フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月13日(金) 曇り

2009-03-14 14:03:54 | Weblog
  7時、起床。卵焼き、筍ご飯の朝食。
  昼食はもらい物の「今半」の牛肉そぼろを使った炊き込みご飯、ほうれん草の胡麻和え、茄子の味噌汁。
  夕方になって散歩に出る。多少寒かろうと、いまにも雨が降り出しそうな空模様であろうとも、外出は気分転換になる。新学期の授業が始まるまで3週間とちょっと。一つの年度が終ったやれやれ感と、次の年度が始まるそわそわ感で、例年この時期はテンションが低い。新装開店のための休業期間といったところか。春学期は4月6日(月)スタートだが、私は月曜の授業はないので、7日(火)3限の「現代人間論系総合講座1 現代人の精神構造」が開幕戦となる。複数の教員がリレー方式で行う講義で、科目名は去年と同じだが、今年はメンバーを入れ替えて、私、安藤先生、長田先生、助教の木村君の4人で行う。初回は全員が顔をそろえて舞台挨拶を行う。これから、この開幕戦に向けて少しずつテンションをあげていかねばならぬ。
  有隣堂で以下の雑誌を購入し、「カフェ・ド・クリエ」で読む。

  『住みたい街。』(「散歩の達人」テーマ版ムック、交通新聞社)
  『yom yom』10(新潮社)

  井上荒野の「食いしん坊の系譜―井上光晴のだご汁」を読んで、彼女が井上光晴の娘であることを初めて知った。直木賞受賞関連の記事は読んでいたはずだが、見落としていたのだろうか。「井上」というのは珍しい姓ではなく、作家にも「井上靖」や「井上ひさし」がいるので、油断をしていた。まあ、知ったところで、吉本ばななが吉本隆明の娘だと知ったときほどの驚きはありませんけどね。

  「食べることへの私の異常な―と、夫や幾人かの友人から指摘される―情熱は、父から受け継いでいる。自分にまずいものを食わせたという理由で、その相手の人格から思想的背景にまで及んで批判する人だった。」

  う~ん、いかにも「全身小説家」井上光晴らしいエピソードだ。私だって食いしん坊ではあるが、自分にまずいものを食わせた相手への批判がその思想的背景にまで及ぶことはない。せいぜい人格どまりだ。

  「母は父の情熱をよく了解していて、食事にだけは手を抜かなかったが、それでもたまに、何かの手違いで味噌汁が少しでもぬるいと、もうそれだけで食卓はハルマゲドンと化した。逆に父の好きなだご汁の土鍋が、湯気をたてながらテーブルにあらわれれば「もう俺はこの汁だけあればいい」などと言い放って、それはそれで母をがっかくりさせたりしていた。」

  ぬるい味噌汁が許せない感覚、これは私にもよくわかる。「さあ、食事だ」という高揚した気分が「100」から一挙に「20」くらいまで急降下する。これは自宅の食卓に限らず外で食事をするときもそうで、思わず、店員に「料理人を呼んできてくれ」といいたくなる(実際にしたことはないけど)。食後の珈琲がぬるいときもこれに同じ。
  ところで「だご汁」って何だ?

  「だご汁とは「団子汁」がなまったもので、我が家の団子はじゃがいもで作る。じゃがいもをすり下ろし、ざるにあげて水気を切る。その水は捨てずボールに受けて、しばらく置くとでんぷんが沈殿するので、それをざるにあげたものに混ぜて、団子にする。汁のだしは煮干で、のっぺいふうに薄口で味付けしたり、味噌仕立てにするときは少し甘めの九州の蕎麦味噌を使う。」

  うまそうだ。普通の団子汁は小麦粉で作った団子を使うが、じゃがいもで作った団子はトロリ感があるだろう。息子はじゃがいもが大好きだから(イモ男の異名を持っている)、きっと「もう僕はこの汁だけあればいい」と言いそうな気がする。

  「おっ、今日はだご汁か、という父の嬉しそうな声を懐かしく思い出す。私は二十八歳ではじめて家を出てひとり暮らしをはじめたのだが、ある日どうしてもだご汁が食べたくなって、母に電話して作り方を聞いた。あとから妹から聞いたことだが、そのときたまたまその場にいた父が、「あれは、だご汁を食べさせたい相手ができたんだな」とぼそぼそ呟いていたらしい。」

  娘は23歳で、まだ同居しているが、帰宅は遅い。最近は3月末の芝居の稽古で帰ってこないこともある。ちゃんと食事はとっているのだろうか。・・・ということで、宣伝です(長いフリだったな)。

  ドラマチックカンパニー・インハイス第5回公演「機織り淵の龍の華」

  *チケット代は2500円とのこと(前売り・同日同じ)