いつもの新聞HPで、南チロルがイタリア領となってから100年目だという記事がありました。
タイトルは「
南チロル:シルヴィウス・マニャーゴのライフワーク」
この人がシルヴィウス・マニャーゴです
以前にも色々書いていますが、
ブレンナー峠南側の
南チロルは
第一次大戦までオーストリア領で、もっと以前はブリクセン司教領でした。
第一次大戦勃発時、中立だったイタリアは、連合国(イギリス、フランス、ロシア)の「連合国側から参戦すれば南チロルをあげるよ」という誘いに乗って、「垂直の戦場」と呼ばれたアルプス山中の戦線でオーストリア軍とイタリア軍の死闘が繰り広げられました。
英語ウィキ:
ボーツェン・ブリクセン司教区
歴史上の司教領と同一ではありませんが、大まかなイメージを描く手掛かりとなります。
独語ウィキに地図と写真があります。
シルヴィウス・マニャーゴは、イタリア人の父とオーストリア人の母の間に生まれました。ギムナジウム卒業後、パレルモの予備役士官学校に通い、更にボローニャ大学で法律学を専攻。ヒトラーとムッソリーニの間でオーストリアと南チロルの分割が合意された時、マニャーゴはファシズムを嫌ってドイツへの帰属を選びましたが、移住はせず南チロルで働いていました。第二次大戦ではドイツ軍兵士として東部戦線へ派遣され、重傷を負って左足切断、終戦まで数ヵ所の野戦病院で過ごしました。
1960年、南チロルの州知事に選出され、以降生涯にわたって南チロル自治権の確立に尽力しました。
1950年代後半から1960年代にかけては、オーストリアへの復帰を要求するグループによるテロ事件が続きましたが、マニャーゴは、これに反対し、平和的な話し合いによる自治権確立に努めました。
以前にも書いたように、今の南チロルは模範的な自治州となっています。もちろん、ドイツとオーストリアのバックアップが大きな力となったことは確かですが、シルヴィウス・マニャーゴのライフワークと言っても良いでしょう。
南チロル人からは圧倒的な支持を受けていたマニャーゴですが、当然のことながらイタリア人からは頑固者と嫌われていました。
ゲルマン系南ドイツ人の自治権確立に奔走したマニャーゴですが、名前も姓も全然ゲルマンじゃありません。でも心は南チロル人だったのでしょう。
生前のインタビューで「実は私はドイツ語よりイタリア語の方が得意です」と語っていたのが印象的でした。
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英語ウィキ:
Silvius Magnago