フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月29日(日) 晴れ

2009-03-30 11:48:46 | Weblog
  10時、起床。昨夜の残りのハンバーグ、トースト、牛乳の朝食。
  午後、娘が出演する芝居(ドラマチック・カンパニー・インハイス第5回公演『機織り淵の龍の華』)を観に妻と一緒に阿佐ヶ谷に行く。現地で義姉夫婦と合流。一番乗りで、一番前の列の中央の席に座る。

         

  インハイスの芝居を観るのはこれで3回目だが、左観哉子の脚本には二つの大きな特徴がある。第一は、緻密に構成されたストーリーだがその全体(ストーリー性)が見えてくるのは芝居の中盤以降であるということ。最初、ストーリーは、ジグソーパズルのように分解されて、時間的な順序とは関係なく、その断片が提示される。いずれも重要な場面なのだが、それがわかるのはもっと後になってからで、個々の断片は浮遊して容易にそのつながりはわからない。だから観客は、とくに初めてインハイスの芝居を観る場合、混乱と緊張を強いられる。それが登場人物の回想的語りを導きの糸として、しだいに浮遊していた断片同士がつながっていく。謎に満ちていたいくつかの断片は繰り返し再現されることで、その謎が解けていく。ジグソーパズルの断片がしかるべき場所にピッタリとはまったときのような快感を観客は味わうことになる。拡散(分解)から収斂(統合)へ。これはミステリーの手法である。第二は、出口のないような悲劇的な状況の中にほのかな(決してハッピーエンドではない)希望を見出して物語が終るということ。悲劇は個人の責任には帰属できないような要因、どういう土地(地域共同体)、どういう家族(血縁共同体)の一員として生まれ育ったか、ということと大きくかかわっている。主人公(の一人)の青年は悲劇的な状況の中で犯してしまった罪から逃れるために、生まれ育った土地を離れ大都市へ出て、ささやかな安住の場所を得るが、それはひとときのもので、消し去ることのできない記憶と、脱出したはずの共同体からの追っ手の出現によって、さらなる罪を重ねてしまう。6人の登場人物のうち2人は殺され、1人は自殺し、2人は生身の人間ではなく主人公(の一人)の娘が悲劇的な状況に適応していくために作り出した幻影であることが明らかになる。最後に残ったその娘が自殺をすれば悲劇は完成されるところだが、その一歩手前で娘は踏みとどまる。娘を踏みとどまらせたのは「生きてほしい」という死者からの呼びかけである。その死者が死者となる直前に、娘と交わす独白は胸を打つ。私は(隣の妻も)思わずもらい泣きしそうになった。この結末は、悲劇的ではあるが悲劇ではなく、かといって希望と呼ぶにはほのかなもので、祈りと呼ぶのが一番ぴったりくる。6人の役者たちはみな熱演であった。何箇所か台詞をかむところがあったが、あれだけの長台詞だ、舞台ならではのものとして許容される範囲内のものである。音楽がよかった。一定の旋律の繰り返しなのだが、台詞の間合いと音楽との間合いがピッタリだった。これはたまたまのものでなく意図されたものであろう。見事であった。音響の重要性を再認識させてもらった。父親としての視点からの感想を加えるならば、娘の横顔、顎のラインがずいぶんとシャープになっているのに気づいた。今回の公演に合わせて減量をしたのか、日常の仕事がハードなのか、どっちだろう。平日は遅くまで働き、土日は芝居の稽古。エネルギー全開の毎日だが、若さを過信しないで、しっかりと休息もとってほしい。次なる公演も楽しみにしている。
         
         
                        新宿の目

  夕食は義兄が予約しておいてくれた「新宿三井クラブ」(三井ビル54階)で。三井グループの会員制のレストランなので、一般の人の利用はできない。日曜・祝日は8時半閉店(平日は9時半閉店)という商売っ気のなさには驚いた。普段ならこれから夕食という7時半がラストオーダーの時間なのである。