マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

上三橋の苗代作り

2013年08月21日 06時52分16秒 | 大和郡山市へ
東西に貫く奈良市の帯解、今市の旧街道を西に向かえば大和郡山市の上三橋町だ。

街道北には須佐之男神社が鎮座する。

小字でいえば東垣内にあたる。

南側にある大池所在地の小字は蛇南坊である。

意味ありげな小字名が気にかかる。

そこから更に西へ向かった。

通りがかった田んぼで苗代作りをされているご家族がおられた。

もしかと思って緊急取材をお願いした。

もしかと思ったのは4月3日に行われる神社行事のテンマサンの祭りである。

祭りの際に奉納された紅白御幣。

祭典を終えた際に村人に配られる紅白のお札は苗代に立てる。

そう思ったのである。

80枚の苗箱は家でモミオトシをしてきた。

箱に土を入れて機械でモミオトシ。

それから土を被せて苗床に運んだ。

家族と弟家族が食べる分量だけ作ると云うU夫妻。

育苗の品種はキヌヒカリ。早稲だそうだ。

毎年の4月30日から5月3日にかけて良い日を選んでしているという。

良い日というのは天気が良いということもあるが、応援する弟夫婦の家族も来られる日だと話す。



苗床にすべての苗箱を並べたあとは、育苗を保護する白いシートを覆いかぶせる。

この日は強い風が吹く。

西風に煽れられてシートが浮き上がる。

早く済ませねばと四人がかりで抑える。

両端を杭に巻きつける。

風にも負けずにと何本かの杭で抑え込んだ。

こうして出来あがった苗代作り。

終えれば準備しておいたテンマサンの祭りでたばった紅白の御幣を挿す。

御供下げで貰った杉葉とともに挿す。



苗がすくすくと育ってほしいと願いを込めてイロバナと春日大社の御田植祭神事でたばった松苗も添える。

ご主人が春日若宮おん祭にも出仕された上三橋は春日神領地なのである。

「最近はテンマサンの御供下げに来る人も少なくなった」と話す婦人。

生まれ育った上三橋では60年も前には六斎念仏があったと云う。

8月15日は各家で所有している六斎鉦を持ってきて40軒の集落を巡っていく。

集まった総員はその家の廊下に座って並んだ。

その場で鉦を叩きながら念仏を唱えた。

1軒、1軒巡っていたから相当な時間を要した。

念仏をしなくなったが、今でもその鉦は各家で残していると思うと話す六斎念仏は「カンカラカン」と呼んでいた。

鉦を打ち鳴らす音がそのように聞こえたのであろう。

筆者が聞き取り調査をした地域の大和郡山市の白土町ではジャンガラガン(またはチャンガラガン)であった。

同市の井戸野町では「チャンカラカン」であった。

奈良市の八島町や安堵町の東安堵でも同じように「チャンカラカン」だ。

桜井市の萱森では上三橋と同様の「カンカラカン」である。

奈良市教育委員会の調査によればかつてあった大和郡山市の今国府町では「チャンガラカン」で、額田部町では「チャンガラガン」であった。

その呼称は白土町と同じである。

紅白の御幣などを立てたあとは、苗代田へ水を引き込む。

街道筋に沿って東から流れる水路がある。

そこを堰きとめて苗代田の水口から水が流れるようにする。

しばらく待てば流れ出した水路の水。

田んぼはカラカラに乾いているから染み込むまで時間がかかる。

苗代田はヒタヒタになるまでいっぱいの水張りをする。



下流の田主も苗代作りをしていた。

こっちにも回してくれと頼まれて堰きを外して水路の下流に流す。

上三橋は広大寺池の水利権がある。

吉野川分水ができあがってからは利用しなくなったが、両方とも権利料を支払っていると云う。

(H25. 5. 1 EOS40D撮影)

帯解で聞いた矢田の民俗

2013年08月20日 06時53分51秒 | メモしとこっ!
窪之庄辺りの苗代調査を終えて今市に向かう途中のことだ。

街道を通過しようとしていたときの馴染みのある男性が立っていた。

なんとやまちゃん先生である。

車を降りて挨拶をする。

立ち話で聞いた矢田の民俗。

かつて勤めていた少年自然の家がある地である。

勤務の傍らに調査をされていたことを教えてくださった。

矢田坐久志玉比古神社の粥占(かゆうら)は、当時に任職していた宮司が始めたという。

その宮司は出雲の出身だったそうだ。

粥占をしていた品種は稲作中心。

それぞれの品種ごとに占ったと云う。

現在、行われている品種は野菜や果実が含まれている22種類。

ナスビ(春・秋)、エンドウマメ、インゲンマメ、キャベツ、ハクサイ、トマト、キュウリ、サツマイモ、サトイモ、ダイコン、ダイズ、イチゴ、ブドウ、スイカ、カキである。

もちろん稲作もある。

極早稲や早稲、中稲のウルチ米に早稲、中稲のモチ米である。

およそ30年前と思われる当時の粥占は酒を飲みながら行っていた。

朗らかな雰囲気であるが、占いは神事。

真剣な様相で行われていたと話す。

東明寺のツナカケは東明寺垣内と中村垣内の村人が行っていた。

ツナカケはカンジョウカケとも呼んでいた。

ツナカケの場の上流は東明寺院など八つの坊があった。

ツナカケをしていることもあるのであろう、中村垣内の家々では注連縄をしない。

カンジョウナワが村を守ってくれるので、個々の家ではする必要性がないというわけだ。

東明寺辺りの人たちはほとんどがツナカケの場から下りたが、意識はそのままで、今でも注連縄を掛けないというのである。

ツナカケの日は同時に行われる境内社の八阪神社のオンダ祭がある。

楕円形を四つに区割りした見たての苗代。

早稲、中稲、晩稲、粳米の品種である。

宮司によって籾撒き、松苗撒きが行われる。

神事を終えた松苗は村人が持ち帰って神棚に供える。

中村垣内ではナリキゼメ(成木責め)をしていた。

木を竹でビシバシと叩いた。

子供の遊びのような振る舞いであった。

作法を終えた竹はオクドサン(竃)がある処の土壁に立て掛けた。

その土壁の中から出てきたワラはモノモライの眼の病いのメバチコに当てたら治ると信じられていた。

同垣内ではわらべ唄があった。

機械で収録をしたが、ご詠歌のようなテンポの遅い節廻しだったそうだ。

明治から大正生まれの年寄りが唄っていたわらべ唄は文字にも落とした。

それら一式は奈良でわらべ唄を研究されていた教え子のAさんにあげたという。

そのような民俗・風習を教えてくださったやまちゃん先生家では七・五・三を注連縄を結っていた。

その数は60本。

家で祀る箇所それぞれに掛けた。

一部は屋根にも放り投げた。

遠くまで飛ばせるように割木を束ねて投げたそうだ。

(H25. 5. 1 記)

横田町の実六久の焼きそば

2013年08月19日 07時29分20秒 | 食事が主な周辺をお散歩
昨年の12月にオープンした大和郡山市横田町の実六久(みろく)

自宅前に新造したお店だそうだ。

送迎中に見かけるお店が気になっていた。

隣村の白土町の住む婦人たちの話では安価で美味しくてボリュームがあると云う。

できた当所は何のお店か判らなかった。

走り抜ける道すがらに拝見した看板はダイニングキッチンとある。

場所に掲げられる看板が増えていった。

お好み焼き・焼きそばが「500円~」とある。

それは安いワンコイン。

一度は食べてみたいと思っていた。

チャンスはこの日。仕事を終えて取材地までの昼ごはんは実六久に絞った。

表戸を開けて席に着くなり注文したのが焼きそばだ。

どれにしますかとメニューを持ってこられた。

イカ、エビ、ブタのどれであっても価格は500円の焼きそば。

この日に選んだのは我が家の定番のブタ。

たまにはイカも入れるがブタがなければ味が出ない。

鉄板のテーブルで焼くのかと思えば違った。

お店のご主人が調理鉄板で焼いた大きなテコに盛ってきた。

テーブルの鉄板には僅かな火を着けてくれた。

冷めないようにということだ。

カツオブシにアオノリもかけてくれたブタ入り焼きそばの香りが食欲をそそる。

マヨネーズをピュルピュルとかけた焼きそばはさらに美味しく見える。



がっつりそのまま鉄板で食べようと思ったが大きいだけに口へ運ぶのは難しい。

小皿に少しずつ移し替えて口に入れる。

「美味い」の形容詞が心の中で叫ぶ。

ジュルジュルと口の中でとろけるような触感。

スーパーで売っている焼きそばとは大違いの美味さであるまったり感はどこから。

食後に教えてもらったその謎は天カスだ。

油カスではないだろうかと思っていたのだが、そうではなかった。

天かすはお店で作った際にできる天ぷらのカス。

これが美味さを引き立てる。

なかなか減らない焼きそば。

小皿に何度よそったことか。

食べ癖になりそうなボリュームたっぷりの焼きそばに惚れこんだ。

昼食時間に余裕があるときはお好み焼きを注文することにしたいと思った実六久は治道小学校のまん前にある。

昼は11時半からの開店だ。

同店では近くの駅まで送迎することができるようだ。

(H25. 5. 1 SB932SH撮影)

山田町の苗代マツリ

2013年08月18日 08時55分33秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市山田町の苗代作りは4月27日から始まっていた。

自治会長が云うには28日、29日が最盛期だったそうだ。

大安など良い日を選んで苗代マツリをすると話していたのはO家のご主人だった。

苗代作りを終えてお札を挿す。

松尾寺から授かったお札である。

前年の秋に収穫したお米を寄進したお礼に授かったお札は同寺で正月初めに行われる修正会の祈祷札である。

結界につき入堂および撮影は禁じられている修正会であるが、祈祷ご加持された牛玉宝印書は寄進者に配ると聞いている。

O家の苗代に祭られたお札がそれである。

山田町辺りの苗代を幾度となく探してみるがどこにも見当たらない。

どうやらO家の苗代だけのようである。

この年は4月30日が大安であった。

その日の朝にされたのであろう。

その際には一升のお米を一升枡に入れて奉ると話していた。



翌日の5月1日朝にはそれが見当たらなかった。

お米は奉った直後に持ち帰ったのであろう。

(H25. 5. 1 SB932SH撮影)

今市の苗床作り

2013年08月16日 08時49分41秒 | 奈良市へ
奈良市窪之庄町の苗代はまだであった。

昨年の5月5日に田植えをされていたご主人と奥さんの話しによればだいたいこの日らしいと聞いていたが・・・。

後日に尋ねた結果は5月GWだったそうだ。

しかも、神社行事でたばったゴボウサンのお札を挿すことも失念したと云う。

今年はなにかと忙しかったH家をあとにして今市町に向かった。

今市の田んぼは度々訪れる。

大晦日に立てる田んぼのシメナワサンのことである。

これは昨年の1月に撮っておいた田んぼのシメナワサンだ。


(H24. 1. 5 EOS40D撮影)

始めて拝見したのは平成23年2月だった。

気にかかるからときおり訪れるが田んぼの主は見つからず、であった。

田主を探し続けて2年後のこの日にようやく巡り合えた。

苗床を作っていた田主にお話を伺った。

つい、先日に樹木から落ちて木の根っこに腰を打った。

傷みがあるものの苗床は作らなければならない時期である。

方形の苗床は泥で固めて作る。

平べったい台形である。

スキで泥を掬いあげて苗床に置いていく。

スキを水平にして滑らかに均す。

奇麗になった苗床は少しずつ移動しながら作業を進めていた田主のMさん。

数日後の5月1日の午後にはモミオトシをする。

苗箱は1枚の田んぼに200箱。

一丁八反の田んぼの育苗には400箱も要る。

苗箱22枚で一反になる計算だそうだ。

二毛作をしていた時代よりも10日も早くなったという苗代作り。

その場に注連縄を立てていたのである。



苗代に立てた注連縄はオシメサンと呼ぶ。

12月大晦日の16時ころに立てる。

その日までに予め作っておいた家の注連縄。

その数は多い。

玄関や蔵、農具、機具などに飾る際にはモチを2個ずつ供えるが、苗代のオシメサンには御供をしない。

その代わりではないが、ミカン、ウラジロ、ユズリハを飾る。

ウラジロとユズリハは隣の家で貰ったもの。

家の注連縄は不浄のトイレにも飾る。

正月を飾った家の注連縄は1月15日の朝のとんどで燃やす。

現在はM家の田んぼで燃やしているが、かつては村の大とんどであった。

大とんどの場はチバミ墓地の地蔵さんの前辺りの田んぼだったそうだ。

とんどで焼いたモチを食べれば歯が丈夫になると云われている。

いわゆるハガタメのモチである。

モチで思い出されたMさんの話題。

二月堂修二会のダングのモチ。

壇供(だんぐ)の餅のことである。

堂内の須弥壇に積みあげられた餅は本尊十一面観音さんへのお供え。

修二会が満行したのちに下げて配られるのは修二会および寺に深く関係するご縁のある方に、である。

そのご縁にあたる今市の「二月堂講」の講元はお下がりの餅を貰ってくる。

「二月堂講」の別称は「観音講」に納得がいく。

たばった餅を食べれば病気にならず、元気で健康になると云われている。

お金で寄進していると云う講社のダングモチはありがたい餅なのである。

二月堂に掲げられる大きな提灯がある。

それには「今市」の文字が書いてあるそうだ。

天正、元和の時代に寄進した提灯だと伝わる。

その提灯は今市町の他、奈良市窪之庄町、天理市蔵之庄町の村から寄付を募って寄進したらしい。

12月28日、29日、30日は隣村の池田町に3組あった「チンツキ」の組。

その組に加わって10年間も手伝ってきた「チンツキ」。

昭和50年半ばまで手伝っていたころのことだ。

餅搗き道具の木臼や杵、ヘッツイサン、割木をリヤカーに載せて京終(きょうばて)やならまちへ出かけていった「チンツキ」。

各村ではモチゴメを準備していた。

その場でモチゴメを蒸して杵でモチを搗いた。

モチを搗けば「ツキ料」を貰った。

そして次の村へと向かう。

村から村へと旅をするように「チンツキ」をしていくには時間がかかるから朝は5時に出発していた。

夕方には餅搗きを終えて戻ってくる。

次の朝も5時から出発していた3日間である。

餅を搗いて村を巡っていた「チンツキ」の体験談である。

M家では苗代作りを終えた直後に春日大社の御田植祭神事でたばってきた松苗を水口に立てる。

町内の代表者が授かった松苗は今市の各家に配られる。

苗代に立てる水口祭にはカキの葉にハゼゴメをしていた家もあったと話す。

3月の彼岸の入りにチバミ墓地で行われた今市のコネンブツがある。

先月の17日に取材させていただいた。

講中の小念仏講、大念仏講とも講田があったそうだ。

その今市には「春日講」もあるそうだ。

コネンブツ取材の際には行者講もあると云っていた。

今市の氏神さんは春日神社。

神送りの還幸当家祭の行事があるらしい。

田主さんの名は楢太郎。

天理市楢町の楢神社に参って「楢」の字を授かった。

縁起によれば楢神社の創建は神護景雲元年に加賀の国の石川郡白山の嶺に神現れて真榊にのり給ひて楢村に着いたという。

後世に同神を鬼子母神に擬し子供の神となったと伝わる「子授けの御神徳」にあやかってつけた「楢」の名である。

楢神社に所縁のある楢太郎さんは二十歳のころまで楢神社のヨイミヤ(10月12日)には家で提灯を立てていたそうだ。

(H25. 4.29 EOS40D撮影)

矢田町山田原水口の守り神

2013年08月15日 09時43分47秒 | 大和郡山市へ
矢田町の山田原ではもう一カ所でイロバナがある。

昨年の5月初めに見た苗代のイロバナはこの年もされていた。

イロバナをしていたご主人は山田原垣内の住民T氏。

昭和2年生まれの86歳だそうだ。

今年の苗代作りは前日の28日に行ったと云う。

苗代を作り終えて水口に花を添えた。

それがイロバナであるがお札は特に見られない。

イロバナを水口に挿すのは水口を守る神さんだと云う。

或いは水の番だとも話すTさん。

この年はツツジとビシャコを挿したが、かつては山に生えていた松の芯もその場に挿していたと云う。

松の芯はローソクのような形をしている。

その松は枯れてしまって消えた。

それからはしなくなったと話す。

その昔のことだと前置きされて語った水口の守り神。

当地の山田原付近では竹に挟んだお札を見たことがあると云う。

そのお札は春日さんのお札だったのか、それとも寺のお札であったのか判らない。

春日さんであれば御田祭神事後に配られる松苗だ。

お札であると想定するのなら近くの松尾寺か矢田寺であろう。

T氏の苗代には何本かの曲げた竹が見られる。

これは犬除けの竹。

ヤライと呼ぶ。

田んぼを荒らすのは、犬だけでなく人間も居る。

特に子どもであると話す。

母親に連れられた子どもが田んぼを走り回る。

畦道を一般道だと思い込んでいた母親と子ども。

田んぼは畦道も含めて所有者の領地。

畦道や田んぼに入って荒らすのは止めてほしいと伝えたときの返答が「一般道」。

これには驚いたと話す。

山田原の北側は何十年も前に大規模開発された新興住宅地。

引っ越してきた町暮らしの新住民は田んぼの大切を知らないと零すご主人の話しであった。

(H25. 4.29 EOS40D撮影)

矢田町山田原苗代イロバナに鯉幟

2013年08月14日 06時24分51秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市の西丘陵地。広大な地域は矢田町。

北方は航空祖神として崇められる矢田坐久志玉比古神社、古刹で名高い鍋蔵山東明寺や通称矢田寺と呼ばれる金剛山寺矢田寺などの古社寺がある。

山田町に隣接する矢田町南方では古社が見られないが、その山田町には日本最古の厄除け霊場である松尾寺がある。

松尾山または補陀洛山の山号をもつ。

正月初めに行われる行事がある。

お寺は修正会であり、神社はツナカケである。

東明寺ではその行事は見られないが、村の安全を祈願するご加持するごーさん札がある。

矢田寺は「牛王 金剛山寺 宝印」で、松尾寺は「補陀洛 西松尾 寺牛玉」の版木文字だ。

矢田坐久志玉比古神社では「牛王 久志玉比古大明神 寶印」の文字を墨書された祈祷札である。

これらのお札を授かるのはお寺や神社の関係者。

主に農家の人たちである。

そのお札は苗代を作った際に水口に立てて豊作を願う。

苗代をされる時期は地域によってさまざまだ。

北方では早い処で20日。

山田町では27日から始まった苗代作り。

28日、29日が最盛期だったと話す自治会長。

山田町から北へ下れば山田原と呼ばれる扇状地。

小字釜ノ口辺りである。

小字の由来は聞いていないが、第二種風致地区に指定されている付近である。

昨年に拝見した苗代のイロバナはこの年もされていた。

ご夫妻は矢田町最南端の山田原垣内の住民。

お会いできなかったが、イロバナを撮らせてもらった。

撮影の被写体はもちろんイロバナを目立たせたい。

後方に苗代を囲った幌を配置する。

緩やかな扇状地を登っていくツーリングが目に入った。

シャッターを押したファインダーを見ればその奥に鯉幟が揚がっている。

昨今は揚げる家も少なくなった。

もし、良ければと思って家人を訪ねた。

そこではツチオトシの真っ最中であった。

この日は午後から始めたという苗箱作り。

山土をトラックいっぱいに積みこんで自宅まで運んだ。

その土を苗箱に詰めていく。

詰めるというよりも機械で土を落として積める作業である。

苗箱は1000枚作る。

一般的な農家は100枚~200枚の苗箱を準備するが、当家が相当な量であるのは田んぼが5町もある生産農家。

田んぼは山田原でなく、遠く離れた田中町や満願寺町。

1町は100aの10反。

5町となれば500aの50反も稲作品種はヒノヒカリである。

明日もツチオトシの作業をする。

翌週の5月4日、5日はモミオトシをして苗代作りをする。

一日について500枚の作業は家族総出である。

当家ではイロバナはしていないが、「あれはまじないだ」と話す。

そんな話題を提供してくれた当家に揚がった鯉幟。

承諾を得て撮らせていただいた。

弟夫妻家H家の子どもは女児であるゆえ鯉幟を揚げることはない。

N家で揚がっているのは兄家であった。

小学男児が一人居る。

その男児を祝う鯉幟であったのだ。



山田原を吹き抜ける薫風は爽やかな風。

気持ち良さそうに青空を泳いでいる。

(H25. 4.29 EOS40D撮影)

再び産直市場よってっての広島焼き

2013年08月13日 07時17分15秒 | あれこれテイクアウト
野菜がほしくなれば立ち寄る「産直市場よってって」は大和郡山市の小泉町にある。

特売ではなくて毎日が安い野菜。

付近の生産者が大切に育てた抜きたての野菜は自らが値段をつけるそうだ。

スーパーで売られているような画一的な価格でなく少なければ安価。

小さければこれもまた安価。

二人暮らしに丁度良い量は買いやすい。

この日に訪れたのは野菜目当てではなく広島焼き。

店内で作っている広島焼きはできたてほかほか。

温もりがある惣菜一品である。

何カ月か前からは、毎日売っている広島焼きは300円。

試しに買って食べたら美味しかった。

かーさんも美味いと云う。

味を占めた広島焼きが食べたくなって仕事帰りに買ってきた。

何週間か前にも食べたくて立ち寄ったが、その時は売り切れだったのか棚には並んでいなかった。

この日もそうであれば残念と思ったがそうではなかった。

作りたてがいっぱいあった。

評判なのであろう。

パックの蓋を開ける前から漂う美味しい香り。

大盛りのように見える広島焼きの中からはキャベツがどっさり。

ソースを絡めて食べる。

アオノリ、花カツオにマヨネーズもかかっている。

食べても、食べても中から出てくるのはキャベツ。

焼きそば麺がなかなか現れない。

右から順に箸をつけて食べていった。

中ほどになってようやく出てきたそば麺。

塩、胡椒は感じない程度だがソースで絡めれば美味いのだ。

細切りのショウガも出てきてやっとそれらしくなった味わい。

豚肉はコマ切れ肉だろう。

ときおりそれらしいものが歯に当たる。

価格の割にはボリューム満点の広島焼きに120点をあげよう。

(H25. 4.29 SB932SH撮影)

堺大浜公園の花園

2013年08月12日 07時47分59秒 | もっと遠くへ(大阪編)
木造最古の旧堺燈台を拝見してやってきた大浜公園。

停めた駐車場にはサクランボの実をつけている。

桜の品種はオオシマザクラ。

桜餅に利用されている葉っぱだ。

若葉を摘み取って塩漬けする。

クマリンという物質が特徴的な芳香をもつオオシマザクラのサクランボは食べられるがえぐみが強い渋み。

流通している食用のサクランボはセイヨウミザクラという品種だそうだ。

オオシマザクラの桜花はすでに終わっていた大浜公園を歩いていけばどこからともなく香ってきた花の香り。

その香りは化粧のような香りだ。

園内に漂う香りに吸い寄せられる。

これかもと腰を落として鼻をかいだ。

これなんだ。

一面に咲き誇る花はセキチク、それともコスモスでしょうか。

浅香山淨水場のツツジは拝見できなかったが、大浜公園にもたくさん見られる。

落ち着きのある散歩道は堺市民の憩いの場のように感じた。

芝生の公園内では家族連れやイベントも開催している。

揃いのジャンパーを着ていた団体が踊りのパーフォマンスもやっていた。

ここは期間限定でバーキューも可能なようだ。

体育館ではテコンドーの競技もされている。

団体と思われる大型観光バスもあった。



猿島もあるようだが猿はどこに・・・。

随分昔のことだ。

小学生だったか、中学生のころか。

近所の悪ガキどもと来たことがある。

そこに居た猿は猿山に群がっていたことを覚えている。

確かここらへんにあったと思う大浜水族館。

閉館となった水族館
であった。

悪ガキの親分が「水族館を探検しよう」と言った。

柵を越えて入場した水族館は当然ながら扉は閉まっている。

1階だった、2階であったのか覚えていない。

そこから開いていた窓を発見した。

開いているが手は届かない。

回りを見渡せば梯子があった。

それを立てて上がり込んでいった悪ガキ連中。

後ろから付いていって登った梯子が突然メキメキを崩れた。

掛けていた足はそのまま落ちていった。

両脚の太股から噴き出す血。

梯子は木製。

足を掛ける部分は両サイドから釘で止めていた。

その足掛け部が折れたのである。

太股の傷は尖っていた釘の先。

それが何十センチも傷つけた。

噴き出した血を止めたのは持っていた手ぬぐい(タオル)。

夏の季節であったのだろう、汗ふきに持っていたのだ。

きつく縛って血を止める。

そんな状況であるも内部に侵入した。

何もない空間だけの水族館だった。

大浜水族館は明治36年(1903)に第5回内国勧業博覧会が閉幕したのちに払い下げされて堺市営水族館としてオープンした。

昭和9年(1934)に発生した室戸台風の高潮に襲われた水族館は大破した。

再建したのは昭和12年(1937)のことである。

戦後の昭和28年(1953)に大改装されて賑わいを取り戻したが臨界工業地帯の造成によって大浜海岸が消えるとともに水族館の客足が遠のいた。

そして閉鎖した時代が昭和36年(1961)である。

悪ガキ探検隊が訪れたのはその後のことであることを計算すればおそらく小学6年生であったかもしれない。

今の時代では許されない行為だが50年も前のこと。

深い傷跡は20cmにもおよぶ。

時効だと思うが、振り返って「ごめんなさい」とお詫びしておこう。

大浜水族館の跡地はどこかと思えば芝生の公園であった。

面影を残すものは一切ない。



その場辺りから風に乗って甘い香りが漂ってくる。

何の香りかと足を運べばそこにあった藤の棚。

長く垂れさがる満開の藤の花の香りであった。

散歩道にも藤棚があったが、そこでは香りがない。

品種が違うのか、それとも花つきがまだなのか。

甘い香りの藤棚の下に居るだけで身体中が包まれる。



その場で佇む人も多い。

浅香山淨水場へ行けなくて立ち寄った大浜公園は花の園は穴場の憩いの地であった。

大和川、チンチン電車、三宝公園プール跡地、旧堺燈台、大浜海岸跡、水族館跡地などは私の原風景。

もう一つ思い出したのは木製の灌漑用の揚水風車だ。

三宝、湊、石津、浜寺で見かけたことがある6枚羽根。

その時代はいつだろうか。

小学生高学年から昭和38年当時の中学生にかけて自転車で走り回っていた堺の浜地帯。

旧国道24号線沿いに走っていた。

畑地は砂質地だったと記憶する。

浜風を受けて回っていた風車の光景だ。

1960年代から減滅していった風車は昭和41年(1966)には10余基を残す状況であったようだ。

堺の歴史・文化施設を写真などでくまなく紹介している「このまちアーカイブス」が詳しい。

(H25. 4.28 SB932SH撮影)

堺大浜木造最古の旧堺燈台

2013年08月11日 08時00分21秒 | もっと遠くへ(大阪編)
米寿祝いの食事のあとは花巡り。

この時期はツツジである。

目指すは堺市水道局のツツジまつり。

観光ガイドにも載っている浅香山淨水場のツツジである。

子どもが小さいときに出かけたことがある浅香山淨水場は行程を思い出しながら北上した。

いつのまにか大和川を越えていた。

そこは大阪杉本町。行き過ぎたのである。

うろ覚えの場所は30年も経過すれば記憶もとぎれとぎれ。

間違って東に向かって南に戻れば北花田。

ぐるぐる回っている。

なんとか阪和線の浅香駅まで来たがどうも違う。

道路工事の警備にあたっていた男性に聞けば駅を越えたもっと西側にあるという。

行っては戻るの繰り返しで着いた浅香山淨水場には駐車場がない。

住宅街に囲まれた浅香山淨水場にはタイムパーキングすらない。

塀から見えたツツジの花を見たから満足したというおふくろ。

諦めて向かった先が大浜。

浜寺公園もそうだったが住之江からは自転車を漕いで遊びに出掛けたこと多し。

子どものころの交通量はそれほどでもなかったからスイスイだった。

大浜を目的地にしたのは木造最古の旧堺燈台を見たかったからだ。

二人とも見たことがないというだけに即決で決まった目的地。

あそこらへんにあるのは覚えているが道路事情は芳しくない。

懐かしい三宝公園を通り過ぎる。

公園には確かプールがあったと思う。

わりあい近くだった三宝公園プールも自転車だ。

中学生から高校生にかけて泳ぎまくった。

堺市議会速報によれば2004年の予算案でプール廃止をあげていた。

その年の平成16年に閉鎖されて全面を緑地公園化されたようだ。

高校生のときにアルバイトしていたペプシコーラ工場は三宝町だったと思う。

違っているかも知れないがこの辺りだったと思う昭和43年か44年のころ。

中学時代の友人とともに夜勤もしていたコーラ洗浄の汚れ瓶の検出。

機械からごっそり出てくる瓶が奇麗であるかどうか目検していた。

そこを通り抜ければコーラが瓶詰めされる。

製品の検査は女校生のアルバイトが居た。

夜勤務を終えて工場外でキャッチボールをしていたのは夏の季節。

暑かったことが記憶にある。

その女高生たち(大阪の美章園)と仲良しになって文化祭にも行った。

「チエちゃん」と呼ぶ子は二本のおさげ髪。

懐かしい思い出の名前は数年後に楽曲された「チエちゃん」。

井上陽水さんの名曲だ。

それはともかく思い出の地傍にある旧堺燈台に行くには大浜公園の駐車場に停めなければならない。

2時間で200円だ。

そこから徒歩で向かう燈台地。

道路を跨る陸橋を渡る。



自転車も通れる陸橋には→で記している燈台への行先案内。

それに沿って行けば到着する。

400mもある徒歩道。

ときおり見え隠れする旧堺燈台は六角錘形(点灯器械は八角形)の木造建築。



美しい建築物は往時の姿をとどめる。

ここに燈台があるということは先が海。

当時はここが海岸線。

大浜海岸があったことを覚えている。

高い防潮堤の向こうは海だった。

僅かに砂浜があった。

昭和38年の中学生時代だったと思うころにやってきた。

もちろん自転車である。

防潮堤に登って海岸を見れば波に打ち上げられた何頭もの牛が死んでいた。

黒牛であった。

なぜにそこにあるのか判らない。

牛を乗せた船籍が暴風雨で沈没したのだと子ども心に思った日であった海岸線はかつての大浜海岸。

海水浴で賑わったと伝えられる。

大浜の湾岸線はいつできたのだろうか。

昭和32年(1957)から昭和41年(1966)にかけて堺市沿岸部を造成、整備された臨海工業地帯。

湾岸線が全線開通した当時。

昭和48年ごろだったと思う。

昼、夜となく自動車を走らせていた。

特に夜間の工業地帯は巨大な生き物のように見えたことを思い出す。

エントツかパイプか判らないが、そこから吐きだす白い湯気か煙。

まるで息を吐く巨人に見えたのである。

その様相は今でも変わりないらしく、写真家が求める被写体になっているそうだ。

被写体と言えば木造最古の旧堺燈台もその一つ。

産経新聞で紹介されていた映像に心を躍らせる。



旧堺燈台は明治10年(1877)に堺住民の寄付と堺県から当時の政府工部省に申請した補助金賄いで建てたそうだ。

高さは11.3mもある木造の洋式燈台はおよそ一世紀に亘って堺港を出入りする船の航海の安全を見守ってきた。

埋め立てが進んで臨海工業地帯ができた昭和43年((1986)に役目を終えた。

ペプシコーラでアルバイトをしていた時期である。

老朽化が著しくなった燈台は平成13年から18年にかけて保存修理されて平成19年に完成。

普段は外側からしか見ることができないが、7月の「海の日」には内部が一般公開されるらしい。

後背から浴びる逆光に照らしだされる燈台は実に美しく時間を忘れるほどだ。



親水ゾーンを見下ろす阪神高速湾岸線のループも美しい曲線を描く。

バックを夕景で撮ってみたいと思ったのは云うまでもない。

三重県の旧安乗燈台に次ぐ日本で2番目に古い燈台である旧堺燈台。

昭和47年(1972)に国の史跡(土台ゾーン含む)に指定された。

土台の石積みは備前の国(岡山県)出身の石工である継国真吉が携わり、点灯機構はフランスのパーピエール社から購入して英国人技師のピグルストン氏が設計・築造、建築工事は堺在住の大眉佐太郎が行った。

(H25. 4.28 SB932SH撮影)