東松山市岩殿1229の地にあるお寺にも、道に迷いながらたどり着いた。なんだ、いつも迷うなんて、文明の利器ナビゲーション・システムなら迷うこともないのにと思うかもしれない。わたしも重々承知しているが、頑固な性格もあっていまだに道路地図を頼りに走っている。機械に指図されるのは我慢ならない。しかも迷うのもドライブの楽しみの一つと心得ているとあっては、ナビゲーションなんて生涯つけないだろう。
県道212号線沿いの大東文化大学の広大な敷地を右手に見て、箱根駅伝でおなじみの大学だなと思いながら坂道の途中にある正法寺の看板が目に入った。車を降りると風が冷たい。小さな駐車場は車数台でいっぱいだった。小型のマイクロバスが一台停まっていて、お遍路装束の人が乗っていた。札所めぐりの人たちなのだろう。仕方がないので、たまたま休業の看板が下がっていたそば屋の駐車場に停めた。
お寺はこの冬の時季、少しうら寂しさが漂っていた。源頼朝の乳母である比企尼の甥で、のちに養子となり鎌倉幕府の有力御家人の比企能員(よしかず)が頼朝の命により復興した古刹である。天正二年(1574年)僧栄俊が中興開山となっている。
天正十九年(1591年)徳川家康より寺領二十五石の朱印地を与えられた。観音堂は養老年間(717年~724年)僧逸海の創立と伝えられ正法庵と称し、鎌倉時代に坂東十番の札所となった。千手観音が祭られており、西国三十三番、坂東三十三番、秩父三十四番とセットされる札所の一つ。源頼朝の妻、政子の守本尊として信仰が厚かったといわれている。仁王門の仁王は運慶の作といわれている。
そして坂上田村麻呂の伝説がある。延暦十年(791年)桓武(かんむ)天皇の勅命によって奥州征伐に向かう途中、この観音堂に通夜し悪龍を退治したというもの。なお、このお寺は、戦国時代には数回の兵火で焼け、現在の建物は天明六年(1786年)の造営と伝えられる。なるほど建物は古色蒼然としていた。
地元の人だろう、ウォーキングに訪れているように見受けた。今日の最後のお寺、慈光寺には夕闇迫る薄暗い中についた。写真のフラッシュ撮影では雰囲気が出ない。今回は断念する。かなり広大な敷地のお寺で、春の季節に再訪することで帰路についた。順調に帰ったかというと、ご多分にもれずやはり迷ってしまった。
陽はどっぷりと沈み、車のライトでちかちかする眼をしょぼつかせながら、夕方というのにシャッターが降りて淋しくなった商店街を通っていった。ぼんやりと考えにふけっていて気づいたのは、札所めぐりもいいが、ただ写真を撮るだけというのも、なにか不足しているようにも思える。
何人もの高僧の名前が出てきたし、建築様式のことや仏像のこと、それに日本古来の生活様式などについて、もう少し掘り下げたほうがいいのかもしれない。たとえば仁王像。開口の阿形(あぎょう)像と口を結んだ吽形(うんぎょう)像があるというようなことなど。