著者あとがきの一行目“正直な話、当初この本をお頼まれしたときは、もっと気楽にできるはずでした”この「お頼まれしたときは」という言葉にワードのチェック機能も不自然な日本語ではないかと指摘するほどで、わたしも一寸驚いたがこれが東京方言の山の手言葉だと気づくまで少々時間がかかった。
「おばあちゃま」なんて言うのもそうだろう。この言葉も廃れてきているそうだ。
村松英子という女優の舞台や映画、テレビを見たことがないわたしは、三島由紀夫をどのように切り刻んで読者の前にさらけ出すのかと思っていたが、敬愛する三島由紀夫への鎮魂のうたになっている。
読み物としてはそれほど感銘も受けないが、中にコロンビア大学の名誉教授(日本文学)。東京大学大学院で日本文学を専攻。「源氏物語」の全訳ほかがあるサイデンステッカー氏の言葉が印象に残る。
“私が最も評価するのは、三島さんの批評眼です。他の追随を許さない。卓越したすばらしさですよ。例えば、谷崎潤一郎の文学を「美食の文学」、川端康成の文学を「旅の文学」と、三島さんは一言で表しているが、けだし名言です。
よほど深い洞察力と、最高の修辞力(レトリック)がなければ、すらりと一言であれほど的確な表現ができるものではないでしょう”
それからもう一つ「ブロードウェイの大統領のような重鎮」といわれ演出家で劇評家のハロルド・クラーマンが演出を頼まれての来日のときの模様が書いてある。 かなり厳しい演出家で「そんな恥ずかしい演技は寝室でやれ。観客の前でやるな」あるいは「演技はナマではダメだ。模倣といっても抑制のない汚い演技はダメだ。模倣を作り直して創造するんだ。自然な演技なんてありはしない。自然さを演じるんだ」
そして英子に言うのは「英子、舞台に表れる『心の弾み』を大事にしなさい。役者の魅力は『心の弾み』なんだ。
静かな演技でもそれはにじみでる魅力になる。弾みのない役者には、わたしは興味がもてないのさ」映画にも共通するのだろうから、これから気をつけてみてみたい。
村松英子は、1938年3月31日生まれ。兄に評論家の村松剛がいる。品のある理知的な顔立ちが印象的だ。