昭和25年(1950年)7月2日未明青年僧、林承賢(21歳)の放火によって金閣寺が全焼した。逮捕されたときその理由について、「世間を騒がせたかった」「社会への復讐のため」などと言っていたが、実際のところは「自身、病弱であること。実家の母から過大な期待を寄せられていること。同寺が観光客の参観料で運営されており、僧侶よりも事務方の方が幅を利かせるなどの現実から、厭世感情から来る複雑な感情が入り乱れていた」《ここまでウィキペディアからの引用》
焼失前の金閣寺
その後再建された金閣寺
書き出しは“幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。写真や教科書で、現実の金閣をたびたび見ながら、私の心の中では、父の語った金閣の幻の方が勝ちを制した。父は決して現実の金閣が、金色に輝いているなどと語らなかったはずだが、父によれば、金閣ほど美しいものは地上になく、また金閣というその字面(じづら)、その音韻から、私の心が描き出した金閣は、途方もないものであった”
この金閣が一人の人間の精神風土に、多大な影響を及ぼしていく様を、美しい文体と論理的な肉付けで、さきの世俗的な放火理由より一段と昇華させる。
哲学的な思考に恐れをなす私は、むしろこの金閣が、主人公のアバンチュールを邪魔することに奇異でもあり面白がってもいた。
友人の下宿の娘とキスをして、娘の太ももに手を差し入れようとしたとき金閣が幻のように現れる。何もしない主人公に、娘はさげすみの目を向ける。
また、友人の女であった相手が乳房をむき出しているにも拘わらず、またもや金閣が現れ悄然として、女から障子の音高く締め出される。
とはいえ、金閣寺を焼失させようと決めた後は、郭で女と交わっても金閣の邪魔はなかった。全体から見ればこんな俗物的記述はほんのわずかで、この作品の品位をいささかも損なってはいない。
難解な記述や単語が出てくるが、それでも惹きつけられるように読み進められたのは、三島由紀夫の天才的文才なのだろう。
この作品は昭和31年(1956年)《新潮》1月号~10月号に発表された。三島文学の代表作の一つに数えられている。そして、米、英、フランス、ドイツ、フィンランド、スウェーデン、スペイン、デンマーク、オランダ、イタリアで翻訳出版されている。