8時ちょっと前、窓の戸の隙間から差し込む光で、目が覚める。天気予報通り快晴だ。しかし、この天気は今日一日限りのもの。ならば今日は海辺へ行こう。「Kaga」で昨日と同じハムトーストと珈琲の朝食をとってから、内灘へ。一昨日とは打って変わって暖かい。海岸に出ると風はあるものの砂塵が舞うほどではない。海を眺めながらものを考えることは難しい。頭の中にある考えるべき諸問題が消えてなくなるわけではないが、ものの大きさを測る尺度が日常とは違ってくるため(目盛りが大きくなる)、諸問題の大きさが相対的に小さくなり、いま、ここで考えなければならないものではなくなる。♪海は広いな大きいな~で始まる唱歌は「海」だったろうか。ものを考える代わりに、海をモチーフにした歌を口ずさみたくなる。「ある日渚で」「心の海」「海、その愛」・・・自然と、加山雄三の曲が多くなる。そういう世代なのだ。
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砂浜の一角に、ポツンとコンクリートの小さな建造物がある。「射撃指揮所」と書かれた看板が立っている。いまから55年ほど前、この海岸は米軍の砲弾試射場だった。当時は、日本の各地で米軍基地反対運動が起こっていたが、内灘闘争はその中でも大規模なものの一つだった。「射撃指揮所」は試射場の名残であり、歴史的モニュメントとして保存されているのだ。砲弾の試射は浜辺から海へ向かってなされたのではなく、長く伸びる海岸線に沿ってなされた。砲弾の着弾地点に反対運動の人々(地元の漁民や共産党の青年たち)は小屋を建て居座って試射を阻止しようとしたが、お金(補償金)や物理的な力(強制撤去)によってやがて反対運動は消滅した。「射撃指揮所」の階段を登って浜辺を見渡してみた。知らなければ、そんなことがあったなんて、想像もつかないだろう。長くのびる砂浜と日本海しか見えない。
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昼食は海岸からほど近い住宅街(かつての砂丘を造成して住宅地にしたのだ)の中にある「ア・シュビ・デュビ」という名前のレストラン・カフェで。こんな場所にこんなお洒落な・・・と思ってしまうような店だ。一昨日、海岸から駅に戻る途中でみつけたのだ。夏の海水浴のシーズンにはお客さんがけっこう来るのだろうが、いまの季節はどうなのだろう、と思いつつ店内に入ると、2組の先客(若い女性の3人連れと若い男女のカップル)がいた。あとから中年女性の2人連れや漁業組合のおじさんのような人も入ってきた。けっこう常連が多そうだ。パスタのスペシャルセットを注文。サラダ、ひき肉のスープ、オードブル2品(白身魚の刺身をドレッシングで、牛肉のたたきを洋風のソースで)、パスタ(オリーブオイルを使ったベーコンと水菜のパスタ)、デザート(パンナコッタ)、飲み物(グレープフルーツジュースをチョイス)がついて1300円ちょっと。パスタはガーリックがよく効いていてとても美味しい。ただ、塩味は中年の客用に心持ち控えめにしてくれたほうがよかった。たぶんそこまでの調整はしていないのだろう。
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隣のテーブルの女性3人組は、離婚や再婚や恋愛といったきわめて個人的な話をしていた。地元の言葉で話していた。儀礼的無関心を働かせて「聞かないふり」はしてもどうしても聞こえてきてしまう。ここが視覚と聴覚の決定的な違いだ。ライフストーリー研究者の血が騒いでしまう。人はなぜ人生の物語を語るのだろうか。「語る」ことは「生きる」ことだからだ。「語る」ことで過去の経験は意味を付与される。それも語る時点の状況から。だから過去の経験の意味は微妙に、あるいは劇的に、変化していく。人生の物語の語り直し、書き直しと呼ばれる現象である。人間的時間の構造の中では過去も未来も現在に属している。「いま」を生きることは目の前の世界を生きることではない。過去を回想し(懐かしがったり悔やんだり)、未来を展望すること(夢見たり不安に感じたり)も、「いま」を生きることなのだ。そのためには聴き手である他者が必要だ。隣のテーブルの見知らぬ中年男も何かの役割を演じているはずである。見知らぬ人間、明らかにこの土地のものではない人間であることが見て取れるから、彼女たちは無防備に個人的な物語をレストラン・カフェの窓辺のテーブルで語ることができるのだ。私がパスタに気をとられている間に話題はヘアスタイルとか白髪染めのことに移っていた。私には何の関心もないテーマである。それから先は食事に集中することができた。
夜、ホテルの部屋で『ありふれた奇跡』を観る。組み合わせを異にする、さまざまなペア(ときに3人)の会話がほとんどを占める。会話だけで一回分のドラマを成立させてしまうとは、山田太一おそるべし。
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砂浜の一角に、ポツンとコンクリートの小さな建造物がある。「射撃指揮所」と書かれた看板が立っている。いまから55年ほど前、この海岸は米軍の砲弾試射場だった。当時は、日本の各地で米軍基地反対運動が起こっていたが、内灘闘争はその中でも大規模なものの一つだった。「射撃指揮所」は試射場の名残であり、歴史的モニュメントとして保存されているのだ。砲弾の試射は浜辺から海へ向かってなされたのではなく、長く伸びる海岸線に沿ってなされた。砲弾の着弾地点に反対運動の人々(地元の漁民や共産党の青年たち)は小屋を建て居座って試射を阻止しようとしたが、お金(補償金)や物理的な力(強制撤去)によってやがて反対運動は消滅した。「射撃指揮所」の階段を登って浜辺を見渡してみた。知らなければ、そんなことがあったなんて、想像もつかないだろう。長くのびる砂浜と日本海しか見えない。
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昼食は海岸からほど近い住宅街(かつての砂丘を造成して住宅地にしたのだ)の中にある「ア・シュビ・デュビ」という名前のレストラン・カフェで。こんな場所にこんなお洒落な・・・と思ってしまうような店だ。一昨日、海岸から駅に戻る途中でみつけたのだ。夏の海水浴のシーズンにはお客さんがけっこう来るのだろうが、いまの季節はどうなのだろう、と思いつつ店内に入ると、2組の先客(若い女性の3人連れと若い男女のカップル)がいた。あとから中年女性の2人連れや漁業組合のおじさんのような人も入ってきた。けっこう常連が多そうだ。パスタのスペシャルセットを注文。サラダ、ひき肉のスープ、オードブル2品(白身魚の刺身をドレッシングで、牛肉のたたきを洋風のソースで)、パスタ(オリーブオイルを使ったベーコンと水菜のパスタ)、デザート(パンナコッタ)、飲み物(グレープフルーツジュースをチョイス)がついて1300円ちょっと。パスタはガーリックがよく効いていてとても美味しい。ただ、塩味は中年の客用に心持ち控えめにしてくれたほうがよかった。たぶんそこまでの調整はしていないのだろう。
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隣のテーブルの女性3人組は、離婚や再婚や恋愛といったきわめて個人的な話をしていた。地元の言葉で話していた。儀礼的無関心を働かせて「聞かないふり」はしてもどうしても聞こえてきてしまう。ここが視覚と聴覚の決定的な違いだ。ライフストーリー研究者の血が騒いでしまう。人はなぜ人生の物語を語るのだろうか。「語る」ことは「生きる」ことだからだ。「語る」ことで過去の経験は意味を付与される。それも語る時点の状況から。だから過去の経験の意味は微妙に、あるいは劇的に、変化していく。人生の物語の語り直し、書き直しと呼ばれる現象である。人間的時間の構造の中では過去も未来も現在に属している。「いま」を生きることは目の前の世界を生きることではない。過去を回想し(懐かしがったり悔やんだり)、未来を展望すること(夢見たり不安に感じたり)も、「いま」を生きることなのだ。そのためには聴き手である他者が必要だ。隣のテーブルの見知らぬ中年男も何かの役割を演じているはずである。見知らぬ人間、明らかにこの土地のものではない人間であることが見て取れるから、彼女たちは無防備に個人的な物語をレストラン・カフェの窓辺のテーブルで語ることができるのだ。私がパスタに気をとられている間に話題はヘアスタイルとか白髪染めのことに移っていた。私には何の関心もないテーマである。それから先は食事に集中することができた。
夜、ホテルの部屋で『ありふれた奇跡』を観る。組み合わせを異にする、さまざまなペア(ときに3人)の会話がほとんどを占める。会話だけで一回分のドラマを成立させてしまうとは、山田太一おそるべし。