フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月27日(金) 晴れのち曇り

2009-03-28 10:58:36 | Weblog
  9時、起床。昨夜の残りのロールキャベツとトーストの朝食。『かもめの日』は読売文学賞を受賞した小説だが、東京の別々の場所で起こっている複数の出来事が「どこかでつながっている」という物語で、村上春樹『アフターダーク』もそういう物語だったが、流行の視点なのだろう。昔は違った。山田太一『岸辺のアルバム』(1977年)のように、つながっているはずの家族が実はバラバラだったというのが流行の視点だった時代があった。家族はつながっている、つながっているべきだ、つながっていてほしい、そう誰もが思っている時代に「実は・・・」という視点はショッキングであり新鮮だったのだ。いまはそんなことをいっても誰も驚かない、さらなる個人化の時代なのだ。だから、そういう時代には、「バラバラのようで実はつながっている」という視点が求められるのだろう。
  午後、散歩に出る。「石川屋食堂」で餃子と半炒飯の昼食。餃子は大ぶりなのが5個出てきた。ご飯が進む、進む。半炒飯でなく普通のライスにすべきだったか。

         

  アロマスケアビル前の「カフェ・ド・クリエ」で食後の珈琲を飲んでから、ジムへ。ウォーキング&ランニングを1時間。オムライス一皿分のカロリーを消費。
  くまざわ書店で以下の本を購入し、「シャノアール」で読む。今日は意識してライフストーリー的なものを選んで購入した。

  坂本龍一『音学は自由にする』(新潮社)
  はるは愛『素晴らしき、この人生』(講談社)
  押切もえ『モデル失格』(小学館)
  神地雄輔『神地雄輔物語』(ワニブックス)
  中村江里子『中村江里子のわたし色のパリ』(KKベストセラーズ)
  川上弘美『東京日記2 ほかに踊りを知らない。』(平凡社)

         

  「ちょっとしたはずみで、こうして自分の人生を振り返ってみることになりました。本音を言えば、あまり気が進みません。記憶の断片を整理してひとつのストーリーにまとめる、というようなことは、本当は性に合わない。
  でも、ぼくがどんなふうに今の坂本龍一に辿りついたのかということには、ぼくも興味があります。なんといっても、かけがえのない自分のことですから、自分がなぜこういう生を送っているのか、知りたいと思う。」(坂本龍一、7頁)

  典型的なインテリの自伝の書き出しである。自己を語ることへの羞恥と欲望。

  「生きていて良かった。これがいま、この本を書き終えた私の正直な気持ちです。
  この本を書くために自分の人生をふり返ってみると、本当に苦労の連続でした。
  でも、私の人生には、この本に書いたどんな苦労も欠けてはダメだったと思います。
  いろんな苦しみが、いまの私をつくってくれました。大変な困難を経験したからこそ、小さな喜びや普通の幸せを何倍にも大きく感じることができます。」(はるな愛、252頁)

  苦労の末に社会的成功(芸能人の場合は「売れる」ということ)を収めた人の自伝である。語りのなされている「現在」が満足すべき状態にあるとき、過去の辛い経験はすべて「現在」という視点から成功(あるいは幸福)に至る物語として編成される。

  「太宰治の小説『人間失格』を読み返すたびに、思うことがあります。
  弱さゆえに転落していく主人公の人生と、私のモデル人生には、どこか似ているところがある、と。
  寂しさゆえに愛を求め、愛を求めるがゆえに寂しい主人公の姿がどうしても他人事とは思えないのは、私がモデルとして挫折し、苦しんでいるときの姿とあまりにシンクロするからなのかもしれません。
  その意味で、あえて言いたいのです。私は「モデル失格」だ、と。
  そして、それを認めたときから、私のモデル人生は始まった、と・・・」(押切もえ、9頁)

  出版される自伝は商品である。だから読者(消費者)の欲求に応えるところがなくてはならない。めぐまれた素質を持って生まれた人が恵まれた環境の中で育って社会的成功をなんなく手に入れた・・・というような物語は自伝としての商品価値がない。「自伝失格」である。好まれるのは、挫折や失敗から再起して社会的成功を手に入れる物語である。そうした物語は挫折や失敗から再起しようとしている人々(それが社会の主流である)のモデルとなることができるからだ。

  「僕が今まで人生で一番聞かれる質問。
  ☆何で野球やめたの?☆
  それはバイトのつもりで入ったこの世界で、ドラマがたまたま決まっちゃったタイミングである。でもワガママを言えば野球を選べた。よく周りの人や記事には『ケガをしたから』て言われるけど、そんなカッコいいもんじゃない。理由は、
  ただ好きだからってだけで6才から始めた野球をあの時、背番号『2』をもらった時、「ホッ」とした自分に絶望した。いつの間にか、「恩返ししなきゃ」「~のために」「~しなきゃ」て気持ちの方が自分の「好き」を上回ってた。見えなくさせてた。
  だからその時、スパッとやめた。でも唯一あの頃と違うこと。今「誰かのため」より「好き」が勝っている。
  かかってこんかい。そんな感じ。」(神地雄輔、158頁)

  子供は親(に代表される他者)の期待を自身の夢に変換して、しかし、多くの場合、変換しているという事実に気づかずに、生きている。その事実に気づくのは、期待に応えて生きていくことが困難になったときだ。「したいこと」と「しなくてはいけないこと」が乖離し、そのズレはしだいに大きくなり、息をすることさえ苦しくなっていく。そうした状況で、神地雄輔は「しなくてはいけないこと」を捨て「したいこと」を選んだ。ただし、そういう選択が満足すべき結果をもたらすという保証はない。神地の場合は、その後の彼の努力と幸運がその選択を「間違っていなかった」と認識させたが、それは結果論である。多くのケースでは、選択が「間違っていた」となるかもしれないというリスクが選択を躊躇させる。「しなくてはいけないこと」の範囲内に踏みとどまって「したいこと」を断念する、あるいは知らず知らずに「したいこと」を忘れてしまうというのはありがちな話である。そういうありがちな話が商品として書店に並ぶことはない。神地は1979年の生まれだから今年で30歳になる。彼が世間の注目を浴びるようになったのはこの1年ほどのことであろう。『神地雄輔物語』は、彼が横浜高校を卒業して、多数の大学からの推薦入学の誘いを断って、俳優としての道を志してからブレイクするまでの10年間についてはほとんど語っていない。単純に面白くないからかもしれないし、彼を「シンデレラボーイ」として演出しようとする製作サイドの編集方針に合わないからかもしれない。あるいは彼自身が頑として語らなかったのかもしれない。「あとがき」的な部分で語られる彼の次の言葉が印象的だった。彼は「シンデレラボーイ」ではないし、「おバカ」でもない。

  「28才。
  28才が一番「おめでとう」ってたくさんの人から言われた。「おめでとう」って言われるから「ありがとう」て言ってる。
  それと同じくらいいろいろなものがなくなった。だから今年が一番オトンとオカンから「大丈夫か?」て言われた。「大丈夫か?」って言われるから「大丈夫」つってる。そんな1年間だった。」(神地、177頁)

         

  川上弘美『東京日記2 ほかに踊りを知らない。』は『東京日記 卵一個分のお祝い』の続編である。ずっと続いてほしい。

  「三月某日 曇
  税金のことをする。
  「申告する」とか「計算する」とか「帳簿に買いこむ」という言いかたができればいいのだが、そんなところまでとてもじゃないが行き着かない。ただ「それに向ってじりじりと匍匐(ほふく)前進している」っていう感じ。
  午後、疲れ果てて、同業の友人に電話したら、やはり憔悴した声で、前置きもなしに、「ぜいきん」とつぶやいた。ぜ、ぜいきんが、ど、どうしたの、と聞き返すと、友人はしばらく黙り込み、それからふたたび「ぜいきん」とだけ言った。
  つらい気持ちになって、静かに受話器を置く。」(7頁)

  うまいな、と感嘆するほかはない。