八幡武水別神社の創建は、第八代孝元天皇(214-256BC)の御代の鎮斎と伝えられています。 主祭神の武水別神(たけみずわけのおおかみ)は、国の大本である農事を始め、人の日常生活にきわめて大事な水のことに関連する神様だそうです。この地方随一の八幡宮として諸将の尊崇が篤く、木曽義仲の戦勝祈願・海津城主森忠正公(慶長七年)・松代城主真田伊豆守(寛永十三年)の寄進・江戸時代には社領200石の朱印地を寄進されたそうです。
信濃五大寺の一つに数えられる駒ヶ根の光前寺です。信濃における天台宗の大寺でした。戸隠山、善光寺、更級八幡神宮寺、佐久津金寺、光前寺が信濃五大寺でした。寺領が大きかったばかりでなく学問寺として、天台密教の修業地として重要なところでした。
この天台宗・宝積山光前寺の歴史は古く、開山は貞観2年(860)にさかのぼります。不動明王を御本尊として、本聖上人により開基されました。また霊犬早太郎の伝説が伝えられています。
この天台宗・宝積山光前寺の歴史は古く、開山は貞観2年(860)にさかのぼります。不動明王を御本尊として、本聖上人により開基されました。また霊犬早太郎の伝説が伝えられています。
牛に引かれて善光寺参りの伝説で知られる布引山釈尊寺つまり布引観音は行基創建の天台宗の名刹です。断崖絶壁にかかる観音堂に安置されているのが、牛に化身して強欲な婆さまを善光寺に連れていき改悛させたといういわれがあります。行くまでは少し大変ですが、宮殿から眼下には千曲川が流れ、城下町小諸や浅間山も一望できます。布引山の切り立った中腹にある朱塗りの観音堂には宮殿があります。ここは国の重要文化財に指定されています。断崖絶壁にある観音堂は、実際に行くと、すごい所に建てられています。天文17年(1548)、武田信玄が楽厳寺入道、布下仁兵衛を攻めたときに兵火にかかって消失したのを、弘治2年(1556)望月城主であった滋野左衛門左が再建しました。その後も享保8年(1723)に再び野火のために炎上したそうです。 現在ある伽藍の多くは、小諸城主牧野周防守康明によって再建されたものです。観音堂内にある「宮殿(くうでん)」は国の重要文化財に、また「白山社社殿」は県宝に指定されています。
三峰神社にある八棟木灯台は安政4年(1857)建立の飾り灯台です。高さは6mもあります。三峰神社の創祀は景行天皇41年(111)です。日本武尊によって祀られ、後に神仏混淆の山となりました。江戸時代までは山伏たちの修験の山として栄え、別当観音院が支配していたお山ということです。三峯神社の奥宮は三峰山(1090m)の隣の山、妙法ケ岳(1329m)の山頂にあります。この妙法ケ岳は険しい岩場もあるため、そこまで行けない人達の為に、境内の少し高い所に「遥拝殿」という見晴台があります。
秩父神社は三峯(みつみね)神社、宝登山(ほどさん)神社と並んで秩父三社の一つとされ、古くから秩父地方の総社として崇敬を集めてきました。秩父神社は、市街地のほぼ中央にある柞(ははそ)の森に鎮座しています。創建は崇神天皇の時代、知々夫彦命(ちちぶひこのみこと)が先祖である八意思金命(やごころおもいかねのみこと)を祀ったのが、始まりとされています。権現造りの本殿は名工・左甚五郎作の「子育ての虎」、「つなぎの龍」をはじめとする絢爛豪華な彫刻によって飾られました。日光東照宮のような派手さはありませんが極才色で彩られた彫刻は歴史的価値があります。中世から秩父神社には星の信仰である妙見の信仰が習合しました。今もなお年に一度の大祭である 「秩父夜祭り」は12月2日・3日に開催され、妙見のまつりとして受け継がれた日本三大曳山祭りの一つとして数えられています。
京都駅前に位置する東本願寺は、真宗本廟(本願寺)と称し、浄土真宗「真宗大谷派」の本山です。 広大な境内地の中心をなす御影堂(ごえいどう)には、宗祖親鸞の像を、阿弥陀堂には本尊の阿弥陀如来を安置しています。徳川家康から寺地の寄進を受け、第12代教如上人が西本願寺より分立して建立しました。中心をなす高さ38m、東西58m、南北76mという木造建築「御影堂」は世界最大級です。慶長7年(1602)、すでに退隠していた教如(きょうにょ)に徳川家康が4町四方の寺地を与え、12世を名乗らせて西本願寺から分離させたことがはじまりです。創建当時の御影堂(大師堂)は滋賀県にある長浜別院の本堂を京都に移したようです。西本願寺よりも小さかったので、万治元年(1658)、宣如が対抗意識を示してより大きなものに再建しています。三度の大火や、元治元年(1864)の兵火で諸建築は焼失し、現在のものはほとんど明治時代のものです。
重要文化財の大徳寺三門です。大徳寺最古の建造物です。応仁の乱で焼失後、一休が一層を再建しました。60年後千利休が二層に改修し利休木像を安置したため秀吉の逆鱗に触れ切腹させられました。元応元年(1319)大澄国師(宗峰妙超)が大徳寺を創建しました。京都五山の上位に列せられましたが、足利氏の時代に入ると五山から除かれてしまいます。応仁の乱で焼失し、その後一休禅師が堺の豪商の援助を得て復興させました。 茶の湯との関係も深く、千利休ら堺の茶人や茶の湯好きな大名などが次々に帰依しました。塔頭が建立され大いに隆盛しました。境内は広大で南北一直線上に典型的禅宗伽藍が配置されています。 築地塀に囲まれた中に22もの塔頭があります。方丈など国宝の堂宇にはじまり、枯山水の庭園や茶室などがあります。秀吉が信長の葬儀をここで執行したことでも有名です。
東福寺は臨済宗東福寺派の本山です。嘉禎2年(1236)関白の九条道家が聖一国師を開山として菩提寺建立を発願し創建されました。延応元年(1239)に大仏殿が上棟されました 。19年の歳月をかけて建長7年(1255)に七堂伽藍が完成しました。五山の一つで「東福の伽藍面(がらんづら)」とまでいわれ壮観を極めました。 東福寺の名前の由来は、奈良の東大寺のように大きく、興福寺のように盛大を極めた寺にと、それぞれ一字ずつとって「東福寺」と命名されたそうです。 東山の山腹と渓谷を利用した境内には、国宝に指定されている室町最古の三門があります。至徳2年(1385)頃建設されたようです。五間三戸二階二重門、入母屋造り、本瓦葺きで切妻造り本瓦葺きの山廊があります。わが国最古で最大の禅堂は国の重要文化財です。別名、僧堂・選仏場とも呼ばれる座禅するための堂です。14世紀ごろの造立だといわれています。7間に4間の広さがあり一重で裳階が付いた切妻造りで本瓦葺きです。 日本で唯一重要文化財に指定の禅宗寺院様式の「東司」(とうす)は長さが35mもある便所です。浴室も歴史が古く長禄3年(1459)の造立です。禅宗浴室としては現存最古のものです。方丈庭園は鎌倉時代の手法を用いた昭和の枯山水です。角石と苔とが描く市松模様の北庭はよく知られています。竜吟庵の方丈は現存最古の方丈建築で国宝に指定されています。
本堂と開山堂を結ぶ歩廊の「通天橋」の下を三ノ橋川が流れ、洗玉澗(せんぎょくかん)と呼ばれる渓谷を創っています。紅葉の名所となっていて、橋のなかほどにある張り出し舞台にたつと素晴らしさが実感できます。 この東福寺も度重なる兵火と明治14年(1881)の失火で仏殿、法堂、庫裏などを焼失しています。
本堂と開山堂を結ぶ歩廊の「通天橋」の下を三ノ橋川が流れ、洗玉澗(せんぎょくかん)と呼ばれる渓谷を創っています。紅葉の名所となっていて、橋のなかほどにある張り出し舞台にたつと素晴らしさが実感できます。 この東福寺も度重なる兵火と明治14年(1881)の失火で仏殿、法堂、庫裏などを焼失しています。
妙心寺は正法山と号し臨済宗妙心寺派総本山です。康永元年(1342)花園天皇の離宮を禅寺に改めて創建されました。16万㎡の広大な寺域に、七堂伽藍を中心に47の塔頭寺院が立ち並んでいます。総門から一直線に山門、仏殿、法堂、寝殿、方丈、庫裏の大伽藍が並ぶ七堂伽藍です。山号は正法山(しょうぼうざん)と称します。開山は大徳寺の開山大燈国師の法嗣である関山慧玄(かんざんえげん)を招聘しました。関山慧玄即ち開山無相大師は清楚闊達(かったつ)の名僧で形式的な読経や規則にとらわれず簡素なる禅風をうちたて人材の育成に努めました。 五山の禅寺が詩文に重きをおいていましたが、五山十刹にも加えられなかった妙心寺がいわゆる林下として禅の正統を守り応燈関(大応図師・大燈国師・関山)の法系を維持しました。大師入定後も逸材傑僧輩出して、関山禅の宗風全国を風靡するにいたったのです。そして妙心寺は3世無因宗因のとき大いに繁栄しました。その後幕府に背いて応永の乱を起こした大内義弘と関係が深かったため、3代将軍義満は寺地・寺領のすべてを没収し、住職拙堂宗朴は青蓮院に幽閉、寺は青蓮院の付属となってしまいました。その後大内・細川・今川・織田・武田諸氏の帰依を得て堂宇の建造も進み,永正年間(1504~21)17世林宗棟(とうりんそうとう)の力で大徳寺から独立し、五大派の衰退をよそに教線をのばして臨済宗の主流となりました。
杉木立にかこまれ、荘厳なたたずまいをみせる延暦寺は、かずかずの名僧を輩出した天台宗の総本山です。比叡山には延暦寺という名の建物はありません。比叡山そのものが延暦寺を表わしているのです。その寺域は広大で、標高848mの比叡山の山中に数百の建物があり、東塔・西塔・横川(よかわ)の三地域に分かれています。延暦7年(788)、京都の北東の鬼門にあたる比叡山の山頂に、唐へ留学した伝教大師最澄が帰国後、平安京鎮護のために一乗止観院という草庵を建てたのが始まりです。 最澄没後の弘仁14年(823)嵯峨天皇より延暦寺の寺号を賜りました。円澄が西塔、円仁が横川を開き、東塔(根本中堂)と合わせて三塔が成立しました。延暦寺の強大な力を恐れた織田信長は元亀2年(1571)全山を焼き討ちにしました。この時、延暦寺は根本中堂をはじめ大半の建物を失ったのです。
その後豊臣秀吉や徳川家康らによって再建されました。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、宗務の実権は江戸に移りました。東塔には、延暦寺の中心である国宝の根本中堂をはじめ、戒壇院、阿弥陀堂、山王院など主要伽藍が建ち、西塔には、法華堂、常行堂、釈迦堂など、横川には横川中堂、恵心堂などが静かに建ち並んでいます。根本中堂には「不滅の法灯」が1200年の間、輝きつづけています。平成6年(1994)12月「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産登録されました。
その後豊臣秀吉や徳川家康らによって再建されました。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、宗務の実権は江戸に移りました。東塔には、延暦寺の中心である国宝の根本中堂をはじめ、戒壇院、阿弥陀堂、山王院など主要伽藍が建ち、西塔には、法華堂、常行堂、釈迦堂など、横川には横川中堂、恵心堂などが静かに建ち並んでいます。根本中堂には「不滅の法灯」が1200年の間、輝きつづけています。平成6年(1994)12月「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産登録されました。
吉祥山永平寺は横浜総持寺と共に曹洞宗の大本山です。高祖道元禅師が吉峰寺を後にして寛元2年(1244)傘松峰大仏寺を開き、寛元4年に永平寺と改めました。末寺は1万5千寺を有しているそうです。檀信徒は800万人だそうです。 約760年の伝統を誇る永平寺には、78代住職、宮崎奕保禅師をはじめとする二百余名の修行僧が日夜修行に励んでいます。広大な敷地内には、山門、仏殿、法堂、僧堂、大庫院、浴室、東司などの「七堂伽藍」をはじめ、大小70あまりの堂宇がひっそりと佇んでいます。寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝の時の元号「永平」をとっています。これには「永久の和平」という意味があります。
総持寺は盛時は16000余の末寺を従え、70余に及ぶ堂宇を構えていたそうです。明治31年(1898)本堂の一部より出火して七堂伽藍はほとんどが焼失しました。当時の住職が横浜鶴見に移転を決めました。
なお能登の鳳至郡櫛比の庄(ふげしぐんくしびのしょう)にあった総持寺は勧請を続け、現在は総持寺祖院と呼ばれ荘厳な伽藍を完成させました。元本山の威風と面目を今に保っています。
明治44年(1911)に現在の地、横浜の鶴見に移転した総持寺は約50万平米の広大な敷地を有し、交通の便もよく、開かれた禅苑として国際的な禅の根本道場として偉容を誇っています。
なお能登の鳳至郡櫛比の庄(ふげしぐんくしびのしょう)にあった総持寺は勧請を続け、現在は総持寺祖院と呼ばれ荘厳な伽藍を完成させました。元本山の威風と面目を今に保っています。
明治44年(1911)に現在の地、横浜の鶴見に移転した総持寺は約50万平米の広大な敷地を有し、交通の便もよく、開かれた禅苑として国際的な禅の根本道場として偉容を誇っています。
明治31年の火災により七堂伽藍喪失し、曹洞宗大本山総持寺は横浜の鶴見に移転しました。以来、ここは総持寺祖院と呼ばれています
地元門前の人達寂しさに耐えきれず勧請を続けました。長い月日で今日の重厚で荘厳な伽藍を完成させました。曹洞宗元本山の威風と面目を今に保っています。
地元門前の人達寂しさに耐えきれず勧請を続けました。長い月日で今日の重厚で荘厳な伽藍を完成させました。曹洞宗元本山の威風と面目を今に保っています。