ミシッシッピーのベントニア・ブルースを代表するスキップ・ジェームス。といっても、ベントニア地方なんて行ったことも無いのでどの辺に在るのか知らないし、地図にも載っていないので想像もつかない。が、以前観たヴィデオで「昼間でもお化けが出そうなところ」という紹介フレーズがあったので、かなり鄙(ひな)びたところであることは間違いなさそうだ。資料によると位置的にはデルタ地方の南東、ヤズー・シティーとジャクソンの中間あたりにあるらしい。そんなベントニアに昔ヘンリー・スタッキー(Henry Stuckey資料によってはStarkneyとなっている)というギターリストがいたという。録音も残っていないので、どんなプレーヤーだったか詳しい事は全くわからないが、独自の音使いを残した天才的な人だったと思われる。そのスタッキーの影響下で、ギター・プレイを習得し、後に貴重な録音を残したのがスキップ・ジェイムスとジャック・オーウェンスの二人だ。今回は、ジェイムスを取り上げる。
スキップ・ジェイムス(Skip James,1902Bentonia,Miss~1969Philadelphia,Pa)、本名はNehemiah James。Nehemiahとは、旧約聖書の「ネヒミア記」に由来すると思われる名前で、実際スキップ・ジェイムスの父は牧師だったらしい。ただし、米式の発音はネヒミアではなくニーアマイアーになる。
P-VINEのCD2263。1931年、ウィスコンシン州グラフトンでの歴史的録音18曲を収めている。内4曲では、ギターではなくピアノを弾いている。繊細さの中にもどこか硬直な芯が通った演奏は聞き応え十分。ブルース・ファンには、スキップ・ジェイムスは苦手と言う人も多いが、わたしはブルース史上忘れてはならないミュージシャンの一人だと思っている。この録音はあまり売れなかったためかジェイムスはこの後ブルースの演奏をやめて、テキサスに移りゴスペルを歌っていたらしい。さらに、その後には自身も牧師になったという。1940年代から20年以上音楽活動から遠ざかっていたジェイムスだが、彼を尊崇するギターリストのジョン・フェイ(John Fahey)らにより1964年に見つけ出され、ふたたびブルースを演奏するにいたった。
BiographのLP12016。再発見された1964年の12月に録音された9曲を収録。この頃、ジェイムスはすでに体調を崩していたといわれ、そのためか声の張りを失っている。が、ギター・プレイは「さすが」と思わせるタイミングの絶妙さがある。この後、1967年にはエリック・クラプトンのいたクリームがジェイムスの[I'm So Grad]をカヴァーしてヒット・チャートにのせ、そのロイヤルティーで病気の治療をしたとも言われている。
DOCUMENTのCD5633・5634。1968年3月、インディアナ州ブルーミングトンで行われたコンサートの模様をスピーチを含めて収録。インディアナ大学のフォークソング・クラブの招きで行われたもので、若い聴衆を前にリラックスした好演奏をしている。ジェイムスのあたたかい人柄が、スピーチや演奏に表われているように感じられて、わたしの愛聴盤である。
ジェイムスの音楽は、「マイナー・ブルース」とも言われる。確かに、ギターのチューニングをノーマルから4弦5弦を一音上げて弾く曲は「オープンEマイナー・チューニング」にはなるが、実際は3弦1フレットをほとんど押さえて弾いているので、厳密にはマイナーとは言えないだろう。この1弦から3弦まではノーマルと同じ押弦で弾けるオープン・チューニングにより、ジェイムスは独特の情感を表現し、ファルセットでのヴォーカルと相まって他のブルース・マンとは違う世界を作り上げている。
この録音の翌年、1969年10月にジェイムスは癌のためフィラデルフィアで亡くなった。その翌年の1970年に、ベントニアのギターを受け継いでいたもう一人のジャック・オーウェンスは録音をレコードにすることになった。彼は、デイヴィッド・エヴァンスにより1966年に見出されていたのだった。次回は、そのオーウェンスを取り上げよう。
スキップ・ジェイムス(Skip James,1902Bentonia,Miss~1969Philadelphia,Pa)、本名はNehemiah James。Nehemiahとは、旧約聖書の「ネヒミア記」に由来すると思われる名前で、実際スキップ・ジェイムスの父は牧師だったらしい。ただし、米式の発音はネヒミアではなくニーアマイアーになる。
P-VINEのCD2263。1931年、ウィスコンシン州グラフトンでの歴史的録音18曲を収めている。内4曲では、ギターではなくピアノを弾いている。繊細さの中にもどこか硬直な芯が通った演奏は聞き応え十分。ブルース・ファンには、スキップ・ジェイムスは苦手と言う人も多いが、わたしはブルース史上忘れてはならないミュージシャンの一人だと思っている。この録音はあまり売れなかったためかジェイムスはこの後ブルースの演奏をやめて、テキサスに移りゴスペルを歌っていたらしい。さらに、その後には自身も牧師になったという。1940年代から20年以上音楽活動から遠ざかっていたジェイムスだが、彼を尊崇するギターリストのジョン・フェイ(John Fahey)らにより1964年に見つけ出され、ふたたびブルースを演奏するにいたった。
BiographのLP12016。再発見された1964年の12月に録音された9曲を収録。この頃、ジェイムスはすでに体調を崩していたといわれ、そのためか声の張りを失っている。が、ギター・プレイは「さすが」と思わせるタイミングの絶妙さがある。この後、1967年にはエリック・クラプトンのいたクリームがジェイムスの[I'm So Grad]をカヴァーしてヒット・チャートにのせ、そのロイヤルティーで病気の治療をしたとも言われている。
DOCUMENTのCD5633・5634。1968年3月、インディアナ州ブルーミングトンで行われたコンサートの模様をスピーチを含めて収録。インディアナ大学のフォークソング・クラブの招きで行われたもので、若い聴衆を前にリラックスした好演奏をしている。ジェイムスのあたたかい人柄が、スピーチや演奏に表われているように感じられて、わたしの愛聴盤である。
ジェイムスの音楽は、「マイナー・ブルース」とも言われる。確かに、ギターのチューニングをノーマルから4弦5弦を一音上げて弾く曲は「オープンEマイナー・チューニング」にはなるが、実際は3弦1フレットをほとんど押さえて弾いているので、厳密にはマイナーとは言えないだろう。この1弦から3弦まではノーマルと同じ押弦で弾けるオープン・チューニングにより、ジェイムスは独特の情感を表現し、ファルセットでのヴォーカルと相まって他のブルース・マンとは違う世界を作り上げている。
この録音の翌年、1969年10月にジェイムスは癌のためフィラデルフィアで亡くなった。その翌年の1970年に、ベントニアのギターを受け継いでいたもう一人のジャック・オーウェンスは録音をレコードにすることになった。彼は、デイヴィッド・エヴァンスにより1966年に見出されていたのだった。次回は、そのオーウェンスを取り上げよう。