マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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耐震診断

2010年07月21日 08時16分04秒 | ぽつりと
無料で家の耐震診断をしたいと訪れた業者。

かーさんは信用して日取りを決めてしまった。

以前もそんな理由で診てもらったことがある。

あなたの家はこのような状況になってますと撮ったビデオを私に見せた。

「だれが写してもえーといったんじゃ」と一喝した。

勝手なことをする業者は信用ならん。

即効で映像を消させた。

「プライバシーマークを見せろ」と伝えたら「それは何ですか」と返ってきた。

ますます信用ならん。

なんじゃかじゃと業者に云ったら尻尾をまいて離れていった。

そんな業者なのかどうか判らないが二人が来た。

大阪府知事許可番号や診断士が記された写真入り名刺を差し出した。

会社案内も提示した。

ふむふむ。

ところで無料で診断するのは何故なのかと聞いた。

要約すれば自治体への提案に事例を作りたいというのだ。

それは判ったと了承した。

診断は屋根裏や床下に潜ってデジタル画像を収録していった。

うちの家であることを証明するために印となるモノを一緒に撮っていった。

およそ2時間の診断。

現況結果はテレビに映し出される。

スジカイ、アンカーボルト、断熱材等は建築当時の状況記憶を蘇らす。

建築中の30年ほど前は毎週見にきていた。

一部は写真やビデオにも撮っておいた。

木造の湿気計測は良好を示す。

30年間も暮らしているのに劣化も認められない。

当時の建築基準で建てられたものだがそれ以上の作り方で建てられていたことに診断士は驚きを隠せない。

当時の棟梁の顔を思い出す。

建築後には屋根瓦を補修したり、壁の塗り替えをしていたが中身は手をつけていない。

シロアリ対策はしてきた。

それから10年以上は経過しているにも関わらずほれぼれするような映像が映し出される。

が、だ。

それから大きな地震が発生して基準が一挙にあがった。

現在の基準と照らし合わせて耐震を診断する。

間違いなく「倒れる」となるであろう。

案の定、4日後の診断結果はそうであった。

震度6強に耐えうる補強は壁、床などに2百万円。

どこにそんなお金があるんじゃ。

最小限の補修でも70万円はかかる。

事例とはいうものの、やはりこれが狙いであった。

(H22. 6. 5 記)

苣原惣社九頭神社宮籠

2010年07月20日 07時26分31秒 | 天理市へ
苣原町の惣社九頭神社では宮籠(こも)りが行われている。

昔のことだが、と前置きされた堂西脇の籠もりの人は語る。

村で火事があった。

それから始まったという宮籠りは災害にあわんように神さんにお頼み申す。

かつて籠りは夜中までしていた。

そのころは拝殿で座って会食をしていたそうだ。

風呂敷に包んだ家庭料理のお重は本殿前にお神酒とともに供えて祈る。

日が落ちる頃に集まってきた4人。

一の鳥居にある灯籠や参籠道の灯籠、末社にお灯明を点していく。

不慮の災害に見舞われたくないという願いをかけて氏神さんに祈る。



祈りが終われば供えた風呂敷を手に持って社務所にあがる。

包みを開ければそれぞれのお家のごっつぉ(ご馳走)が詰まっている。

澗したお神酒やビール、お茶などとともに飲食する。



話題は村の話で持ちきりになる。

この宮籠りは垣内ごとに行われている。

1月25日は東脇、5月21日は中山脇、6月4日が堂西脇である。

火事に見舞われたことがない北脇と谷脇では宮籠りが行われていないそうが判然としない。

なにがしかの言い伝えが宮籠りの形式として継承されてきたのではないだろうか。


※苣原町では各家でさなぶりの「ごっつぉ」をこしらえていた。
※山田町では野休みと称する日に春日大社へお参りをしているらしい。

(H22. 6. 4 EOS40D撮影)

苣原の行事

2010年07月19日 07時20分39秒 | 天理市へ
庚申講は垣内ごとにヤドの家で行われているそうだ。

北脇垣内のKさんの家ではヤドのときに庚申さんの掛け軸を掲げてアゲサンを煮たものやダイコン、ナシを供えるという。

お家の人だけでお参りをしている。

10月最終日曜日は秋祭り。

平成12年にトーヤをされたKさんの家では秋祭りに作ったハナ(仮称)を大切に残している。

当時は一枚一枚が折り紙だったハナ。

色彩りどりのハナは今でも美しい。

竹に折り紙は糸で括り付けている。

それは数十本も用意される。

長い竹竿の籠に入れてお渡りをする。

道中では籠を揺らして紙吹雪が隙間から飛んでいく。

それは見事だという。

ハナ作りがたいそうになってきたことから造花に変わったが吹雪は今でもしているという。

県内で僅かに見られる花笠のような形状だ。

苣原の秋祭りのハナに興味がひかれる。

4月末にお世話になったUさんが亡くなった。

宮本さんの衣装であるソウが次の宮本さんに引き継がれた。

かっては数回も御馳走をこしらえて祝ったという。

それはたいそうだからと簡素化し1回となった。

明日はタイヤの日。

大念寺でお勤めがある。

その際にチョンギリと呼ばれる儀式があるそうだ。

どういう意味があるのか判らないが、息子さんに当主を引き継ぐ儀式のようで直系の男性だけだという。

(H22. 6. 4 SB932SH撮影)

窪之庄の行事

2010年07月18日 07時16分16秒 | 楽しみにしておこうっと
2週間前に発見した苗代のお札を探し求めて窪之庄を訪れた。

1月に行われる宮さんの行事でもらったものだという。

それはおそらく八坂神社の牛頭天皇祭。

初集会でもあって宮方によって行われる。

神社に参拝したあとは公民館に集まってお札を並べるそうだ。

八坂神社は「ごずさん」の名で親しまれている。

9月1日は風の祈祷。

八朔の日でもある。

同じように参拝したあとは公民館に場を移す。

10月6日、7日はギインドーヤの祭典。

トーヤをした人は境内の木に御幣を括りつけている。

ほかせん(捨てるの意)からそうしているという。

古いものであるから最近はどうなのか。

息子がトーヤをしたときはこうしていたと話すSさん。

毎日、ごずさんに参って灯明を点している。

(H22. 6. 4 SB932SH撮影)

水神宗社丹生川上神社水神祭

2010年07月16日 08時16分49秒 | 東吉野村へ
「此の里は丹生の川上ほど近し 祈らば晴れよ五月雨の空」を詠んだ後醍醐天皇。

例年のこの日は五月晴れに恵まれる。

樹に留まるアオゲラはピョー、ピョーと囀っている。

東吉野の郷土料理であるホオの葉寿司と清流の鮎を特別に奉られた東吉野村小(おむら)の丹生川上神社。

水の親神さまのご加護を仰ぎ、水に感謝する祭典を行っている。

今年も水に関係する会社などが参列した。

およそ300人になるであろうと受付の人は話す。

午前10時、第一鼓の合図から始まって10分の第二鼓、30分の第三鼓で宮司以下大神神社からの祭員たちは参進する。

修祓、宮司一拝、御扉開き、献饌、祝詞奏上など厳かに営まれたあとは舞楽納曽利が奉納された。



毎年6月4日に行われる祭典は水神祭。

玉串奉奠などおよそ1時間半余りの祭典だ。

2年前に復活された蟻通太神楽は太鼓を打つ親方が出演できなくなった。

当日まで検討していたがやむなく中止とされた。

演目を徐々に増やしてきた保存会。

秋祭りには再復活したいものだという。

(H22. 6. 4 EOS40D撮影)

小綱町野神塚

2010年07月15日 08時14分11秒 | 橿原市へ
酒、塩、米が供えてあった小綱町の野神さん。

灯明は火を消した跡が残っている。

3年前に訪れたときも終わっていた。

何時に終えたのだろうか。

蛇を模った注連縄は昇竜のようにヨノミの木に巻きつけられていた。

3度目のトライもむなしく、翌年こそ行事をされているところに到着したいものだ。

(H22. 6. 4 EOS40D撮影)

再びモンゴルへ

2010年07月14日 08時39分08秒 | ぽつりと
何ヶ月も前から用意周到に準備してきた次男。

今回は海外保険を先週に済ませた約2ヶ月のモンゴル旅。

荷作りは万全。それ様にザックも大型に替わった。

前回は飛行機で旅立ったが、今回は船旅。

神戸からフエリーで中国に渡るという。

安価な旅をスタートした。

いつ中国に着くのか船旅の日程の詳細を知らされていないかーさんは二日後に寝られんようになった。

相変わらず連絡はしてこない。

中国のどこに着くのだろう。

調べてみりゃチャイナエクスプレスラインという航路があるではないか。

それによれば天津だ。

そこからは汽車でモンゴルに行くのであろう。

大陸は汽車だと言っていたんだけど。

それから4日も経つが音信不通になった。

メールを送っても反応はない。

電話は当然ながら電源切れか通信不能のメッセージ。

襲われたのではないだろうかと、心配で眠れないかーさん。

毎日泣いてばかりで考えることはマイナス方向で悪いほうへとストーリーを作っていく。

この状態が続くなら、警察に行方不明の手続きをしてビザをとって大陸まで行きたいという始末。

そんな毎日が続いていた5日目の9日。

留守番電話が入っていた。

本人の声が残されていたのを聞いたかーさんは嬉しさと安堵で涙があふれ出た。

心配しなくとも節目には電話をしてくるだろうと思っていた通りだった。

昨年も旅立ってからメールはするし、電話もするものだから戻ってから「もうかけやんといてや」と意志を伝えていた。

次男は大陸でなにもかも解放されたかったのだ。

しつこく通信すればするほど「ほっといたろっ」てなことになる。

初日は大陸行きのフェリーが出港したとき。

5日目は大陸を走る汽車に乗ったとき。

次は下車したときかモンゴルに着いたときになることだろうと思っていたら、6時間後に再び電話がかかった。

なんでも携帯が圏外になったままで繋がらなかったという。

そうだったのか。

圏外のままでは使えないので契約を解除してくれというがそれは必要ないだろ。

少ない話中時間に恐ろしい目にあったことが報告された。

中国でタクシーに乗ったそうだ。

日本人は次男を入れて3人。

運転はそうとう荒かった。

飛ばす、飛ばす。

びゅんびゅん飛ばして、突然に横転した。

幸いにも次男は怪我がなかったが一人は軽症で病院行きとなったそうだ。

心配のタネがまたひとつ増えた。

モンゴルゲストハウスに無事に着いた2度目のモンゴル行き。

果たしてその目的とは。話の端々によればどうも永住する気でいるらしい。

だから今回は仕事ができるかどうかという点であろう。

海外旅行なぞ行くことはあるまいとしていたかーさん。

パスポートの手続きをしたのはいうまでもない。

で、その後の電話はあったのか。

6月20日といえばそれから10日後だ。

それまで音信はなかった。

元気でなによりなんだろう。

かーさんも電話コールをしなくなっていた。

ゲストハウスに滞在しながらモンゴルを堪能しているらしい。

今度もモンゴルへ行くのかと聞けばそうでもないそうだ。

3度目はないという。

見飽きたらしい。

で、次はどこやねん。

帰ってきた返事はアフリカだった。

まだまだ心配のタネはつきない。

その後も一週間おきぐらいに状況を知らせてくる。

ところが、身体がえらいことになったので緊急帰国したいと電話がかかった。

7月13日のことだ。

(H22. 6. 4 記)

友田の行事

2010年07月13日 07時28分13秒 | 楽しみにしておこうっと
南之庄のKさんは多田来迎寺の関係者でもある。

たしか今日は南之庄と同じように友田の水分神社で毛掛籠りをしているはずだと聞いて訪問した。

神事はとうに終えて境内回りにある座にいた氏子たち。

友田と来迎寺の2大字になるのだが食事を済ませた来迎寺はいなかった。

水分神社には2大字の神さんが合祀されているので集まるのも2大字。

秋祭りでは南之庄、甲岡、来迎寺、友田、藺生、小山戸、相河、吐山、白石、針、針ヶ別所、小倉、上深川、下深川、萩、馬場、無山西、無山東、多田、染田、小原、深野、上笠間、下笠間、毛原、高塚の26大字からなる大所帯だ。

その多田来迎寺。

友田の氏子さんの話では9月17日にイシキ(会式)があるという。

後日に再び来迎寺にやってきた。二人のYさんの話では四角い盆に載せたズイキ、ジャガイモに挿した麩や半切りしたカボチャなどをずらりと壁一面に並べるらしい。

生御膳の形式に名はなくオソナエと称している。

イシキは善導忌会式と呼ばれているそうだ。

数年前に晋山式で住職が替わられたおりに14日になったそうだ。

前日から準備されるオソナエは昼過ぎにできあがるようだ。

そして、当日は友田、南之庄、小山戸に多田、白石、甲岡、吐山などの余所大字から役員が出席される。

オコナイは1月9日。

慈眼寺の和尚がやってきて数珠繰り法要が営まれる。

コンピラさんは4月10日に琴平神社で行われる。

重箱弁当を持参して神事のあとは餅まき。

今年はなぜかサクラを撮りにくる人が押し掛けたという。

稲の穂に紙を巻いた松苗は3月末ころに苗代の水口に挿す。

モミを二つ入れて藁縄で括るらしい。

2月26日の祈年祭であろうか。

それとも1月3日のオコナイであろうか。

尋ねてみたい。

(H22. 5.30 SB932SH撮影)

都祁南之庄いっぱいだまし

2010年07月12日 09時29分40秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
平成17年の「いっぱいだまし」には大勢の子どもたちがやってきた。

翌年は終わりかけのときに数人がやってきた。

お菓子をもらって帰っていった。

明くる年から子供の姿が見られない。

次の年はどうなるんやろと心配されていた「いっぱいだまし」。

年を重ねても子供の姿は見られず、村から子供が消えた。

「出演料を払うぐらいでないと来てくれんやろな」と呟く。

太鼓叩きと神主の後につく南之庄の男性たちは、子供になったつもりでだまされていく。

(H22. 5.30 EOS40D撮影)