明日香村の大字岡や飛鳥、甘樫丘を巡っていた。
取材したかった地域行事のすべてを外した。
日程も時間も外した。
空いた時間は有効的活用したい。
そう思って車を走らせた。
目指す地域は大和高原の一角。
旧都祁村である。
目的地は大字白石であるが、通り道に選んだ地区は南之庄。
旧道を東に向かう。
信号白石手前にあるお店が目的地。
先に見ておきたいのは商店の駐車場である。
もしかとすればあるのでは、と思って停車したら、そこにあった。
広場のような駐車場の一角。
それこそ、広地の隅にしていた刺し鯖の天日干しである。
1カ月前の6月17日にも立ち寄った奈良市旧都祁の白石町・辻村商店である。
その日に聞いていた刺しさばの天日干し。
想像した情景とは違っていた。
女将さんの話しから想像していた情景は駐車場いっぱいに広がる天日干しの景観だった。
停めた駐車場にあった天日干しの台はビール瓶のケースだった。
黄色に緑色、赤色、クリーム色などのビール瓶ケース。
その上に金網を敷いて開き姿の鯖を並べていた。
塩塗れの鯖は樽漬け。
今回は拝見していないが、黄色い漬物樽に塩たっぷり振りかけて押していた。
何層にも積み重ねる背開きの鯖の塩漬けである。
何日間も漬けて晴れ間が続く日を迎えたら天日干し。
7月に入ってからの梅雨明けにすると聞いていたから、まさにその通りの日程であった。
天日干しの鯖は供えものでもあるし、食べ物でもある。
狙っている動物から守る道具がある。
道具は黒色の寒冷紗。
カラスや猫除けに黒い紗を被せていたが、辺りは僅かであるが生臭い匂いが漂う。
この日も、前日も上昇する気温。
35度から37度にも達する勢いに塩漬けしていた刺し鯖は焼けた色。
店主はこの色をべっ甲色と云っていた。
確かにそう思ったべっ甲色は美味しそうな色具合。
カラカラに乾いた塩の塊もたっぷりある。
沙を被った状態で撮っていた炎天下。
しょっぱい汗が滴り落ちる。
お店に入って声をかけた女将さんが私の顔を見て・・。
村の人の服忌が連日続いていて仕出し料理で忙しくしていた、と逆に詫びられる。
それは仕方のないこと。
私が撮る写真のために商売をしているわけではない。
拝見した天日干しの鯖はざっと数えて63枚。
次の鯖も準備している塩漬け。
そろそろ引き上げる日になった、と店主は動いた。
連日、朝から夕方近くまでの天日干し。
夕方になればすべての干し鯖を回収して、翌朝にまた並べて干す。
その作業の繰り返しで日増しに濃くなる鯖の色である。
たっぷり浴びた天の恵みで色焼けした鯖は両親が揃っている家庭では、二枚重ねで盆に供える。
供える鯖は二尾。頭に頭から突っ込んで挿すから挿し鯖であるが、ここ辻村商店では刺しさばと呼んでいた。
その表記で売っていたのを見つけたときは小躍りしたものだ。
沙を少しずつ捲ってくれる店主。
こうすればえー写真が撮れるだろうと云って捲ってくれる。
鯖の向きが並んでいる。
鯖の顔、顔、顔に焼けたべっ甲色。
白い塊が塩である。
海辺で魚を干す地域は数多く見られるが、ここは奈良県。
海はないが、こうして天日干しをする景観をとらえるのは初めてだ。
心が躍るのを抑えながら撮っていた。
毎年に百枚を干す。
一回当たりの天日干しの枚数である。
昨年は売れ行き予想の変化もあって20枚減らしたら売り切れてしまった。
それからも注文が途絶えなかったから、大慌てて追加の天日干しをしたそうだ。
盆に供えなくとも刺しさばだけを購入する人も多い。
明日は早速、売り出しにかかる。
店前に掲げる売り出し表示を見た人たちが買いに来る。
今年は宇陀市榛原に住む人が予約していた。
枚数は少ないが、どこかで人づてに聞いた刺しさばの売り出し店。
宣伝もしないのに来てくれる口コミがありがたい、と云う。
ちなみに店主は、「このままでもえーが、ちょっと箸で摘まんでお茶漬けで食べるのがイチバンだ」と云う。
うち、一枚をもらって帰って、今夜に食した刺しさばのしょっぱいこと。
付着していた塩の塊を流水で落として冷蔵庫に数日間入れておけばカチカチ手前。
その状態が美味しいらしいが、早くも今夜の料理の一品足し。
箸で突っついて解した肉を皿にとる。
今夜のメシに茶漬けが美味いといっていた刺し鯖。
とってもしょっぱいが、発泡酒のアテにちょびっとだけを摘まんで口に入れたら・・・・。
思わず口に出た「しょっぱっ」。
以前も食べたことがあるサシサバは、もっと辛かった。
そのときの味わいをつらつら綴ったコラムを書くことになった。
発刊された刺しさば喰い体験記コラムは、この年の3月に山と渓谷社が発刊した『サバが好き!』に掲載されている。
コラムタイトルは「刺鯖は塩辛い」である。
また、以前、山添村で取材したサシサバ風習をとらえた写真も掲載している。
取材先は大字北野・津越のOさんが経営する大矢商店。
奇しくもここ辻村商店と同業者。
二人の店主は奈良食品衛生組合員でもある。
つい先日も大阪のホテルで組合員の会合があって同席していたという。
私にとっては、刺しさばで縁を繋いでもらったようなものだ。
白石町の店主は大字神社の国津神社の座中。
座は上の六人衆と下の六人衆からなる。
昨年のマツリの頭屋を務めたお家は、かつてだるま瓦作りをしていたお家のFさんだったと云う。
ちなみに店主のTさんは、控えになる下の六人衆の頭。
上から年齢順にくだった下の六人衆の筆頭頭であるが、頭屋家が注文するマツリの日は11月2日、3日の両日にもてなす料理の一切をしなくてはならない。
座の料理の一例を拝見したが、それはそれなりの豪華な盛りの特別な料理である。
また、白石町には庚申講や伊勢講があるという。
庚申講は2カ月に一度はヤド家に寄り合う営みがある。
夜7時に始まって3時間。
飲んで食べての3時間もあれば、2年に一度は他府県に旅行もする。
伊勢講も年に3回の営み。
これらは現在敬神講の呼び名になっているらしい。
また、この年の4月8日にたまたま拝見した白石行者の大祭。
尤も大祭行事そのものを拝見したわけでなく幟をしている場付近まで近寄っただけだが・・。
白石行者は徳のある人だったそうだ。
江戸時代末期に成立した天理教の場合は教祖さんが中山みき。
仕えていた人たちの力があったから今日に至るが、白石行者も同じ時期に活動していた。
周囲に人の居ない独り活動だったそうだ。
大祭に奈良市内の清水町にある監督する寺僧侶が来られて法要を営んでいるという。
さまざまな白石町の行事を教えてくださった店主の六代前は、実は東隣にある室生の多田。
多田で思い出すのが多田源氏である。
大阪・摂津より室生に移り住んだ多田経実(つねざね)が祖。
摂津源氏の嫡流にあった多田経実は源満仲(多田満仲)の8代孫にあたるらしい。
鎌倉時代の建保年間(1213~1218)に当地に移り住んで土着した。
多田氏家の末裔になるT家は融通念仏宗派。
興善寺で行われる先祖供養に「多田屋敷云々・・」と回向されると話していた。
ちなみに刺しさば(鯖)でなく、干物のトビウオ(飛魚)を供え、食する地域がある。
今でも食べていると話してくれた山添村の大西に住むFさん。
8月14日のお盆にするイタダキの作法である。
両親が揃っている場合は、用意したお盆にホントビを2尾並べる。
形態は、サシサバと同じような具合だろう。
仮に片親であれば、ホントビが1尾。
両親二人ともが死去している場合は買うこともないし、作法もない。
両親(もしくは片親)はイキガミ(※生神)さん。
お盆にイキガミサンを祝ったら、奉ったホントビを食べる。
一同、家族がホントビの身を分け合って食べる、と話していた。
ホントビの購入先は、三重県伊賀市の治田にある魚屋さん。
大西から名阪国道を東に走った地に治田がある。
山添ICから5kmも走ったところの治田。山添村など奈良東山間部は距離的に近い三重県寄り。
文化流通は奈良県よりも、三重県側が濃密な関係にあった。
平成2年11月に発刊された『月ケ瀬村史』によれば、大西の隣村になる菅生(すごう)や、今は奈良市に属している旧月ケ瀬村では、婚家から里方へ中元贈りにトビウオがあった。
お盆のとき、その中元贈りのトビウオをドロイモ(※里芋)の葉の上にのせ、両手で抱えてイタダキの作法をするとあった。
山添村の桐山でも聞いたサシサバ習俗。
ある人はサバでなく、トビウオだったという。
同村の箕輪で若奥さんが話してくれた岩屋もまたトビウオだった。
嫁入りした箕輪にその習俗はなかったが、生まれ育った岩屋でしていた、という。
両親が揃っていたら、2尾トビウオ。
片親であれば1尾のトビウオ。
塩辛いトビウオを供えて食べていた、という。
岩屋は、トビウオを売りにくる行商から買っていた。
また、東山間部でなく、桜井市箸中にもサシサバがある。
お盆の習俗でなく、箸中で行われている「ノグチ」と呼ばれる村行事に供える事例である。
名称はサシサバであるが、一枚の背開きの鯖である。
開きといっても生干しの白身魚でなく色はこげ茶。
サシサバ同様に塩たっぷり詰めて干した鯖。
サシサバは日焼けに焦げて色がつく。
箸中の史料によれば、かつては鯖でもなく飛魚であった。
ここ箸中にもあったトビウオの形態。
探してみればどこかにまだまだあるかもしれない。
(H30. 7.14 EOS7D撮影)
(H30. 7.14 SB932SH撮影)
取材したかった地域行事のすべてを外した。
日程も時間も外した。
空いた時間は有効的活用したい。
そう思って車を走らせた。
目指す地域は大和高原の一角。
旧都祁村である。
目的地は大字白石であるが、通り道に選んだ地区は南之庄。
旧道を東に向かう。
信号白石手前にあるお店が目的地。
先に見ておきたいのは商店の駐車場である。
もしかとすればあるのでは、と思って停車したら、そこにあった。
広場のような駐車場の一角。
それこそ、広地の隅にしていた刺し鯖の天日干しである。
1カ月前の6月17日にも立ち寄った奈良市旧都祁の白石町・辻村商店である。
その日に聞いていた刺しさばの天日干し。
想像した情景とは違っていた。
女将さんの話しから想像していた情景は駐車場いっぱいに広がる天日干しの景観だった。
停めた駐車場にあった天日干しの台はビール瓶のケースだった。
黄色に緑色、赤色、クリーム色などのビール瓶ケース。
その上に金網を敷いて開き姿の鯖を並べていた。
塩塗れの鯖は樽漬け。
今回は拝見していないが、黄色い漬物樽に塩たっぷり振りかけて押していた。
何層にも積み重ねる背開きの鯖の塩漬けである。
何日間も漬けて晴れ間が続く日を迎えたら天日干し。
7月に入ってからの梅雨明けにすると聞いていたから、まさにその通りの日程であった。
天日干しの鯖は供えものでもあるし、食べ物でもある。
狙っている動物から守る道具がある。
道具は黒色の寒冷紗。
カラスや猫除けに黒い紗を被せていたが、辺りは僅かであるが生臭い匂いが漂う。
この日も、前日も上昇する気温。
35度から37度にも達する勢いに塩漬けしていた刺し鯖は焼けた色。
店主はこの色をべっ甲色と云っていた。
確かにそう思ったべっ甲色は美味しそうな色具合。
カラカラに乾いた塩の塊もたっぷりある。
沙を被った状態で撮っていた炎天下。
しょっぱい汗が滴り落ちる。
お店に入って声をかけた女将さんが私の顔を見て・・。
村の人の服忌が連日続いていて仕出し料理で忙しくしていた、と逆に詫びられる。
それは仕方のないこと。
私が撮る写真のために商売をしているわけではない。
拝見した天日干しの鯖はざっと数えて63枚。
次の鯖も準備している塩漬け。
そろそろ引き上げる日になった、と店主は動いた。
連日、朝から夕方近くまでの天日干し。
夕方になればすべての干し鯖を回収して、翌朝にまた並べて干す。
その作業の繰り返しで日増しに濃くなる鯖の色である。
たっぷり浴びた天の恵みで色焼けした鯖は両親が揃っている家庭では、二枚重ねで盆に供える。
供える鯖は二尾。頭に頭から突っ込んで挿すから挿し鯖であるが、ここ辻村商店では刺しさばと呼んでいた。
その表記で売っていたのを見つけたときは小躍りしたものだ。
沙を少しずつ捲ってくれる店主。
こうすればえー写真が撮れるだろうと云って捲ってくれる。
鯖の向きが並んでいる。
鯖の顔、顔、顔に焼けたべっ甲色。
白い塊が塩である。
海辺で魚を干す地域は数多く見られるが、ここは奈良県。
海はないが、こうして天日干しをする景観をとらえるのは初めてだ。
心が躍るのを抑えながら撮っていた。
毎年に百枚を干す。
一回当たりの天日干しの枚数である。
昨年は売れ行き予想の変化もあって20枚減らしたら売り切れてしまった。
それからも注文が途絶えなかったから、大慌てて追加の天日干しをしたそうだ。
盆に供えなくとも刺しさばだけを購入する人も多い。
明日は早速、売り出しにかかる。
店前に掲げる売り出し表示を見た人たちが買いに来る。
今年は宇陀市榛原に住む人が予約していた。
枚数は少ないが、どこかで人づてに聞いた刺しさばの売り出し店。
宣伝もしないのに来てくれる口コミがありがたい、と云う。
ちなみに店主は、「このままでもえーが、ちょっと箸で摘まんでお茶漬けで食べるのがイチバンだ」と云う。
うち、一枚をもらって帰って、今夜に食した刺しさばのしょっぱいこと。
付着していた塩の塊を流水で落として冷蔵庫に数日間入れておけばカチカチ手前。
その状態が美味しいらしいが、早くも今夜の料理の一品足し。
箸で突っついて解した肉を皿にとる。
今夜のメシに茶漬けが美味いといっていた刺し鯖。
とってもしょっぱいが、発泡酒のアテにちょびっとだけを摘まんで口に入れたら・・・・。
思わず口に出た「しょっぱっ」。
以前も食べたことがあるサシサバは、もっと辛かった。
そのときの味わいをつらつら綴ったコラムを書くことになった。
発刊された刺しさば喰い体験記コラムは、この年の3月に山と渓谷社が発刊した『サバが好き!』に掲載されている。
コラムタイトルは「刺鯖は塩辛い」である。
また、以前、山添村で取材したサシサバ風習をとらえた写真も掲載している。
取材先は大字北野・津越のOさんが経営する大矢商店。
奇しくもここ辻村商店と同業者。
二人の店主は奈良食品衛生組合員でもある。
つい先日も大阪のホテルで組合員の会合があって同席していたという。
私にとっては、刺しさばで縁を繋いでもらったようなものだ。
白石町の店主は大字神社の国津神社の座中。
座は上の六人衆と下の六人衆からなる。
昨年のマツリの頭屋を務めたお家は、かつてだるま瓦作りをしていたお家のFさんだったと云う。
ちなみに店主のTさんは、控えになる下の六人衆の頭。
上から年齢順にくだった下の六人衆の筆頭頭であるが、頭屋家が注文するマツリの日は11月2日、3日の両日にもてなす料理の一切をしなくてはならない。
座の料理の一例を拝見したが、それはそれなりの豪華な盛りの特別な料理である。
また、白石町には庚申講や伊勢講があるという。
庚申講は2カ月に一度はヤド家に寄り合う営みがある。
夜7時に始まって3時間。
飲んで食べての3時間もあれば、2年に一度は他府県に旅行もする。
伊勢講も年に3回の営み。
これらは現在敬神講の呼び名になっているらしい。
また、この年の4月8日にたまたま拝見した白石行者の大祭。
尤も大祭行事そのものを拝見したわけでなく幟をしている場付近まで近寄っただけだが・・。
白石行者は徳のある人だったそうだ。
江戸時代末期に成立した天理教の場合は教祖さんが中山みき。
仕えていた人たちの力があったから今日に至るが、白石行者も同じ時期に活動していた。
周囲に人の居ない独り活動だったそうだ。
大祭に奈良市内の清水町にある監督する寺僧侶が来られて法要を営んでいるという。
さまざまな白石町の行事を教えてくださった店主の六代前は、実は東隣にある室生の多田。
多田で思い出すのが多田源氏である。
大阪・摂津より室生に移り住んだ多田経実(つねざね)が祖。
摂津源氏の嫡流にあった多田経実は源満仲(多田満仲)の8代孫にあたるらしい。
鎌倉時代の建保年間(1213~1218)に当地に移り住んで土着した。
多田氏家の末裔になるT家は融通念仏宗派。
興善寺で行われる先祖供養に「多田屋敷云々・・」と回向されると話していた。
ちなみに刺しさば(鯖)でなく、干物のトビウオ(飛魚)を供え、食する地域がある。
今でも食べていると話してくれた山添村の大西に住むFさん。
8月14日のお盆にするイタダキの作法である。
両親が揃っている場合は、用意したお盆にホントビを2尾並べる。
形態は、サシサバと同じような具合だろう。
仮に片親であれば、ホントビが1尾。
両親二人ともが死去している場合は買うこともないし、作法もない。
両親(もしくは片親)はイキガミ(※生神)さん。
お盆にイキガミサンを祝ったら、奉ったホントビを食べる。
一同、家族がホントビの身を分け合って食べる、と話していた。
ホントビの購入先は、三重県伊賀市の治田にある魚屋さん。
大西から名阪国道を東に走った地に治田がある。
山添ICから5kmも走ったところの治田。山添村など奈良東山間部は距離的に近い三重県寄り。
文化流通は奈良県よりも、三重県側が濃密な関係にあった。
平成2年11月に発刊された『月ケ瀬村史』によれば、大西の隣村になる菅生(すごう)や、今は奈良市に属している旧月ケ瀬村では、婚家から里方へ中元贈りにトビウオがあった。
お盆のとき、その中元贈りのトビウオをドロイモ(※里芋)の葉の上にのせ、両手で抱えてイタダキの作法をするとあった。
山添村の桐山でも聞いたサシサバ習俗。
ある人はサバでなく、トビウオだったという。
同村の箕輪で若奥さんが話してくれた岩屋もまたトビウオだった。
嫁入りした箕輪にその習俗はなかったが、生まれ育った岩屋でしていた、という。
両親が揃っていたら、2尾トビウオ。
片親であれば1尾のトビウオ。
塩辛いトビウオを供えて食べていた、という。
岩屋は、トビウオを売りにくる行商から買っていた。
また、東山間部でなく、桜井市箸中にもサシサバがある。
お盆の習俗でなく、箸中で行われている「ノグチ」と呼ばれる村行事に供える事例である。
名称はサシサバであるが、一枚の背開きの鯖である。
開きといっても生干しの白身魚でなく色はこげ茶。
サシサバ同様に塩たっぷり詰めて干した鯖。
サシサバは日焼けに焦げて色がつく。
箸中の史料によれば、かつては鯖でもなく飛魚であった。
ここ箸中にもあったトビウオの形態。
探してみればどこかにまだまだあるかもしれない。
(H30. 7.14 EOS7D撮影)
(H30. 7.14 SB932SH撮影)