平成23年に取材して以来、6年も経った。
その後の状況はどうされているのか。
前回取材時と同じように姉妹3人が集落を巡ってお菓子貰いをしているのだろうか。
かつては焼き米貰いに巡っていたからそれを「ヤッコメ」と呼んでいた山添村の大字北野・津越のヤッコメ行事に再訪する。
ヤッコメとは焼き米もらいのことだ。
今ではその姿さえ見ることのない焼き米。
郷土料理でもなんでもない昔からあった米の保存食。
籾のついたままの新米を煎って、爆ぜた殻を取り除いたもの。
平成22年5月8日に取材した桜井市小夫でのときだ。
植え初めに話してくれたヤッコメ(焼き米)。
水口の両脇に2本の松苗を挿して、ヤッコメ(キリコやアラレの場合もある)を田に撒いた。
そのときに囃した詞章に「ヤッコメくれんなら どんがめはめるぞ」だった。
美味しいヤッコメをくれなかったら、どんがめと称していた石を田んぼに投げるぞ、という囃子詞である。
ここ山添村の大字北野・津越に小夫ととてもよく似た詞章があった。
「ヤッコメ(焼き米)くらんせ ヤドガメはなそ(放そう)」という囃子詞である。
今ではこの詞を聞くことはないが、平成5年に発刊された『やまぞえ双書1 年中行事』に記されている。
ヤッコメならぬイリゴメの名称であったが、意味はまったく同じ囃子詞を知ったのは平成29年3月15日に訪れた天理市和爾町・和爾坐赤坂比古神社行事の御田祭植祭に参列していた一人の長老であった。
昭和10年生まれのUさんが話してくれた過去の体験はおよそ70年前の戦後間もないころだった。
「イリゴメ(※煎り米はつまり焼き米)喰わさなきゃ 亀を這わすぞ」の囃子詞の様相は津越や小夫とほぼ同じである。
植え初めした稲は亀が這うことによって倒され、潰してしまう。
つまりはイリゴメを食べたい子供は亀を植えたばかりの田んぼに放して悪さをしてしまうぞ、ということだ。
田主にとっては亀を放されては困るから、イリゴをあげるから放さないでと嘆願する、ということだ。
ほぼ一年後の平成30年4月10日に訪れた際に話してくださったカメのことである。
こちら津越ではドンガメといえば、昆虫のカメムシだった。
ところ変われば、名も替わるという事例である。
奈良県内におけるヤッコメ行事は極めて珍しい。
おそらくここ山添村の大字北野・津越だけではないかと思う。
その珍しさというか、貴重な行事を拝見したいと願った写真家Kさんの希望を叶えるために予め取材許可をもらっていたご家族。
お盆の風習行事であるサシサバのイタダキや先祖さん迎え火も撮らせてもらったことのあるお家。
なにかにつけてお世話になってばかりいて恐縮する。
ヤッコメならぬお菓子貰いにでかける民家は10軒。
前回より1軒少なくなったが、津越は度々の村行事も取材しているから顔なじみの家もある。
1軒は我が家の長男が勉学していた大学の友達の家。
親父さんのKさんも存じているから話題と云えば東京から奈良に帰省する道中の出来事である。
それは夕方に発生した。
津越の友達と一緒に東京を出た長男の愛車が走っていた東名高速道路で負った追突事故である。
渋滞に巻き込まれた道路に停車した。
そこへブレーキもかけずに眠り運転で走行してきたトラックに追突されてしまった。
バックミラーでトラックの動きを見ていた長男は危険を察知して二人とも横になった。
そのおかげもあってむち打ち症にはならず。
とっさの判断が功を奏した。
長男の車は軽自動車。
後の窓ガラスは割れて、ボコボコ。
命は助かったし、車もそこそこの損傷で済んだのが幸いだった。
私も親父さんも冷や冷やであったが、身体が無事やっただけにほっとしたことを覚えている。
親父さんは「息子が同乗したから事故したんや、すまんかった」と云われるが、予期しない出来事に巻き込まれただけ。
むしろ、二人とも無事だったのが嬉しいのです、と伝えた。
そんな話題は二人だけに通じる話し。
長話はさておいて、お菓子をもらった子どもたちは母親と共に先に向かって去っていた。
急な坂道を駆けあがっていく子どもたち。
着いた家はいつも薪割りをした割り木を揃えている。
今年も待っていたという婦人は笑顔で渡すお菓子袋。
姉妹二人分はそれぞれが受け取る。
平成22年に訪れたとき。
6年前の下の女児は母親が押すベビーカーに乗っていた幼子だった。
上の子は保育園児。
ともに成長して小学一年生、小学四年生になっていた。
都合で、中学一年生になった上の子は都合によって今年は参加できなかった。
大きくなった姿を毎年見ている村の大人たちは目を細める。
もう一軒は元裁判官のAさん。
かつては重箱をもって神野山へ山登り。
おやつも持っていたというから5月3日の春祭りの様相を話してくださる。
道を下って何軒か。
次の一軒は平成22年の八幡祭の京の飯行事に年預を務められたKさん。
平成18年に取材した豊田楽のときにお声をかけてくださった先代の親父さんも存じていたが・・・。
庭に立ち入った子どもたちが声をかけたら屋内から飛んで出てこられた奥さん。
嬉しそうなお顔でお菓子を手渡す。
いつもなら朝9時に家を出て村を巡るのであるが、この日は中学一年生の長女はあいにくの不在。
表彰式出席のために馬見丘陵へ出かけたという。
その長女のためにもお菓子袋は用意してくださっていた。
ふと振り返ったK家の玄関。
「二月堂」の焼き印を押した木札に紅白の水引結びをしていた。
その横には少し焦げ目が見られる杉の葉。
たぶんに修二会の行法に先導をいくおたいまつではないだろうか。
確かめる時間もなく次の家へと先を急ぐ。
さらに下ったら県道80号線に出る。
道沿いに下った隣家はH家。
製材所を営むH家の発注に写真家Kさんのお仕事関係もお願いしたことがある。
なにかとお世話になるHさんも平成22年の京の飯行事に年預を務められた。
姉妹にお菓子を手渡すHさんは目を細める。
Hさんが云うにはヤッコメはキリコ或いはカキモチだったそうだ。
もらって集めたカキモチは敷いた筵に広げて、公平に分け合った。
子どものころはもっと大勢が居た時代。
軒数も今より多くあった時代のヤッコメ行事は半日もかかった。
お腹が減った、でもなく巡っている途中で食べていたそうだ。
Aさんも云っていたように、当時子どもだったころの焼き米は美味しかったそうだ。
話しをしておれば、つい焼き米を喰いたくなってくると思いだされる。
さらに下って何軒か。
家で待っていたFさんもお菓子を手渡す。
持参した大きな袋が溢れそうになっている。
残すは数軒。
少女は一年生、四年生になりましたー、と告げる津越のヤッコメ行事の日。
毎年の成長を報告する台詞は挨拶代わり。
大きくなったなー、が合言葉のように思えてきた。
1時間足らずで自宅に戻った姉妹は喜んで家に入っていった。
孫の成長に目を細める店主のOさんもやはりキリコ或いはカキモチだったという。
かつてはフライパンで煎ったカヤの実もあった。
カヤの実は特に美味しかったと懐かしそうに話される。
昔は男の子だけが廻っていたが、少子化の波を受けて女児も加えた。
下はヨチヨチ歩きの幼児から上は中学2年生までが対象年齢。
再来年は長女も参加できなくなるO家が頼りのヤッコメ行事。
今年、下の子どもが小学一年生だから、あと数年は続けられるようであるが・・・。
(H29. 4.29 EOS40D撮影)
その後の状況はどうされているのか。
前回取材時と同じように姉妹3人が集落を巡ってお菓子貰いをしているのだろうか。
かつては焼き米貰いに巡っていたからそれを「ヤッコメ」と呼んでいた山添村の大字北野・津越のヤッコメ行事に再訪する。
ヤッコメとは焼き米もらいのことだ。
今ではその姿さえ見ることのない焼き米。
郷土料理でもなんでもない昔からあった米の保存食。
籾のついたままの新米を煎って、爆ぜた殻を取り除いたもの。
平成22年5月8日に取材した桜井市小夫でのときだ。
植え初めに話してくれたヤッコメ(焼き米)。
水口の両脇に2本の松苗を挿して、ヤッコメ(キリコやアラレの場合もある)を田に撒いた。
そのときに囃した詞章に「ヤッコメくれんなら どんがめはめるぞ」だった。
美味しいヤッコメをくれなかったら、どんがめと称していた石を田んぼに投げるぞ、という囃子詞である。
ここ山添村の大字北野・津越に小夫ととてもよく似た詞章があった。
「ヤッコメ(焼き米)くらんせ ヤドガメはなそ(放そう)」という囃子詞である。
今ではこの詞を聞くことはないが、平成5年に発刊された『やまぞえ双書1 年中行事』に記されている。
ヤッコメならぬイリゴメの名称であったが、意味はまったく同じ囃子詞を知ったのは平成29年3月15日に訪れた天理市和爾町・和爾坐赤坂比古神社行事の御田祭植祭に参列していた一人の長老であった。
昭和10年生まれのUさんが話してくれた過去の体験はおよそ70年前の戦後間もないころだった。
「イリゴメ(※煎り米はつまり焼き米)喰わさなきゃ 亀を這わすぞ」の囃子詞の様相は津越や小夫とほぼ同じである。
植え初めした稲は亀が這うことによって倒され、潰してしまう。
つまりはイリゴメを食べたい子供は亀を植えたばかりの田んぼに放して悪さをしてしまうぞ、ということだ。
田主にとっては亀を放されては困るから、イリゴをあげるから放さないでと嘆願する、ということだ。
ほぼ一年後の平成30年4月10日に訪れた際に話してくださったカメのことである。
こちら津越ではドンガメといえば、昆虫のカメムシだった。
ところ変われば、名も替わるという事例である。
奈良県内におけるヤッコメ行事は極めて珍しい。
おそらくここ山添村の大字北野・津越だけではないかと思う。
その珍しさというか、貴重な行事を拝見したいと願った写真家Kさんの希望を叶えるために予め取材許可をもらっていたご家族。
お盆の風習行事であるサシサバのイタダキや先祖さん迎え火も撮らせてもらったことのあるお家。
なにかにつけてお世話になってばかりいて恐縮する。
ヤッコメならぬお菓子貰いにでかける民家は10軒。
前回より1軒少なくなったが、津越は度々の村行事も取材しているから顔なじみの家もある。
1軒は我が家の長男が勉学していた大学の友達の家。
親父さんのKさんも存じているから話題と云えば東京から奈良に帰省する道中の出来事である。
それは夕方に発生した。
津越の友達と一緒に東京を出た長男の愛車が走っていた東名高速道路で負った追突事故である。
渋滞に巻き込まれた道路に停車した。
そこへブレーキもかけずに眠り運転で走行してきたトラックに追突されてしまった。
バックミラーでトラックの動きを見ていた長男は危険を察知して二人とも横になった。
そのおかげもあってむち打ち症にはならず。
とっさの判断が功を奏した。
長男の車は軽自動車。
後の窓ガラスは割れて、ボコボコ。
命は助かったし、車もそこそこの損傷で済んだのが幸いだった。
私も親父さんも冷や冷やであったが、身体が無事やっただけにほっとしたことを覚えている。
親父さんは「息子が同乗したから事故したんや、すまんかった」と云われるが、予期しない出来事に巻き込まれただけ。
むしろ、二人とも無事だったのが嬉しいのです、と伝えた。
そんな話題は二人だけに通じる話し。
長話はさておいて、お菓子をもらった子どもたちは母親と共に先に向かって去っていた。
急な坂道を駆けあがっていく子どもたち。
着いた家はいつも薪割りをした割り木を揃えている。
今年も待っていたという婦人は笑顔で渡すお菓子袋。
姉妹二人分はそれぞれが受け取る。
平成22年に訪れたとき。
6年前の下の女児は母親が押すベビーカーに乗っていた幼子だった。
上の子は保育園児。
ともに成長して小学一年生、小学四年生になっていた。
都合で、中学一年生になった上の子は都合によって今年は参加できなかった。
大きくなった姿を毎年見ている村の大人たちは目を細める。
もう一軒は元裁判官のAさん。
かつては重箱をもって神野山へ山登り。
おやつも持っていたというから5月3日の春祭りの様相を話してくださる。
道を下って何軒か。
次の一軒は平成22年の八幡祭の京の飯行事に年預を務められたKさん。
平成18年に取材した豊田楽のときにお声をかけてくださった先代の親父さんも存じていたが・・・。
庭に立ち入った子どもたちが声をかけたら屋内から飛んで出てこられた奥さん。
嬉しそうなお顔でお菓子を手渡す。
いつもなら朝9時に家を出て村を巡るのであるが、この日は中学一年生の長女はあいにくの不在。
表彰式出席のために馬見丘陵へ出かけたという。
その長女のためにもお菓子袋は用意してくださっていた。
ふと振り返ったK家の玄関。
「二月堂」の焼き印を押した木札に紅白の水引結びをしていた。
その横には少し焦げ目が見られる杉の葉。
たぶんに修二会の行法に先導をいくおたいまつではないだろうか。
確かめる時間もなく次の家へと先を急ぐ。
さらに下ったら県道80号線に出る。
道沿いに下った隣家はH家。
製材所を営むH家の発注に写真家Kさんのお仕事関係もお願いしたことがある。
なにかとお世話になるHさんも平成22年の京の飯行事に年預を務められた。
姉妹にお菓子を手渡すHさんは目を細める。
Hさんが云うにはヤッコメはキリコ或いはカキモチだったそうだ。
もらって集めたカキモチは敷いた筵に広げて、公平に分け合った。
子どものころはもっと大勢が居た時代。
軒数も今より多くあった時代のヤッコメ行事は半日もかかった。
お腹が減った、でもなく巡っている途中で食べていたそうだ。
Aさんも云っていたように、当時子どもだったころの焼き米は美味しかったそうだ。
話しをしておれば、つい焼き米を喰いたくなってくると思いだされる。
さらに下って何軒か。
家で待っていたFさんもお菓子を手渡す。
持参した大きな袋が溢れそうになっている。
残すは数軒。
少女は一年生、四年生になりましたー、と告げる津越のヤッコメ行事の日。
毎年の成長を報告する台詞は挨拶代わり。
大きくなったなー、が合言葉のように思えてきた。
1時間足らずで自宅に戻った姉妹は喜んで家に入っていった。
孫の成長に目を細める店主のOさんもやはりキリコ或いはカキモチだったという。
かつてはフライパンで煎ったカヤの実もあった。
カヤの実は特に美味しかったと懐かしそうに話される。
昔は男の子だけが廻っていたが、少子化の波を受けて女児も加えた。
下はヨチヨチ歩きの幼児から上は中学2年生までが対象年齢。
再来年は長女も参加できなくなるO家が頼りのヤッコメ行事。
今年、下の子どもが小学一年生だから、あと数年は続けられるようであるが・・・。
(H29. 4.29 EOS40D撮影)