前年は平成29年3月12日の日曜日に行われた大淀町大岩・大日堂の涅槃会。
この年は遅れることなく到着できた。
大日堂に安置されているご本尊は、高さが160cmの木造大日如来坐像。元禄十六年(1703)、他の在地から遷されたと伝わるが、詳しい来歴は定かでない、と大淀町HPに記載されている。
大日堂は、時代の流れもあった明治時代に廃寺。
ただ、現存する扁額は「安楽寺」文字であることから、安楽寺の小堂であったようだ。
住職不在となった旧安楽寺・大日堂は、30戸からなる大岩区の人たちの手によって守り継がれてきた。
屋根瓦の風化、板材の腐食による雨漏りのあった大日堂は、平成24年度に改修工事。
その際に行われた文化財調査によって、屋根裏からは延宝八(1680)年の銘を刻んだ鬼瓦に墨書きの入った建築材などが発見された。
また、「城山国 相楽郡 賀茂 東明寺 永享ニノ十 六月十七日」の銘がある鰐口は、大日堂にかけられていた。
京都府相楽郡加茂にあった「東明寺」の什物であったことまで判明。
加茂町に日蓮宗寺院の燈明寺がある。
寺伝の元禄九年記の「東明寺縁起」によれば奈良時代の行基が開基したと伝わるそうだ。
“東明寺”は法人登記があるものの現在は廃寺同然にある燈明寺であった。
“東明寺”は建武年間(1334-1336)の兵乱で廃絶したのち、康正年間(1455-1456)に天台宗の僧忍禅が復興したそうだ。
鰐口の製作年が永享ニ年(1430)とあることから、復興する前から寺の存在はあったとしても、持ち主を失っていたのではないだろうか。
製作はしたものの行き場を失った鰐口が、どういう経緯があったのか不明であるが、これもまた大岩の歴史を物語る逸物である。
門の外に咲いていた赤い椿の花が落下するころに行われる涅槃会は、村在住の僧侶によって法会を営まれる。
大日堂は元真言宗派。
大岩区は宗派替えもあって現在は浄土真宗。
大岩区は東垣内と西垣内の二つ。
同じ浄土真宗であっても寺は異なる。
東垣内は大蔵寺。
西は西照寺。
いずれも浄土真宗本願寺派である。
さて、この日の法会は涅槃会。
涅槃図を架ける位置は、ご本尊さんの顔前。
申しわけないが、しばらくの時間はお釈迦さまの法会とさせていただく。
本尊下に供えられた餅がある。
桶に盛られた餅はよもぎ餅に白餅。かつては丸い団子を供えていた、という。
その名も、お釈迦さんの入滅の日にちなんでかどうかわからないが、「ハナクソダンゴ」と呼んでいた。
奈良県内で行われている村落各地の涅槃会に供える団子は同じように「ハナクソダンゴ」と呼んでいた。
今では餅に移ったことから、そう呼ぶ人も少なくなったような気がする。
定刻時間前、涅槃会を始める合図がある。
門の前にある椿の木の枝に掛けた鉦である。
昨年に訪れた際に拝見した鉦。
外縁含む全幅直径は32cm。
縁部分を除けば28cm。
内径は25cmで高さは9cmの打ち鉦に刻印があった。
「和刕吉野郡大岩村安楽寺 住僧楽誉極念代 寶永三丙戌歳(1706)十月十五日 施主念佛講中」である。
雨乞い道具として叩いていたという鉦は、前述したように、まさに旧安楽寺の称号を遺していた。
寶永三丙戌歳、当時の念仏講中によって寄進された鉦である。
カン、カン、カンと呼び出し鉦の音が聞こえた村の人たちが急坂を登ってくる。
「ひと月前の前月は大日さんのお祭りでしたが、例年のようにお花見会を催す予定があります」と村の通信案内に「本日は、ようお参りくださいました」と、村役がお礼を述べてから始まった涅槃の法会。
導師を務めるのは西照寺の住職。
ローソクや線香に火を灯して、唱えた念仏は阿弥陀経と思われる。
「なーむしゃーかぁむに なぁーむー がーんにしくどくー びょうどういっさい・・・」。
みなさんもご一緒にと声がかかって「なんまんだぶ なんまいだぶーぶ」。
本堂を降りた住職は大日堂外に並ぶ石仏群にもお参り。
念仏を唱えていた。
そして始まったゴクマキ。
本堂前に今か、今かと待っていた村の人たち。
実はいきなりゴクマキではなく、小さなお子さんたちやお年寄りを中心に餅配り。
怪我でもしてはならんと気配りの餅配りに可愛いお手てが伸びる。
優しい対応にすべての御供を遣うわけでもなく、ちゃんとゴクマキもされる。
急ににぎやかになった本堂前。
こっちやでーと声のかかった方に放り投げる。
天空を仰ぐ手、手、手・・・とは別の姿恰好も。
御供餅は拾い物。みなありがたく頂戴して解散されたが、トーヤ(頭屋)は後片付けがある。
大岩のトーヤは2軒で一組。
一カ月に一度は掃除にお花。
ご本尊や脇仏に捧げる「おっぱん(仏飯)」もある。
おっぱんを盛る仏具はおっぱん箱に収納。
9か月に一度の廻りにおっぱん箱が廻ってくる、という。
(H30. 3.11 EOS40D撮影)
この年は遅れることなく到着できた。
大日堂に安置されているご本尊は、高さが160cmの木造大日如来坐像。元禄十六年(1703)、他の在地から遷されたと伝わるが、詳しい来歴は定かでない、と大淀町HPに記載されている。
大日堂は、時代の流れもあった明治時代に廃寺。
ただ、現存する扁額は「安楽寺」文字であることから、安楽寺の小堂であったようだ。
住職不在となった旧安楽寺・大日堂は、30戸からなる大岩区の人たちの手によって守り継がれてきた。
屋根瓦の風化、板材の腐食による雨漏りのあった大日堂は、平成24年度に改修工事。
その際に行われた文化財調査によって、屋根裏からは延宝八(1680)年の銘を刻んだ鬼瓦に墨書きの入った建築材などが発見された。
また、「城山国 相楽郡 賀茂 東明寺 永享ニノ十 六月十七日」の銘がある鰐口は、大日堂にかけられていた。
京都府相楽郡加茂にあった「東明寺」の什物であったことまで判明。
加茂町に日蓮宗寺院の燈明寺がある。
寺伝の元禄九年記の「東明寺縁起」によれば奈良時代の行基が開基したと伝わるそうだ。
“東明寺”は法人登記があるものの現在は廃寺同然にある燈明寺であった。
“東明寺”は建武年間(1334-1336)の兵乱で廃絶したのち、康正年間(1455-1456)に天台宗の僧忍禅が復興したそうだ。
鰐口の製作年が永享ニ年(1430)とあることから、復興する前から寺の存在はあったとしても、持ち主を失っていたのではないだろうか。
製作はしたものの行き場を失った鰐口が、どういう経緯があったのか不明であるが、これもまた大岩の歴史を物語る逸物である。
門の外に咲いていた赤い椿の花が落下するころに行われる涅槃会は、村在住の僧侶によって法会を営まれる。
大日堂は元真言宗派。
大岩区は宗派替えもあって現在は浄土真宗。
大岩区は東垣内と西垣内の二つ。
同じ浄土真宗であっても寺は異なる。
東垣内は大蔵寺。
西は西照寺。
いずれも浄土真宗本願寺派である。
さて、この日の法会は涅槃会。
涅槃図を架ける位置は、ご本尊さんの顔前。
申しわけないが、しばらくの時間はお釈迦さまの法会とさせていただく。
本尊下に供えられた餅がある。
桶に盛られた餅はよもぎ餅に白餅。かつては丸い団子を供えていた、という。
その名も、お釈迦さんの入滅の日にちなんでかどうかわからないが、「ハナクソダンゴ」と呼んでいた。
奈良県内で行われている村落各地の涅槃会に供える団子は同じように「ハナクソダンゴ」と呼んでいた。
今では餅に移ったことから、そう呼ぶ人も少なくなったような気がする。
定刻時間前、涅槃会を始める合図がある。
門の前にある椿の木の枝に掛けた鉦である。
昨年に訪れた際に拝見した鉦。
外縁含む全幅直径は32cm。
縁部分を除けば28cm。
内径は25cmで高さは9cmの打ち鉦に刻印があった。
「和刕吉野郡大岩村安楽寺 住僧楽誉極念代 寶永三丙戌歳(1706)十月十五日 施主念佛講中」である。
雨乞い道具として叩いていたという鉦は、前述したように、まさに旧安楽寺の称号を遺していた。
寶永三丙戌歳、当時の念仏講中によって寄進された鉦である。
カン、カン、カンと呼び出し鉦の音が聞こえた村の人たちが急坂を登ってくる。
「ひと月前の前月は大日さんのお祭りでしたが、例年のようにお花見会を催す予定があります」と村の通信案内に「本日は、ようお参りくださいました」と、村役がお礼を述べてから始まった涅槃の法会。
導師を務めるのは西照寺の住職。
ローソクや線香に火を灯して、唱えた念仏は阿弥陀経と思われる。
「なーむしゃーかぁむに なぁーむー がーんにしくどくー びょうどういっさい・・・」。
みなさんもご一緒にと声がかかって「なんまんだぶ なんまいだぶーぶ」。
本堂を降りた住職は大日堂外に並ぶ石仏群にもお参り。
念仏を唱えていた。
そして始まったゴクマキ。
本堂前に今か、今かと待っていた村の人たち。
実はいきなりゴクマキではなく、小さなお子さんたちやお年寄りを中心に餅配り。
怪我でもしてはならんと気配りの餅配りに可愛いお手てが伸びる。
優しい対応にすべての御供を遣うわけでもなく、ちゃんとゴクマキもされる。
急ににぎやかになった本堂前。
こっちやでーと声のかかった方に放り投げる。
天空を仰ぐ手、手、手・・・とは別の姿恰好も。
御供餅は拾い物。みなありがたく頂戴して解散されたが、トーヤ(頭屋)は後片付けがある。
大岩のトーヤは2軒で一組。
一カ月に一度は掃除にお花。
ご本尊や脇仏に捧げる「おっぱん(仏飯)」もある。
おっぱんを盛る仏具はおっぱん箱に収納。
9か月に一度の廻りにおっぱん箱が廻ってくる、という。
(H30. 3.11 EOS40D撮影)