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小説 囚われた男(21)

2006-12-31 11:22:15 | 小説

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『バーニー』に入った生実は、店内を見回すと午後十時だというのに混み合っていた。ジムがいつものように微笑んで迎えてくれた。テルマが目ざとく見つけて近づいてきた。
「ハーイ、元気? 二日か三日ほど前、久美子が来たわよ」
「そお、増美と二人で?」
「うん」といって浮かない顔で返事が返ってきた。
「どうしたんだい? いつものテルマじゃないね」どうやら増美とうまくいかず、久美子との三角関係に悩んでいるようだ。
生実は、ちょっと意地悪な気分で
「明日の夕方六時ごろ、女の友人がここへ来ることになっているんだ。彼女はビアンだと言っていたなあ。興味ある?」テルマのいたずらっぽい目がキラリと光った。
「どんな女(ひと)?」早速テルマの詮索が始まった。
「素敵な人だよ。今はこれだけ」
「いやーね。意地悪!」とテルマ。
「だって明日本人が来るんだから実物を見たほうがいいだろう?」生実は、これでこの話は終わらせたかった。テルマは納得したらしく「わかったわ。じゃあ、あとで」言い捨てて歩み去った。

 店内は、一人の男や女も多くそれぞれの思惑に弾みをつけたいと、野生の動物のように目だけが異様に輝いている。こちらを向いて品定めしている女も何人かが見える。男も見ているのには苦笑いする。
 久美子や増美、それに小暮さやたちの抜群のプロポーションやルックスの前では、比較にもならないと言ったら、女たちは猛烈に怒るだろうなあ。などと考えているうちに、自分の運命を決めなくてはという思いに捕らわれていた。

 東の妻、(本当は潜入捜査官)や子供を殺すというのはとても出来ない。殺し屋としてクールになる訓練を積んだが、子供もターゲットとなれば、意識の奥深いところで生実が本来持っている情という感情が頭をもたげてきつつあった。生実が東の妻や子供に手をかけなくても、誰かが仕事をするだろう。そして自分も道連れになる。
 小暮さやの言うことが本当かどうかは大して問題でない気がしてきた。生き残る手立てとしては、千葉やその背後にあるものを叩き潰すことしかない。よしこれで決まりだ。

 生実は、ジュークボックスの曲をジョニ・ミッチェルが五十代後半に歌ったなんともロマンティックな「青春の光と影(ボス・サイド・ナウ)」を選んだ。ゆったりとしたメロディ・ラインはうっとりとさせてくれる。この曲は亡き妻の一番好きな曲で、今でも聴き入っている姿が鮮明に思い出せる。

 春の暖かいそよ風にゆれるレースのカーテンの陰から、澄んだ瞳をこちらに向けながら微笑んだ姿を。ジュークボックスにもたれかかって目を閉じていると、瞼の奥に熱いものがこみ上げてくるのがわかった。おおよそ十年の間、無かった感情の発露だった。
コメント
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