西美濃・田名部郡(現在の岐阜県西部、関ヶ原、大垣市など)を領分とする蒔坂左京大夫(まいさかさきょうだいぶ)という7500石のお殿様に仕える小野寺家は、参勤道中の御供頭であった。二年に一度、参勤交代が行われるが、そのための準備万端を整え遺漏なく貫徹する責任者が御供頭だ。
江戸に生まれ江戸で育った19歳の小野寺一路は、急遽呼び戻されて実家に帰ってきた。それというのも西美濃の実家が失火で焼失、そのとき病気で寝ていた父も焼死したためだった。これはお家の一大事なのだ。実家はもともとお殿様から借りているもので、失火で焼失となれば大罪でお家断絶も仕方がない。参勤交代が二年に一度とはいえこまごまとした用事が山とある。代々そういう役柄の家でないと急ごしらえでは務まらない。そこで周囲は、倅(せがれ)の一路にその役を果たさせることにした。
困ったのはこの一路。何せ父の急逝で引き継ぎもない。どうしていいかさっぱり分からない。そんな時、父に仕えていた老僕から古記録を手渡された。表紙には「元和辛(かのと)酉(とり)歳蒔坂左京大夫様行軍録」とある。表紙をめくると「御供頭心得」と墨色が滲む。一路にとってこれしか手掛かりはなかった。
なるほどと「一路」を読んでいくが、この本を読むのはちょっと苦労する。何せ意味の分からない単語が随所に出てくる。パソコンを起動したまま読み進むという按配。「路考茶(ろこうちゃ)」暗い黄みを帯びた茶色。
「悉皆(しっかい)」残らず、すっかり、全部。
「銀覆輪(ぎんぷくりん)」器具の周縁をおおう覆輪で、銀または銀色の金属を用いてつくったもの。
お殿様、蒔坂左京大夫が面白い。お殿様には、江戸に正室の「すず」がいて、西美濃には側室の「ぬい」がいる。お殿様は、江戸の「すず」が愛おしくてたまらないが、「ぬい」には触れたくもないと思っている。
正室のすずは、江戸屋敷を安らかで明るい空気を醸し出す。千二百石の旗本家の出であるが十分に家格の違いを心得ていて、掃除・洗濯・料理とこまごまと働く。美人というほどでないにしろ、気性の良さが笑顔に表れてどんな時でも暗い表情は見せない。
一方「ぬい」は、思い出したくもない醜女(しこめ)で、わがままで、おまけにやきもち焼き。参勤交代の出発の朝というのに側用人が言う「お方様におかれましては、お殿様がお渡りになるものとばかり思うておられましたようで、たいそう気落ちなされておられまする」
お殿様は思う「チェ、またあれの要求か」奥廊下を渡って「ぬい。通るぞ」ぬいは色香とはほど遠い牝の匂いを撒き散らすうえにひどい腋臭(わきが)であった。
奥女中が障子を閉めた。ぬいが物怪(もののけ)の力でお殿様にかぶりついた。久しぶりのこと故小柄なくせにみっしりと実の詰まった石のような重さで、お殿様を押しつぶし「せつない、せつない」と言いながら錘(ふぐり=睾丸)を掴むのだった。
いやいやお殿様も楽ではなさそう。この女を抱くのかと覚悟を決めた時、奥廊下の彼方から甲高い老女中の声が聞こえた。
「御供頭の小野寺様よりィ、お殿様へェ。言上つかまつりまするゥ。御発駕御仕度につきィ、表向きにお出まし下されませェー」
お殿様は「助かった。小野寺一路。いかほどのものかは知らぬが、間のよいやつじゃ」
お殿様と言っても老人ではない。まだ40にも届かない精気があふれた男なのだ。でないと、ぬいがしがみつく筈がない。
一路にもちょっとしたロマンスがあった。投宿先の旅籠で出会った親の決めた許嫁「薫(かおる)」との出会いだった。。黒目の勝った愛くるしい薫。一目惚れの一路は「お役目をつつがのう果たし終えたら、そなたを頂戴したい。いかがか」薫は「あい」と恥じ入りつつ答えた。
元気いっぱいのお殿様を駕篭に乗せて、中山道を江戸へ12日間の旅が始まる。人やモノが動けば金が要る。一路はお殿様の屋敷で勘定方と旅費の交渉をして100両を獲得する。そしてこの勘定方が薫の父上だと判る。一路は思う「この父上を晴れて岳父と呼べる日が、いつか来るのだろうか」
さて、気になるのはこの100両。現代の価値に換算するとどれぐらいになるのだろう。ネットで調べてみると、1両17万円とか18万円などと出てくる。仮に18万円とすると、100両は1800万円。ちょっと少ないんじゃないかとも思う。なにせお殿様も含めておおよそ100人の人揃えなのだ。一日150万円。一人当たり一日1万5千円。これはどう見ても少ない。馬もいるからね。
当時の物価は、コメ1升3,750円、卵1個300円、味噌1kg1.300円、砂糖600g12,000円、酒1升6.000円、菜種油1升10,000円などと決して物価も安くはない。病人やけが人が出れば臨時の出費がかさむ。
そんな中、大雪の和田峠越えでお殿様は馬に乗って一番乗りを果たしたが、急に便意を催し麓の「永代人馬施行所」まで駆け下りたり、軽井沢の手前、追分あたりでは加賀百万石のお姫様の道中を追い抜くとき、お姫様は供頭の小野寺一路に声をかけ、かんざしを思い出に手渡されたりした。聡明で美人のお姫様に釣り合った男が居らず、思春期の煩悩に悩むお姫様は滅多にない若い男との出会いにトキメキの面持ちなのだ。
果たして弱冠19歳の小野寺一路は、人をまとめ与えられた経費で賄い無事に江戸入りを果たすのか。この参勤道中にはお殿様殺害の陰謀を嗅ぎつけた一路、犯人は誰か。ミステリアスな展開が待っている。