桜井市の箸中にコンピラサンの行事があると知ったのは前年の平成28年の7月10日だった。
午後の5時半には、祭りの飾りのなにもかもが消えて、砂盛りだけが残っていた。
近くにおられた方の話しによれば、正式な講中の名は判らないが「コンピラサン」の講だと云う。
7月9日、10日の二日間はコンピラサンの夏祭りをしていると云っていた。
コンピラサンの行事はどのような形式でされているのか知りたくて再訪した。
訪れる時間帯は午後5時半より前。
1時間半前の午後4時ころであれば、どなたかが参っているだろうと想定して自宅を出た。
到着した時間はジャスト午後4時。
「金毘羅大権現」の刻印がある石塔の前に花を立てていた。
前年に訪れた際である。
たまたま通りがかった午後1時の時間帯と同じように花を立てていた。
いずれも人影はない状態に被写体を撮っていた。
何らかの動きがあるのはこれからであろうと思うが、何時になるのかまったくわかっていないから、この場で立ちん坊状態である。
この金毘羅大権現すぐ傍に建つお家がある。
所在地に、であればコンピラサン行事について何らかのことをご存じと思われたので呼び鈴を押した。
屋内から出てこられたNさんに尋ねた結果は、父親の後を継いでいるが、詳しいことはわからないという。
それからも待つこと十数分。
走って来た軽トラが金毘羅大権現の前に停まった。
何をするかといえば撤収の片付け作業である。
作業中にコンピラサンについて教えてもらった。
金毘羅大権現に葉付きの竹を立てて提灯を吊るす。
花を立てて慶雲寺の住職に法要をしてもらう中垣内のコンピラ講行事である。
4年に一度の廻り当番の組が設えるなど、すべてを仕掛ける。
中垣内を四つの組に分けている。
例えば北の組は中垣内の北といい、南の組は中垣内の南になるらしい。
北と南があれば、残りの組は東に西が想定されよう。
ところが後日に聞いた垣内は南垣内に川垣内、上垣内の分かれ垣内であるという。
実にややこしいと思った。
今年の当たり当番になったKさんは中垣内の住民。
今年、86歳になっても家で素麺作りをしているという。
その素麺作りをしている作業の様相を撮りたいといってきた写真家は二人。
藤田浩氏と塚原紘氏の二人。
当時、よほど気にいったのか、度々やってきては屋外作業を撮っていたそうだ。
ちなみに藤田浩氏の写真で紹介していたシリーズ本がある。
編集工房あゆみが1995年(平成7年)に発刊した『奈良花ごよみ遊歩シリーズ』である。
気にいったシリーズは5冊とも買ったことがある。
かつては箸中に素麺を製造する事業者は15軒もあった。
衰退の一方で現在は5軒になったという。
コンピラ講の当番は、毎日にローソクを灯す。
手提げの燈明箱の廻りがやってきたら交替する。
夏のコンピラサンに提灯を吊るすが、提灯を納めている缶ごと慶雲寺に預けている。
そういえば昨年に拝見した缶は、すぐ横にある土塀造りの車庫にあった。
缶に「金毘羅大権現 天照皇大神宮」と書いてあったことを思い出した。
この日の10日は後宴。
夕方になれば撤収する。
コンピラサンは前日の9日の両日が行事日。
9日の朝に設えて祭る。
提灯を吊るすのは夕刻に行われる法要のときである。
お供えをして慶雲寺住職の法要がある。
昨日は夕方に大雨が降る予報が出たので、急遽、昼間に繰り上げて、3軒が集まったらしい。
法要が終わったら、いつなんどきに雨が降ってもいいように提灯は引き上げて缶に納めたという。
かつてはコンピラサンの日は、そこに架かる橋の上で弁当を食べていたそうだ。
中垣内に伊勢講があった。
現在は解散しているが、歩いてお伊勢さんに参っていたという。
帰りは長谷まで迎えにいっていたという伊勢講。
どれぐらい前のことであろうか、話しはどうも釈然としない。
伊勢講は衣装を着て遷宮に出かけた。
行先は元伊勢の檜原神社といえば、地元三輪になる。
実は檜原神社で行われる箸中の行事を取材したことがある。
一つは8月28日に行われる檜原祭である。
箸中も隣村の芝も檜原神社の氏子。
郷中行事に参列する。
もう一つは神道主分講と仏教系講の敬神講の合同祭事として行われる正言祭である。
(H29. 7.10 EOS40D撮影)
(H28. 7.10 EOS40D撮影)
午後の5時半には、祭りの飾りのなにもかもが消えて、砂盛りだけが残っていた。
近くにおられた方の話しによれば、正式な講中の名は判らないが「コンピラサン」の講だと云う。
7月9日、10日の二日間はコンピラサンの夏祭りをしていると云っていた。
コンピラサンの行事はどのような形式でされているのか知りたくて再訪した。
訪れる時間帯は午後5時半より前。
1時間半前の午後4時ころであれば、どなたかが参っているだろうと想定して自宅を出た。
到着した時間はジャスト午後4時。
「金毘羅大権現」の刻印がある石塔の前に花を立てていた。
前年に訪れた際である。
たまたま通りがかった午後1時の時間帯と同じように花を立てていた。
いずれも人影はない状態に被写体を撮っていた。
何らかの動きがあるのはこれからであろうと思うが、何時になるのかまったくわかっていないから、この場で立ちん坊状態である。
この金毘羅大権現すぐ傍に建つお家がある。
所在地に、であればコンピラサン行事について何らかのことをご存じと思われたので呼び鈴を押した。
屋内から出てこられたNさんに尋ねた結果は、父親の後を継いでいるが、詳しいことはわからないという。
それからも待つこと十数分。
走って来た軽トラが金毘羅大権現の前に停まった。
何をするかといえば撤収の片付け作業である。
作業中にコンピラサンについて教えてもらった。
金毘羅大権現に葉付きの竹を立てて提灯を吊るす。
花を立てて慶雲寺の住職に法要をしてもらう中垣内のコンピラ講行事である。
4年に一度の廻り当番の組が設えるなど、すべてを仕掛ける。
中垣内を四つの組に分けている。
例えば北の組は中垣内の北といい、南の組は中垣内の南になるらしい。
北と南があれば、残りの組は東に西が想定されよう。
ところが後日に聞いた垣内は南垣内に川垣内、上垣内の分かれ垣内であるという。
実にややこしいと思った。
今年の当たり当番になったKさんは中垣内の住民。
今年、86歳になっても家で素麺作りをしているという。
その素麺作りをしている作業の様相を撮りたいといってきた写真家は二人。
藤田浩氏と塚原紘氏の二人。
当時、よほど気にいったのか、度々やってきては屋外作業を撮っていたそうだ。
ちなみに藤田浩氏の写真で紹介していたシリーズ本がある。
編集工房あゆみが1995年(平成7年)に発刊した『奈良花ごよみ遊歩シリーズ』である。
気にいったシリーズは5冊とも買ったことがある。
かつては箸中に素麺を製造する事業者は15軒もあった。
衰退の一方で現在は5軒になったという。
コンピラ講の当番は、毎日にローソクを灯す。
手提げの燈明箱の廻りがやってきたら交替する。
夏のコンピラサンに提灯を吊るすが、提灯を納めている缶ごと慶雲寺に預けている。
そういえば昨年に拝見した缶は、すぐ横にある土塀造りの車庫にあった。
缶に「金毘羅大権現 天照皇大神宮」と書いてあったことを思い出した。
この日の10日は後宴。
夕方になれば撤収する。
コンピラサンは前日の9日の両日が行事日。
9日の朝に設えて祭る。
提灯を吊るすのは夕刻に行われる法要のときである。
お供えをして慶雲寺住職の法要がある。
昨日は夕方に大雨が降る予報が出たので、急遽、昼間に繰り上げて、3軒が集まったらしい。
法要が終わったら、いつなんどきに雨が降ってもいいように提灯は引き上げて缶に納めたという。
かつてはコンピラサンの日は、そこに架かる橋の上で弁当を食べていたそうだ。
中垣内に伊勢講があった。
現在は解散しているが、歩いてお伊勢さんに参っていたという。
帰りは長谷まで迎えにいっていたという伊勢講。
どれぐらい前のことであろうか、話しはどうも釈然としない。
伊勢講は衣装を着て遷宮に出かけた。
行先は元伊勢の檜原神社といえば、地元三輪になる。
実は檜原神社で行われる箸中の行事を取材したことがある。
一つは8月28日に行われる檜原祭である。
箸中も隣村の芝も檜原神社の氏子。
郷中行事に参列する。
もう一つは神道主分講と仏教系講の敬神講の合同祭事として行われる正言祭である。
(H29. 7.10 EOS40D撮影)
(H28. 7.10 EOS40D撮影)