フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

4月8日(日) 晴れ

2012-04-09 00:57:50 | Weblog

  9時、起床。炒飯の朝食。昨日と同じく晴天だが、昨日よりも暖かい。散歩日和だ。

 午前中にあれこれの雑用を片付けて、恵比寿の東京都写真美術館に行く。

  見物の前に「サンジェルマン」のテラスで腹ごしらえ。ハムカツと卵のサンド、ドーナツ、コーヒー(687円)。 

  写真美術館ではいつも同時に3つの展示会(と1本の映画)をやっているが、今日のお目当ては地下1Fで開催中の「生誕100年記念写真展 ロベール・ドアノー」。ドアノーの名前を知らない人もどこかで彼の作品「パリ市庁舎前のキス」を見たことのある人は多いのではないだろうか。パリやパリ郊外に生きる人々(庶民から有名人まで)を撮った物語性のある写真で知られる写真家だ。 

  今年が生誕100年ということは1912年(大正元年)の生まれである。こういう場合の私の癖で、つい「清水幾太郎より5年遅く生まれた」と思ってしまう。亡くなったのは1994年だから、「清水幾太郎より6年遅く死んだ」と思う。二人はほぼ同時代人なのだ。これだけならたんなる偶然だが、今回の展示会のカタログに堀江敏幸先生が書いた文章(遠くて近い場所から―ロベール・ドアノーと郊外)の中のこんな一文にハッとした。

  「被写体となった人物の、横に広がる現在だけでなく、背後に伸びていく過去までもとらえて、そこから小さな物語を紡ぎ出す楽しみを与えてくれる写真家、ロベール・ドアノー。彼は、いわゆるしかつめらしい顔をした芸術写真家ではなかった。芸術という但し書きを必要としなない、ひとりの写真家だった。生活のためには注文仕事も進んで引き受け、依頼者が要求する「色」にあえて染まってみせながら、自身の内側にあたらな鉱脈を探るという、受け身の術に長けた表現者だったと言い換えてもいい。」

  これは自らを「売文業者」と言った清水幾太郎と同じではないかと思ったのである。清水は編集者の注文に応じていろいろなテーマで文章を書いた。「どうぞ先生の書きたいテーマで」という注文が一番苦手で、「ぜひこういうテーマで」と注文されたほうが書きやすかった。それまであまり考えたことのないテーマであっても、編集者と話しているとしだいにそのテーマに興味がわいてきた。執筆を引き受けることでそのテーマについて猛烈に勉強をすることになる。そうやって自分の関心領域、専門領域を広げていった人である。
  今回の展示会を観て、ドアノーも生活のためにいろいろな注文仕事を引き受けて、外部の要請に応えながら、それを写真家としての成長(あるいは変貌)の糧としていった過程がよくわかった。無駄な経験は何ひとつない。 

  4時頃、帰宅。充電池の切れたカメラを別のカメラと取り替えて、近所の呑川の桜を見に行く。日常生活の圏外にある名所の桜よりも、わが町の桜を愛でたいと思う。

  去年までであれば、桜を眺めながら、呑川を上流に向かって歩き、池上の「甘味あらい」に顔を出すところであるが、今年はそれができない。人生の無常を思う。年々歳々花相似たり。歳々年々人同じからず。だからこそ一期一会の気持ちが大切なのだ。