フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月15日(月) 曇り

2008-09-16 03:21:18 | Weblog
  今日は大学院の入試(マスターの一次試験)の日。午後から大学へ。まず事務所へ行って、今週末の卒論合宿の届出をする。何かの事故に遭うとも限らないから団体保険に入っておく必要があるのだ。事務所には必要最小限の人しかおず、ひっそりとしていた。同僚の社会学の先生方と会うのはひさしぶりだった。仕事は1時間半ほどで終った。その後、新しく文学学術院長になる大日方先生に代わって社会構築論系の主任を務めることになった森先生と文化構想学部の諸制度について立ち話をしたが、なにしろ新しいことづくめであるから、ここしばらくは試行錯誤の日々が続くことになりそうだ。
  時刻は4時になろうとしていた。昼食をとっていなかったので、どこかで何か食べようと思ったが、大学が夏休み中だからか、それとも今日が祝日だからか、いきつけの店はどこも閉まっていた。食事はあきらめて帰ることにしたが、途中、丸善丸の内店に寄って買物をしていたら、空腹感が増大したので、店内のカフェに入り、ベリータルトとミルクティーを注文。それで人心地がついて、その後は落ち着いて買物ができた。
  蒲田に着いて、くまざわ書店で藤村正之『<生>の社会学』(東京大学出版会)を購入。これから始まる演習「現代社会とセラピー文化」で使えそうな内容である。

  「現代日本を生きる私たちの感覚において、未来の夢や目標の魅力に引きつけられて前に進むのではなく、ふりかかるリスクをどれだけふり払い切れるのかが、<生命><生活><生涯>を通しての課題となりつつある。すなわち、前進するための目標は不明瞭なのに、後ろから追い立てられて、押し出されるように前に進むことだけが求められる。本来、その語義から考えれば、リスクは非日常の出来事であるはずなのに、リスクへの不安が日常化すうという逆説的事態が目の前で起こってきている。その結果、私たちは、幸福をめざすというより、せめて不幸を避けることに汲々としている。」(p.68)

  「現代において癒しが求められる社会状況は、ひとことで言えば、私たちが「疲れている」ということであり、それへの対応に「癒し」という言葉がフィットすると考えらている。心身が疲れているから癒してほしい。過剰に神経を使う割にメリットの薄い人間関係、公私かまわず苦情やクレイムを訴える人が増加するぎすぎすさ、大きな経済成長が期待できず、利益・利潤の薄くなったなかでの長時間労働や市場競争・企業間競争。社会は私たちを疲れさせる要素に満ちている。
  自分を癒してくれるものは、もちろん医療や宗教にとどまらず、多元化してきている。それが消費行動であることもあれば、ナショナリズムがそうだとされることもある。・・・(中略)・・・
  「癒し」が頻繁に使われるなかで、近年は自分が癒される・癒されたいという意味で受動性の色濃いものになっている。癒すという言葉の意味合いに、自ら傷ついても自ら癒すという自動詞的な含意があったとするならば、現代における癒しという言葉の使われ方は、自分の悩みや苦しみをサービスやグッズによって手軽に受動的に除去するというニュアンスを帯びている。同時にそのようなサービスやグッズで処理できる程度のものまで、広く癒しの言葉が使われてきてもいる。リスクと同様、癒しも社会的なインフレ状態にあるといってよいだろう。そして、リスクと癒しの双方とも、リスクにさらされる・癒されるという形の受動性を帯びているところに特徴がある。」(pp.78-80)

  「リスクにおびえ、癒しを求める現代社会において、どのような処方箋に人々は解法を求めるのだろうか。ひとつは、やみくもな状況から脱してリスク不安そのものを減らす方向性であり、もうひとつはリスクの克服に癒しを感得する触媒を求める方向性である。前者はリスクの比較相対化であり、後者は社会活動を通じた社会関係資本の醸成につながる。
  ・・・(中略)・・・不安におびえるばかりでなく、懸念すべきリスクに適切な注意を向け、逆に小さなリスクに対して過剰な不安をいだかないことが重要となってくる。人々はリスク情報を熟慮・吟味して不安に陥っているというよりは、簡便な方法でリスクを回避しようとしてパニック的な行動にいたるからである。・・・(中略)・・・
  リスク不安に対処するもうひとつの方途は、社会活動を通じて結びついた人間関係や社会関係資本によって問題を解決・解消し、それが癒しを感得する触媒となるような方向である。リスク社会に生きることが、むしろ失われゆく人々のネットワークやライフチャンスを再編・有効化していく可能性となる。」(pp.86-88)

  夕食を終えて居間でくつろいでいると、娘が帰宅し、私の前にしおらしい表情でやってきて(女優なので油断はならない)、「お父さんに謝らなくちゃいけないことがあるの・・・」と言った。何事かと思ったら、今朝、娘が出がけに私のデジタルカメラを貸してほしいといったので昨日ようやく修理から戻ってきたばかりのデジタルカメラを貸してやったのだが、なんと液晶画面にヒビを入れてしまったのである。落としたのかと聞いたら、そうではなく、バッグの中で何かの角が液晶画面に当たってしまったらしい。やれやれ、修理(ズーム機能の不良)から戻ってきてたった一日で壊れるとは、不憫なカメラである。まさに日常生活のいたるところにリスクは潜んでいる。そして、癒しの制度としての保証(無償修理)は今回については無効であろう。液晶画面の交換。一万円くらいかかるだろうか。ふぅ。