このお寺から埼玉県に入る。国道16号線は相変わらずの渋滞、信号機の駅入口の標識が見えたのはもう正午はすぎていた。東武野田線の豊春駅への道は、江戸時代に作ったとしか思えないし、今の時代、車のすれ違いもままならない。歩く人も苦労しているみたいだった。それにシャッターが降りている商店も見かける。駅から2キロほどでお寺に着いた。
さいたま市岩槻区慈恩寺139という所在地にあるこのお寺は、天長年間(824年~834年)円仁の開山によって創建されたと伝えられる。天正18年(1590年)関東に入部した徳川家康から翌天正19年(1591年)に寺領に寄進されている。
江戸時代に入ると江戸幕府のほか岩槻城主からも帰依を得た。それに、日中戦争のさなかの昭和17年(1942年)に、南京市の中華門外にある雨花台で、偶然旧日本軍が発見した玄奘(げんじょう)の遺骨がこの寺に奉安された。
ちなみに玄奘というのは、玄奘三蔵、唐代の中国の訳経僧、三蔵法師として知られている。その遺骨というのは、縦59cm横78cm高さ57cmの石槨(せっかくと言い、棺を入れる石造りの箱)で、中には縦51cm横51cm高さ30cmの石棺が納められていた。
石棺の内部には、北宋代の1027年(天聖5年)と明の1386年(洪武19年)の葬誌(この単語は、探した範囲では見当たらなかった。意味は分かるが)が彫られていた。石棺内に納められていたのは、頭骨でありその他の副葬品も見つかった。この玄奘の霊骨の扱いに関しては、日中で応酬を経た後、分骨することで決着を見た。中国側は、北平の法源寺内・大遍覚堂に安置された。その他各地にも分骨され、南京の霊谷寺や成都の浄慈寺など数ヶ寺に安置されるほか、南京博物院にも置かれている。ただ、どうしてこの慈恩寺に奉安されたのかは、記述されていない。さらに境内の建っている案内によると、岩槻市指定の文化財「慈恩寺文書」があるという。その説明には「平安時代の創立と伝える慈恩寺は、坂東札所などとして広い範囲の信仰、巡礼者を集め、さらに歴代の岩槻城主や幕府の保護を受けた古刹である。当寺には岩槻城主太田資正(すけまさ)の天文18年(1549年)の判物以下、518点の古文書が伝えられている。内容は、寺領寄進状、慈恩寺法度等の幕府や岩槻藩の保護・統制に関するもの、寺院の組織・経営に関するものその他がある」と書かれてある。
南蛮鉄灯籠
ほかに、さいたま市有形文化財として、南蛮鉄灯籠がある。