今日で3日間連続で自宅にこもっている(一昨日、近所の耳鼻科に診察を受けに外出した以外は)。風邪気味だし、外は寒いし、それになりより、火曜日から金沢に出かけるので、それまでに体調を整え、かつ目処をつけておかなければならない仕事があるからである。そのうちの最大のものは科研費の報告書で、今夜、ようやく本体部分が仕上がった。A4で120頁。400字詰原稿用紙に換算すれば400枚ほどになる。あとは製本して、概要書(日本語版と英語版)を付けて提出すればよいので、それは金沢から帰ってきてからで十分間に合う。万一、旅行中に不慮の事故に遭っても、遺稿集として出版できるから心残りはない。いや、嘘です。ほんとは、まだ全体の構想の半分も行っていないので、神様、もう少し時間を下さい。
ついさきほどN子さんからメールが来た。昨日の私のブログを読んで、気が変わったのか、「孝治くん」ではなく「大久保くん」になっている。いや、いいですよ、「孝治くん」で。新鮮だから。私は日頃人から「大久保先生」と呼ばれることが一番多い。学生からだけでなく、同僚の先生からもそう呼ばれる。同僚の先生で私を「大久保くん」と呼ぶのは那須先生くらいのものである。だから私も那須先生のことは「茄子先生」と呼んでいる。「おたんこ茄子」の茄子である。でも、音が同じだから那須先生はそのことに気づいていない(アクセントの位置が違うんだけどね)。
閑話休題(って、全部閑話みたいなものだけど)。今日のN子さんからのメールでびっくりしたことが2つあった。ひとつは、小学校時代の学級委員長は男子が正、女子が副ではなくて、両方とも委員長だったはずと書いてあったこと。ほ、ほんとですか? 委員長が二人いたの? あるいは「長」はついていなくてたんに「学級委員」だったのかもしれない。日頃、大学で会議、会議の日々を送っているせいか、委員長がいれば必ず副委員長がいるはずという思い込みと、ジェンダーバイアスが私の記憶を変容させてしまっていたのだろうか。もうひとつのびっくりは、N子さんは当時の同級生の名前を出席番号順にフルネームで全部言えるということ。す、すごい。これはN子さんの記憶力のよさを証明するものであるだけでなく、小学校3年から6年まで同じだったあのクラスがN子さんにとって特別なものだったことを意味している。N子さんは私と同じ地元の中学校に進んだけれど、2年生の2学期に家族と一緒に大阪に引っ越していった。4歳から14歳までを過ごした蒲田が自分にとっての原風景なのだとN子さんは言っていた。ちなみに、これも小さな偶然だが、科研費の報告書には「清水幾太郎における原風景―時間・空間・物語―」という小論が収められている(清水にとっての原風景は明治末から関東大震災前までの東京の下町の両国と場末の本所)。それにしても「出席番号順に」というところがすごい。私も当時の同級生の顔と名前はそこそこ覚えているが、そういう形式では記憶されていない。印象的だった同級生から思い出して、影の薄かった同級生のことも少しずつ思い出すというふうにしてしか思い出せない。「二十世紀少年」の世界である。やっぱり、学級委員長は男女二人いたんだろうな。N子さんがそう言うのだから。
「蒲田アカデミア」のNさんから企画の案内が届いたので、リンクを貼っておきます。前回は「ロック」だったけど、次回は「ケア」がテーマ。現役の若い保育士と介護職員の方が報告をして、社会学者の阿部真大さんがコメンテーターを務めるそうです。
ついさきほどN子さんからメールが来た。昨日の私のブログを読んで、気が変わったのか、「孝治くん」ではなく「大久保くん」になっている。いや、いいですよ、「孝治くん」で。新鮮だから。私は日頃人から「大久保先生」と呼ばれることが一番多い。学生からだけでなく、同僚の先生からもそう呼ばれる。同僚の先生で私を「大久保くん」と呼ぶのは那須先生くらいのものである。だから私も那須先生のことは「茄子先生」と呼んでいる。「おたんこ茄子」の茄子である。でも、音が同じだから那須先生はそのことに気づいていない(アクセントの位置が違うんだけどね)。
閑話休題(って、全部閑話みたいなものだけど)。今日のN子さんからのメールでびっくりしたことが2つあった。ひとつは、小学校時代の学級委員長は男子が正、女子が副ではなくて、両方とも委員長だったはずと書いてあったこと。ほ、ほんとですか? 委員長が二人いたの? あるいは「長」はついていなくてたんに「学級委員」だったのかもしれない。日頃、大学で会議、会議の日々を送っているせいか、委員長がいれば必ず副委員長がいるはずという思い込みと、ジェンダーバイアスが私の記憶を変容させてしまっていたのだろうか。もうひとつのびっくりは、N子さんは当時の同級生の名前を出席番号順にフルネームで全部言えるということ。す、すごい。これはN子さんの記憶力のよさを証明するものであるだけでなく、小学校3年から6年まで同じだったあのクラスがN子さんにとって特別なものだったことを意味している。N子さんは私と同じ地元の中学校に進んだけれど、2年生の2学期に家族と一緒に大阪に引っ越していった。4歳から14歳までを過ごした蒲田が自分にとっての原風景なのだとN子さんは言っていた。ちなみに、これも小さな偶然だが、科研費の報告書には「清水幾太郎における原風景―時間・空間・物語―」という小論が収められている(清水にとっての原風景は明治末から関東大震災前までの東京の下町の両国と場末の本所)。それにしても「出席番号順に」というところがすごい。私も当時の同級生の顔と名前はそこそこ覚えているが、そういう形式では記憶されていない。印象的だった同級生から思い出して、影の薄かった同級生のことも少しずつ思い出すというふうにしてしか思い出せない。「二十世紀少年」の世界である。やっぱり、学級委員長は男女二人いたんだろうな。N子さんがそう言うのだから。
「蒲田アカデミア」のNさんから企画の案内が届いたので、リンクを貼っておきます。前回は「ロック」だったけど、次回は「ケア」がテーマ。現役の若い保育士と介護職員の方が報告をして、社会学者の阿部真大さんがコメンテーターを務めるそうです。