私が彼女を初めて見たのは私が(そして彼女も)大学2年生のときだった。理工学部でコンピューターのプログラミングの授業を受けた帰り道、明治通りを歩いていたら、ミス東京のパレードに遭遇した。オープンカーに乗った彼女は優勝者の冠とガウンを身に着け、沿道の人たちに笑顔で手を振っていた。知的で美しい笑顔だった。彼女の名前は草柳文恵。青山学院大学の学生で、評論家の草柳大蔵の娘だった。その後、彼女は将棋界のプリンスと呼ばれた真部一男と結婚した。私は雑誌『将棋世界』に載った2人の結婚式の写真を覚えている。しかし、ほどなくして2人は離婚。昨年の11月、真部一男は肝臓ガンのため55歳で亡くなった。早すぎる死だった。そして昨日、草柳文恵自殺のニュースを聞いた。
森山直太郎の「生きてることが辛いなら」の歌詞が話題になっている。「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい 親や恋人は悲しむが 三日も経てば元通り 気が付きゃみんな年取って 同じところへ行くのだから」で始まる歌である。自殺を誘発しかねないという理由で店内で流すのを禁じたコンビニチェーンもあるとのことだ。曲を最後まで聞けば、決して自殺を勧めている歌でないことはわかるのだが(生きてることが辛いなら くたばる喜びとっておけ)、確かに、イントロ部分にはドキリとさせられる。
人間には自殺をする自由というものはあると思う。尊厳死は自殺の一種であろう。ただし、これは他のすべての自由にもいえることだが、自由の行使には責任が伴う。他者への配慮がなくてはならない。自由の行使は自分勝手にはできない、自分勝手にしてはならない、というのが社会的存在としての人間の自由のジレンマである。「小さく死ねばいい」の「小さく」というのは、「ひっそりと」とか「他人に迷惑をかけずに」というような意味であろう。電車に飛び込んだり、自宅に火をつけたり、ましてや赤の他人を道連れにするような自殺は論外だ。厳密に言えば、人を悲しませるというのも、他者への配慮が欠けているうちに入るだろう。「三日も経てば元通り」というのは、それほど親しくない人の自殺の場合で、家族や恋人や友人が自殺したらとてもそういうわけにはいくまい。一生引きずることもあるだろう。そういうふうに考えると、自殺の自由の行使はとてつもなく困難である。しかし、自殺の淵に追い込まれている人間、それだけの苦痛や苦悩に苛まれている人間に、責任や配慮というものを求めることは酷だともいえる。
「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい」。ドキリとする詞だが、ドキリとしないような詞はつまらない。石川啄木も、中原中也も、寺山修司も、谷川俊太郎も、ドキリとするような詩を書いている。毒にも薬にもならないような言葉はつまらない。ドキリとされされて、ハッとさせられて、われわれは日常のあいまいな思考、濁った思考、停止した思考から顔を上げて、簡単には答えの出ない問いをめぐる思考を始めるのだ。
森山直太郎の「生きてることが辛いなら」の歌詞が話題になっている。「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい 親や恋人は悲しむが 三日も経てば元通り 気が付きゃみんな年取って 同じところへ行くのだから」で始まる歌である。自殺を誘発しかねないという理由で店内で流すのを禁じたコンビニチェーンもあるとのことだ。曲を最後まで聞けば、決して自殺を勧めている歌でないことはわかるのだが(生きてることが辛いなら くたばる喜びとっておけ)、確かに、イントロ部分にはドキリとさせられる。
人間には自殺をする自由というものはあると思う。尊厳死は自殺の一種であろう。ただし、これは他のすべての自由にもいえることだが、自由の行使には責任が伴う。他者への配慮がなくてはならない。自由の行使は自分勝手にはできない、自分勝手にしてはならない、というのが社会的存在としての人間の自由のジレンマである。「小さく死ねばいい」の「小さく」というのは、「ひっそりと」とか「他人に迷惑をかけずに」というような意味であろう。電車に飛び込んだり、自宅に火をつけたり、ましてや赤の他人を道連れにするような自殺は論外だ。厳密に言えば、人を悲しませるというのも、他者への配慮が欠けているうちに入るだろう。「三日も経てば元通り」というのは、それほど親しくない人の自殺の場合で、家族や恋人や友人が自殺したらとてもそういうわけにはいくまい。一生引きずることもあるだろう。そういうふうに考えると、自殺の自由の行使はとてつもなく困難である。しかし、自殺の淵に追い込まれている人間、それだけの苦痛や苦悩に苛まれている人間に、責任や配慮というものを求めることは酷だともいえる。
「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい」。ドキリとする詞だが、ドキリとしないような詞はつまらない。石川啄木も、中原中也も、寺山修司も、谷川俊太郎も、ドキリとするような詩を書いている。毒にも薬にもならないような言葉はつまらない。ドキリとされされて、ハッとさせられて、われわれは日常のあいまいな思考、濁った思考、停止した思考から顔を上げて、簡単には答えの出ない問いをめぐる思考を始めるのだ。