庭に立て、豊作を祈る風習です。かつては、各地で広く行われてきたこの“天道花”を天理市の子どもたちが復活させました」と紹介する。
「集まったおよそ20人の子どもたち。天理市のNPOの呼びかけで、昨日、“天道花”つくりが行われました。お目当ては“天道花”に使われるツツジの花。なるべく、花がたくさん咲いている枝を選びます。ツツジを採り終わると、次はいよいよ“天道花”づくりです。大人たちに教わりながらツツジを竹に結び付けます。緩んでしまわないよう、幾重にも紐を巻き付けます。こうして数十年ぶりに復活した“天道花”。お寺の屋根よりも高く、立てられました」と紹介する。
続けてインタビューした村の女性たちは「うれしいです。懐かしいですね。いいもの見せていただきました」と笑顔で応えていた。
NPO代表の前嶋文典さんは「優雅な風習やなと思います。これだけでなく地域の行事をもう一度、子どもらと一緒に体験していきながら、10年、20年先に自分たちで伝えてくれるようになったらいいなぁと思います」と答えていた。
アナウンサーは最期に「企画したNPOは来年以降も、毎年子どもと一緒に“天道花”を続けていきたいとしています」と締めくった。
ここではたと気がついた。
代表が述べ詞はわかるが、延々と続けていかなければならない落とし穴がある。
本日、参加した福住校区の子どもたちは翌年も、またその翌年も来てくれるのだろうか。
集まった子どもたちはそのとき限り。
翌年の呼びかけに、続けて応じてくれるのだろうか。
代表の意気込み、思いは伝わるが、それが現実的でないということだ。
イベントは継続されても、参加する子どもたちが一定でなければ、学習効果は期待できない。
参加する子どもたち自身に継続性がなければ、いつまでもイベントをし続けなければならない。
何年経っても代表の意思を継ぐ子どもたちが現われなければ、何年もし続けることになる。
10年経っても、20年経っても同じことの繰り返しにならないよう願っている。
(H29. 4.23 EOS40D撮影)