孝司は恥も外聞もなく大声で泣いた。そんな孝司をさゆりは立ち上がってテーブルを回り込んできて肩を抱いた。抱かれた孝司は、さゆりの暖かい体温を感じた。この暖かさがやがてこの世から一切が無となると思うと駄々っ子のように肩を震わせた。
子供をあやすように背中をさすりながら腰を落として、さゆりは孝司の顔を上向かせた。その唇にさゆりは口づけをした。いきなり生暖かい舌に唇を塞がれ、衝動的に孝司の舌もさゆりの舌を追った。しかし、続かなかった。以前なら激しく燃え上がったが、今日のショックには耐えられず急速に虚しさの中で喘ぐしかなかった。
「ごめん、さゆり。あまりにもショックだったよ」
「うん、分かってる。私も医師から言われて一週間ほど何も食べられなかったわ。最近になってようやく食べ物が喉を通るようになった」
孝司の右手がさゆりの頬に優しく触れ、さゆりの目を見つめた。キラキラと光る目は恐れてはいないようだが、悲しみが浮かんでいた。孝司の視界が浮かんだ涙でぼやけた。目をつむると涙が頬を濡らした。それを見たさゆりは、いたたまれなくなった。
何人かの男がさゆりを通り過ぎて行ったが、心に残るのはこの孝司だけだった。自分の命が消えようとしているとき、共に旅立ってくれるのは孝司しかいない。
孝司に打ち明け納得の上、共に天国に旅立つのが一番いいのは分かっている。しかし、一年前のむごい仕打ちを考えると確実性は低い。むしろ楽しい雰囲気、セックスでもいいがその中でワインに混ぜた青酸カリによって安らかに昇天できるのではないか。 とさゆりは考えている。
それが孝司は心からさゆりを思って泣いている。これは計算外だった。さゆりの心は揺れた。
「孝司さん、ワイン飲もうよ。病気の話は一時棚上げよ」
立っているさゆりを泣き腫らした目で見上げた孝司は「ああ、そうだね。雰囲気を壊してごめん。じゃあ、乾杯しよう」と言った。
赤ワインのボトル1本が二人の胃に消えた。この頃になるといつもの饒舌が戻ってきた。
「さゆり、体重減ったの?」と孝司。
「ううん、それが減らないの。というより変わらないわ」
「そう、一週間も食べていないしその後も一杯食べていないのにねえ。不思議だね。さゆりは、何も食べなくても一ヶ月ぐらい大丈夫かもね」
「それはどうだか。でも、今日は美味しいわ。孝司さんが来てくれたから」
「そうか。でも、あの手紙には驚いたよ。あんな別れ方をしたからね。どういう風の吹き回し?」
「ちょっと待って! もうワインないわよ。白ならあるけど。飲む?」
「なんでもいいよ。飲み明かそう!」
そう人生最後の……さゆりの頭の中で浮かんだ言葉を飲み込んだ。「うん、そうね」冷蔵庫からシャブリを取り出した。
栓を抜いてテーブルに置きながら「あの手紙はね。やっぱり孝司さんが私の一番好きな人だと気づいたからよ。バカな私よ」
「じゃあ、一年前は一番好きじゃなかったんだ」ワインの酔いは言葉を選ばなくなってきた。
「好きだんったんでしょうけど、気がついていなかったのかもね」
「そうか。それで男を引っ張り込んだんだ。あれは裏切り行為だったよ」
「裏切り? それを言うんだったら孝司さんも裏切っていたわよ」
「俺が? そんなことしてないよ」
「うそ! わたし見たんだもの。銀座で女性と手をつないで歩いているのを」
「それはいつのこと?」
「喧嘩別れしたときの10日ほど前だったかな」
「ふーん、実際にあったとして、それを知っていて俺をあの日呼んだんだ。さゆりのあてつけの場面を見せるために。そうだろ? あまりにもタイミングがよすぎたよ。今分かった。さゆりは意地悪だ」
「そういう言い方しないで! こじつけよ。たまたまなったことよ」
「見せられた俺の気持ち分かるかい? この一年間というもの一度も忘れることがなかった」
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