ある文献(英語)を読んでいて内容がなかなか頭に入らない。日本語でも分りやすい文章と分りにくい文章があるように、英語もそうなのだ。こういうときは集中力を高める必要があり、そのためには自宅ではなく喫茶店で読むというのが有効な方法であること、これまた日本語の場合と同様である。というわけで、午後、「お昼は何にします?」という妻の問いかけに「あっ、いいや。外で食べるから」と答え、自転車を漕いで梅屋敷商店街を目ざす。商店街の入口のところでお神輿の一団に遭遇する。地元の町会のお祭りのようである。
先日と同じくまずは「福田屋」に行ってカキ氷(それと先日は注文しなかったお雑煮)を食べようと考えていたのだが、行ってみると閉まっていた。あれっ、木曜日が定休日のはずだが・・・。シャッターに貼紙がしてあって、「14日・15日臨時休業いたします」と書いてある。もしかして明日は敬老の日ということで、あの高齢のご主人を慰労すべく、家族でどこかの温泉に一泊旅行にでも出かけたのだろうか。そんな気がする。
それではということで、いま来た道を引き返して、喫茶店「琵琶湖」を目ざしたが、途中で気が変わって、前からちょっと気になっていた喫茶店「カフェ・クリッパー」に入ってみることにした。入口のところに張り出されている「お食事メニュー」が定食屋さながらに充実していて、私の好きな「ちゃんとした食事ができる個人経営の喫茶店」の条件を満たしている。ドアを開けるとテーブル席はみんな埋まっていて、どうしようかと一瞬ためらっていると、女主人の「カウンターでよろしければどうぞ」の声に促されて店内に入ると、一組の客が腰を上げたので、テーブル席に座ることができた。
メニューを見て、スパゲッティ・ナポリタンを注文する。これは私の習性のようなものだが、初めての中華料理屋では炒飯、初めての日本蕎麦屋では天せいろ(冬場は天ぷら蕎麦か鍋焼きうどん)、初めての洋食屋ではオムライス(冬場はカキフライ)、そして初めての(食事のできる)喫茶店ではスパゲッティ・ナポリタンを注文することが多い。それでだいたいその店の実力がわかる、というのが私の持論である(ただし実力が一流であることを私は必ずしも期待しない。二流で十分だ。その方がくつろげることが多い。とんかつの「鈴文」なんかはいつも真剣勝負のような雰囲気が漂っていて、本を読みながら食べるなんてマネはできなかった)。ほどなくして運ばれてきたスパゲッティ・ナポリタンは、ウィンナー・ソーセージではなく(私はそれを期待していた)ハムが使われていた。そのとき私の顔にはかすかに落胆の表情が見て取れたはずであるが、はたして女主人はそれに気づいたであろうか。ハムとウィンナー・ソーセージでは歓喜の度合いに違いがあるというのは昭和30年代の子どもだけの話なのだろうか。当時、ウィンナー・ソーセージはたんにウィンナーと呼ばれていた。だから初めて喫茶店でウィンナー・コーヒーという文字を目にしたときはコーヒーにウィンナーが付いてくる(一種のモーニングサービス)と思ったし、ウィンナー・ワルツという曲目を初めて聞いたときも踊るウィンナーの映像(シュールだ)が頭に浮かんだものである。
ハムには落胆したが、食べてみると、そのハムはけっこう上質のハムだった。イベリコ豚のハムとまではいかないものの、妻がいつもスーパーで買ってくるハムよりもはるかに上等なハムだった。スパゲッティの味は普通である。二流の味。うん、これでいい。一緒に注文したアイスコーヒーとセットで920円。これで1時間半ほどねばって、文献を読み終えた。
片岡義男の近著『ナポリへの道』(東京書籍)の「あとがき」にこう書いてある。
「敗戦、終戦、焼け跡、占領、民主主義、米軍基地、復興への道、といった敗戦直後の日本をその一身に引き受けたような側面を、スパゲッティ・ナポリタンは持っている。占領アメリカ軍が間に合わせに作った食事にケチャップによるスパゲッティ料理があり、それが日本の民間へと出ていき、一九四〇年代の後半から終わりにかけて、戦後の巷に広まって人気を得た、というかたちで戦後の日本をスパゲッティ・ナポリタンは映し出している。占領軍から日本の巷へと出たその瞬間には早くも、日本らしい工夫がその料理に対してほどこされていた事実は、僕のとらえかでは驚嘆に値する。
一九五〇年代が始まった頃には、スパゲッティ・ナポリタンは、日本の庶民食として独特な位置を獲得していたと思っていいようだ。経済の復興に重なって、スパゲッティ・ナポリタンのひと皿は、とくにその時代の子供たちにとって、輝かしくも楽しい御馳走となった。「もはや戦後ではない」こととなった一九五〇年代のなかばから六〇年代いっぱい、さらにその次の時代へと続いた高度経済成長のなかを、若い働き手として生きた人たちにとって、そのように生きた証のひとつがスパゲッティ・ナポリタンであるようだ。
バブルによるほとんど根拠のない架空の嵩上げを、その時代の日本は体験した。嵩上げによって底のほうへと沈んだかに見えたもののひとつが、スパゲッティ・ナポリタンだった。バブルが終っても嵩上げ状態は続いたから、スパゲッティ・ナポリタンは消えていくのだろうか、もはや絶滅だろうかなどと、僕がそうだったように早とちりした人がいたとしても、それは当然だろう。
バブルが終ったあとの、失われた十年は二十年になり、されに継続されつつある現在、架空の嵩上げが霧散したあとそこからさらに沈んでいく日本に反比例するかのように、スパゲッティ・ナポリタンは浮かび上がって来ている。スーパー・マーケットや百貨店の地下食料品売り場には、ほぼ同じ材料による、まったくおなじと言っていい出来ばえの、おなじ値段のスパゲッティ・ナポリタンがたくさんある。江戸から続くおやつの伝統すら、それらのナポリタンは継承している。
以上のようなかたちと内容とで、戦後の日本をその始まりから現在まで体現し続けている料理が、スパゲッティ・ナポリタンの他にあるだろうか。」
片岡義男らしいクールな視点だ。私が「片岡のおじき」として私淑しているだけのことはある。
先日と同じくまずは「福田屋」に行ってカキ氷(それと先日は注文しなかったお雑煮)を食べようと考えていたのだが、行ってみると閉まっていた。あれっ、木曜日が定休日のはずだが・・・。シャッターに貼紙がしてあって、「14日・15日臨時休業いたします」と書いてある。もしかして明日は敬老の日ということで、あの高齢のご主人を慰労すべく、家族でどこかの温泉に一泊旅行にでも出かけたのだろうか。そんな気がする。
それではということで、いま来た道を引き返して、喫茶店「琵琶湖」を目ざしたが、途中で気が変わって、前からちょっと気になっていた喫茶店「カフェ・クリッパー」に入ってみることにした。入口のところに張り出されている「お食事メニュー」が定食屋さながらに充実していて、私の好きな「ちゃんとした食事ができる個人経営の喫茶店」の条件を満たしている。ドアを開けるとテーブル席はみんな埋まっていて、どうしようかと一瞬ためらっていると、女主人の「カウンターでよろしければどうぞ」の声に促されて店内に入ると、一組の客が腰を上げたので、テーブル席に座ることができた。
メニューを見て、スパゲッティ・ナポリタンを注文する。これは私の習性のようなものだが、初めての中華料理屋では炒飯、初めての日本蕎麦屋では天せいろ(冬場は天ぷら蕎麦か鍋焼きうどん)、初めての洋食屋ではオムライス(冬場はカキフライ)、そして初めての(食事のできる)喫茶店ではスパゲッティ・ナポリタンを注文することが多い。それでだいたいその店の実力がわかる、というのが私の持論である(ただし実力が一流であることを私は必ずしも期待しない。二流で十分だ。その方がくつろげることが多い。とんかつの「鈴文」なんかはいつも真剣勝負のような雰囲気が漂っていて、本を読みながら食べるなんてマネはできなかった)。ほどなくして運ばれてきたスパゲッティ・ナポリタンは、ウィンナー・ソーセージではなく(私はそれを期待していた)ハムが使われていた。そのとき私の顔にはかすかに落胆の表情が見て取れたはずであるが、はたして女主人はそれに気づいたであろうか。ハムとウィンナー・ソーセージでは歓喜の度合いに違いがあるというのは昭和30年代の子どもだけの話なのだろうか。当時、ウィンナー・ソーセージはたんにウィンナーと呼ばれていた。だから初めて喫茶店でウィンナー・コーヒーという文字を目にしたときはコーヒーにウィンナーが付いてくる(一種のモーニングサービス)と思ったし、ウィンナー・ワルツという曲目を初めて聞いたときも踊るウィンナーの映像(シュールだ)が頭に浮かんだものである。
ハムには落胆したが、食べてみると、そのハムはけっこう上質のハムだった。イベリコ豚のハムとまではいかないものの、妻がいつもスーパーで買ってくるハムよりもはるかに上等なハムだった。スパゲッティの味は普通である。二流の味。うん、これでいい。一緒に注文したアイスコーヒーとセットで920円。これで1時間半ほどねばって、文献を読み終えた。
片岡義男の近著『ナポリへの道』(東京書籍)の「あとがき」にこう書いてある。
「敗戦、終戦、焼け跡、占領、民主主義、米軍基地、復興への道、といった敗戦直後の日本をその一身に引き受けたような側面を、スパゲッティ・ナポリタンは持っている。占領アメリカ軍が間に合わせに作った食事にケチャップによるスパゲッティ料理があり、それが日本の民間へと出ていき、一九四〇年代の後半から終わりにかけて、戦後の巷に広まって人気を得た、というかたちで戦後の日本をスパゲッティ・ナポリタンは映し出している。占領軍から日本の巷へと出たその瞬間には早くも、日本らしい工夫がその料理に対してほどこされていた事実は、僕のとらえかでは驚嘆に値する。
一九五〇年代が始まった頃には、スパゲッティ・ナポリタンは、日本の庶民食として独特な位置を獲得していたと思っていいようだ。経済の復興に重なって、スパゲッティ・ナポリタンのひと皿は、とくにその時代の子供たちにとって、輝かしくも楽しい御馳走となった。「もはや戦後ではない」こととなった一九五〇年代のなかばから六〇年代いっぱい、さらにその次の時代へと続いた高度経済成長のなかを、若い働き手として生きた人たちにとって、そのように生きた証のひとつがスパゲッティ・ナポリタンであるようだ。
バブルによるほとんど根拠のない架空の嵩上げを、その時代の日本は体験した。嵩上げによって底のほうへと沈んだかに見えたもののひとつが、スパゲッティ・ナポリタンだった。バブルが終っても嵩上げ状態は続いたから、スパゲッティ・ナポリタンは消えていくのだろうか、もはや絶滅だろうかなどと、僕がそうだったように早とちりした人がいたとしても、それは当然だろう。
バブルが終ったあとの、失われた十年は二十年になり、されに継続されつつある現在、架空の嵩上げが霧散したあとそこからさらに沈んでいく日本に反比例するかのように、スパゲッティ・ナポリタンは浮かび上がって来ている。スーパー・マーケットや百貨店の地下食料品売り場には、ほぼ同じ材料による、まったくおなじと言っていい出来ばえの、おなじ値段のスパゲッティ・ナポリタンがたくさんある。江戸から続くおやつの伝統すら、それらのナポリタンは継承している。
以上のようなかたちと内容とで、戦後の日本をその始まりから現在まで体現し続けている料理が、スパゲッティ・ナポリタンの他にあるだろうか。」
片岡義男らしいクールな視点だ。私が「片岡のおじき」として私淑しているだけのことはある。