ちょっと重いテーマなので1日延ばしになりましたが・・・書きます
盲目の鏡で紹介したハインリヒ・グラーフ・フォン・レーンドルフはワルキューレ作戦に参加したひとりです。
これは戦争を早く終わらせようしたヒトラー暗殺計画であり、そのままクーデターに持ち込んで臨時政府を樹立することまでを視野に入れていました。
この大規模な「謀反」計画には当然のことながら極めて多くの参加者・支援者がいました。クーデター未遂後に処刑された人々だけでも200人を超え、幸いに生き延びた人々やその他の協力者も含めると多分500人かそれ以上の「関係者」がいたのではないかと思います。
英語Wikiの参加者名簿
参加者の多くは軍の将官で、従って年齢も20代後半から60才前後です。
最年少は24才のフリードリヒ・カール・クラウジンクです。
ネット検索で「彼は髭剃りを持っているのだろうか?」という同時代人の発言もあるほど少年のような雰囲気ですが、スターリングラード攻防戦で2度負傷し、最高司令部付きの士官(大尉)となりました。
既に早くからワルキューレ作戦に参加、シュタウフェンベルク大佐とも意気投合し、その副官を務めていました。中止となった暗殺計画でもシュタウフェンベルク大佐に同行しています。1944年7月20日にはベンドラーブロックで「ワルキューレ作戦」発動の任務を負っていましたが、作戦の失敗とともに数人の同志とともに脱出。しかし翌日にはゲシュタポに自首しました。
8月にナチスのいわゆる人民法廷で死刑の宣告を受け、同日絞首刑となりました。
しかも、クラウジンクの父親は法律学者で熱烈なナチス党員でした。父親はナチス占領下のプラハで大学教授を務めていましたが、息子がヒトラー暗殺計画のメンバーだったことが知られると、責任をとって退官。しかし、更にナチス幹部からの勧告(強要)でピストル自殺しています。
父子でナチスと反ナチス、しかも死刑と自殺というのは、ナチス時代のドイツでも数少ない悲劇と言えるでしょう。
追記:ナチス時代には無数の悲劇が起こっています。ユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)は言うまでもなく、ナチスに反対したため追放、投獄された人々、亡命を余儀なくされた人々、あるいは殺害された人々も多いのです。クラウジンクの場合は「数少ない特殊なケース」と言うことです。
リヒャルト・フォン・ワイツゼッツカーは連隊時代の同僚であり、「クラウジンクは控え目過ぎたが、何か特別なところがあった」と述べ、7月20日のクラウジンクの役割については「彼は、この役割のために神が遣わされたのだ。それ以外には言いようがない」と語っています。
ベルリン始め幾つかのドイツの都市にはクラウジンクの名を付けた通りがあります。
ベンドラーブロックのあるベンドラー通りはシュタウフェンベルク通りに改称されました。
多分続きます・・・
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