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わたしのレコード棚―ブルース54、Robert Lockwood jr.

2018年06月12日 | わたしのレコード棚
 ロバート・ロックウッド・ジュニアは来日回数も4度と多く、日本のブルースファンにとっては最も馴染みが深く、ブルース系のギタリストにとっては目標とされる一人と云える。生まれは、1915年3月アーカンソー州ヘレナの西に位置するマーベルあるいはターキースクラッチ、亡くなったのは2006年11月オハイオ州クリーブランドだった。91歳で亡くなるまで演奏を続けていたらしく、演奏家としても人としても天寿を全うした稀有な人だった。
 名前に関しては、ロバート・ジュニア・ロックウッドと呼ばれる事が一般的だが、これは母親の再婚相手だったロバート・ジョンソンからギターの手ほどきを受けた為で、出生名はロバート・ロックウッド・ジュニアになる。本人も、ロバート・ジョンソンからギターを教わったブルースマンとして有名になったことは本意では無かったらしく、ヨーロッパなどでロバート・ジョンソンの事ばかり訊かれるのは嫌っていたらしい。考えてみれば、ロバート・ジョンソンは、1911年生まれだからロックウッド・ジュニアとは4歳しか違わず、27歳で死んでいるので、ギターを教わった期間は短い。さらに、二人の演奏家としてのキャリアは、かなり差があり、ロックウッド・ジュニアの方がはるかに長く豊かだ。ギターの演奏技術も勝るとも劣らない、そんな人が、自分の事より若い頃ギターを教わった人の事ばかり訊かれれば、不機嫌にもなるだろう。

 最初の単独での録音は、1941年7月の「Take A Little Walk With Me」といわれ、これは『RCAブルースの古典』で聴ける。その後、1950年代60年代はチェスレーベルのバッキングギタリストとしてサニー・ボーイⅡのバックなどを多く務めている。その後、一時音楽から遠ざかっていたらしいが70年代に音楽活動を再開し、自身の名義になるレコードを残している。以下は、すべてアナログLP。



1972年、デルマークレーベルでのエイシスと共に行った記念碑的LP。これは、日本版P-ヴァインから出たものでPLP-736。このジャケットの写真に写っているギターは、グレッチというアメリカのメーカーのものだが、これを見てこれと同じタイプのギターを買いに走ったファンもいたという。


1974年11月にエイシスと共に来日した時のライブ録音。トリオのPA6024。背景に新幹線が写り込んでいる。この時のロックウッドは、体力・気力共に充実していたらしく、声に張りがありギターも冴えている。世界中の数あるブルースのライブ録音の中でも、秀逸と言っても過言ではないと云える。わたしは、この時高校3年で、なまいきにもブルースに興味を持ち始めていた時期で、このライブに行くつもりでいた。が、当時の国鉄(今のJR)のストがあり行くことが出来なかった。今でも残念だが、その後、1985年7月の読売ホール、1990年7月のサウンドコロシアムMZA、1995年12月の新宿パークタワー、と3回も生演奏を聴けている。このことは、幸運だった。


1982年11月にフランスのパリで録音された、アコースティック12弦ギターを使っての単独での録音。Black & BlueというレーベルのMU219。A面は、ロバート・ジョンソンのコピーを6曲。B面は、自身の曲やトラッドのアレンジを6曲。珍しく、オープンGチューニングでのスライド奏法もあり、彼のテクニックや音楽に対する姿勢を感じ取るには良い録音。


朋友とも云えるジョニー・シャインズ(Johnny Shines)と共作した1981年4月、マサチューセッツ州ニュートンでの録音。全体にソウルっぽい感じに仕上がっている。


ピアニストのオーティス・スパンが、1960年8月に録音したLP、CANDID9025。ロックウッドがギターを担当しており、冴えたバッキングが聴ける。

 以下、参考資料。


1985.7.10、有楽町にあった読売ホールの入場券。この時のライブ映像は後に『アーニーズブギ』としてビデオで発売されたらしいが、わたしは持ってない。



1990.7.22、サウンドコロシアムMZAでのコンサートの「お知らせ」。我ながら、よくこんなものをとってあったもんだ。サウンドコロシアムMZAは東京都江東区有明にあったが、この時は地下鉄東西線の東陽町からバスで20分くらいかけて行ったように記憶している。周りは大きな倉庫などが多かった。交通の便が悪いところだったので、この後しばらくして無くなったようだ。

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