8時15分、起床。
不安定な空模様。
向こうに見える専門学校の高いビルの窓を掃除(?)している人の姿が見える。あの広い面積を一人で作業するのか。あるいは窓掃除でなく何か他のことをしているのかもしれない。窓掃除ならゴンドラに乗りそうなものだ。もしかしたら「ミッション・インポッシブル」みたいなことか?
トースト、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。卵と肉の料理がないのは、今朝の体重が私の設定している基準を200gオーバーしていたからである。鉄は熱いうちに打たねばならない。
朝刊に「早稲田大に爆破予告」という記事が出ている。「学内の主要な建物を4日午後1時に爆破する」という予告メールが届いたそうである。以前にも同じようなことがあり、そのときは何もなかった。今回もイタズラであろうと思うが、大事をとって明日(4日)は全キャンパ(および附属の中高も)が閉鎖されることになった。
一昨日のブログで我が家のカレンダーのことを書いたが、1つ忘れていたカレンダーがあった。パソコンに張り付けて使っているカレンダーである。4か月先までのシールが貼れる。9月、10月、11月、12月、今年の残り時間はこのシール4枚だ。パソコンで作業をするときいつも目に入るから、一番活用しているカレンダーはこれかもしれない。
白い雲がもくもくと湧いているが、蒼空も覗いている。
昼食は「マーボ屋」に食べに行く。
注文をすませてから持参した岩波文庫の『日本近代短篇小説選』(大正篇)の中の川端康成「葬式の名人」を読む。川端は幼くして両親を亡くし、祖父母に引き取られたが、16歳のときまでに姉も祖父母も亡くし、天涯孤独の身になった。親戚縁者も含めて若い頃からたくさんの葬式に参列していたため、いつしか「葬式の名人」と周囲から呼ばれるようになったそうである。
姉は私が四、五歳の頃から親戚の家に育てられそこで私が十一、二の年に死んだ。私は父母の味と同じく姉の死を知らない。祖父は姉の死を悲しめ、悲しめと私に強要した。私は自分の心の中を捜してみたが、どの感情を何物に託して悲しみを感じたらいいかに迷った。ただ老弱な祖父の哀傷極まった姿が私の心を刺し貫いた。私の感情は祖父に走り寄りそこに止まったままで祖父を越えて更に姉の方へ行こうとはしなかった。(305頁)
私が一番好きな川端の作品は「伊豆の踊子」だが、自分のような人間が人から好意をもたられるはずがないと思い込んでいる主人公が、思いもかけず人から好意を寄せられたときの、新鮮な驚きと戸惑いと、安堵の気持ちが描かれたいた。おそらく川端自身「人から好意を寄せられたい」という気持ちのとても強い人だったように思う。
棒棒鶏冷麺。
食事を終えて店を出たとたんに雨がポツポツと降り始め、どんどん雨脚が強くなる。あわてて帰宅。
時間をかけて作成した文書をメールで事務所に提出する。(その後、一か所ミスが見つかって、夕方に再提出)。
変りやすい天気で、夕方にはまた青空が覗いた。
夕食はハヤシライス。数日前に、スーパーで牛肉が安かったらしく、そのとき買った牛肉を使ってハヤシライスを作ることは予告されていた。なので今日の昼食はそれと被らないように鶏肉を使った中華料理にしたのだが、色合いは被っている。
ハヤシライスとサラダとトウモロコシ。
カレーライスとハヤシライスは似ているようで似ていない。カレーライスを食べるときは牛乳を飲むが、ハヤシライスのときはそれはしない(普段通り麦茶である)。
食事をしながら『プレバト』を追っかけ再生で見る。録画した番組は夕食を食べながら観るのが常で、わざわざそれだけを観るために時間を割くということはまずない。
夕食後の時間は「読む」ことや「書く」ことに使いたい。
ウィリアム・トレヴァー『ラスト・ストーリーズ』の「訳者あとがき」の中で、栩木先生はこう書いている。
トレヴァーの作品にむらないがないこと、駄作がないことはつとに指摘されてきたところだけれど、短篇小説をひとつひとつ磨き上げてきた彼の手業は最後まで衰えを見せなかった。それどころか、この本におさめられた十篇を読んでいただければ、すでにことばを尽くして賞賛されたトレヴァーの語りの魅力が、今までにないくらいの大輪の花を咲かせているのを楽しんでいただけると、ぼくは確信している。
細かな心理描写、皆まで言わずに寸止めする省筆の冴え、人生に潜む多義的なうまみをそっと手の平に載せて差し出すかのような場面など、トレヴァーが持つストーリーテリングの妙味と人間観察の繊細さはここに至って頂点に達したのではないかと思う。ただしその分、彼の文章にはつねにも増して、読者に考えさせる要素が詰まっている。翻訳作業をしながら、日本語表現が英語を裏切らないよう、いつも以上に心がけたつもりだけれど、その成否は読者のみなさんにご判断いただくより他にない。
私が若い頃、日本文学の作品ばかり読んでいたのは、外国文学の翻訳の文章に馴染めなかったからだ。そこからわかることはストーリーと思想だけで、文章を味わう楽しみが欠落していた。当時、栩木先生のような翻訳家がたくさんいたら、もっと外国文学に親しんでいたことだろう。
ところでこの本には栞紐が付いていない。「スリック」のマダムからいただいたブックマーカーの出番である。
2時半、就寝。