フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

7月3日(火) 晴れ

2018-07-04 02:32:20 | Weblog

5時半、起床。

不思議な夢を見た。押入れから兜だったか雛人形だったかを取り出したら、その箱の中に紙にくるまれたバッタの細工があった。透明な薄いガラスのような素材で作られたものであったが、それがピクリと動いた。生きているのだ。本物のバッタが、紙に包まれて、飲まず食わずにしている間に、内臓もなくなり、だんだん外皮も透明になっていったような感じだった。とりあえず水を与えようかどうしようか考えているときに、目が覚めた。4時に寝て、まだ1時間半しか経っていない。ひどく喉が渇いていた。起きて、冷蔵庫の麦茶を飲んだ。すでに日本対ベルギー戦は終わっている時刻だが、書斎のテレビを点けて日本の敗戦を知った。10前半(0-0)を観て、就寝したが、後半は2-3と激しい点の取り合いの試合だったことを知る。観たかったな。

睡眠時間1時間半で起きる訳にはいかない。もう一度、寝る。

10時半、起床。

トースト、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。

今日の『半分、青い』。漫画家の道をあきらめるかもしれないことを鈴愛はおじいちゃんに電話で伝える。そしておじいちゃんの歌が聞きたいという。とくに曲目の指定はなかった。そこでおじいちゃんが歌ったのが、加藤和彦と北山修の『あの素晴らしい愛をもう一度』だった。私が高校生の頃(1971年)に流行ったフォークソングである。おじいちゃん、若い。しかし、なんでよりによってこの曲なんだろうか。『明日があるさ』ならわかるけど。

 あのとき同じ花を見て 美しいと言った二人の

 心と心がいまはもう通わない あの素晴らしい愛をもう一度

鈴愛を泣かそうとしているとしか思えない。

昼から大学へ。

3限は院生の研究指導。マスターのCさんの報告。

休み時間に昼食。おにぎり2個(鮭と梅)。

4限はゼミ論指導。前半はKMさん。テーマは「ポストモダンの老後生活論」。生産(再生産)中心主義のモダン社会の視点からはすると、労働場面や子育て場面からの離脱は社会の周辺への押しやられである。そのため「生涯現役」的な発想も生まれてくる。しかし、生産(再生産)中心主義を問い直すという視点(ポストモダン的視点)からみたら、老後生活の新しい風景が広がってくるはずである。

後半はSY君。テーマは「ニヒリズム」。青年期はもっともニヒリズムに傾きやすい年代である。なぜなら青年は人生の意味を問おうとするからである。「人生に意味などない」というのはその論理的帰結(の1つ)である。多忙な生活を送っている社会人は、そういう問いそのものと向き合うことをしないから、ニヒリズムに陥ることはむしろ少ない。心身の疲弊から鬱に陥ることはあるが、それはニヒリズムとは別のもの、生のエネルギーの低下である。「人生に意味などない」という命題からは、「だから生きるのを止めよう」という発想と、「それでも生きていこう」という発想のどちらもが生まれえるだろう。いわゆる「弱いニヒリズム」と『強いニヒリズム」である。

SY君から差し入れをいただいた(西瓜ゼリー)。その場でいただこうとしたら、「どうぞ冷やしてから食べ下さい」と言われる。はい、ごもっともです。たとえ「人生に意味などない」としても、さしあたり「西瓜ゼリーを冷やしから食べる」という目的ができたので、人は少しばかり未来志向的になれるのである。それは「人生の目的」というような大仰なものではないが、「人生の楽しみ」の微小な一片ではあるだろう。

5限は演習「現代人と社交」。

授業を終え、6時半に大学を出る。

7時45分、帰宅。

夕食は豚肉の味噌漬けと玉ねぎの炒め、

出汁巻玉子、南瓜とトマトのサラダ、茄子の味噌汁、ご飯。

デザートはさくらんぼ。

日本対ベルギー戦のハイライトシーンをあちこちのテレビ局の番組で何度も観る。何度も観ながら、ライブで観たかっと何度も思う。

3時、就寝。